社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

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浦田昌計「C. Th. Hermanの統計思想-その「統計批判」論を中心として-」『経済学会雑誌』第3巻第3・4号,1972年2月

2017-04-10 00:19:21 | 4-2.統計学史(大陸派)
 C.ヘルマン(1767-1837)は,シュレーツエルの下で学んだ国状派統計学者である。ドイツで生まれたが,ロシアで活動したので,ドイツの統計学史では取り上げられることはほとんどないが,ロシアの統計学者の間では高く評価されている。本稿は,ヘルマンがドイツ国状学派の統計思想をどのように継承発展させたかを,統計資料論と統計批判論に重点をおいて検討することを課題としている。

 筆者は最初に,ヘルマンの経歴を知りうる範囲で紹介している。1767年,ダンツィッヒで生まれ,1793年にロシアに移住し,後のロシアの大蔵大臣トゥリエフの家庭教師となる。その直前までにゲッチンゲン大学で「歴史,官房学,統計学」を学ぶ。ロシアに移住したその年に,陸軍第一幼年学校の「歴史,地理および統計学」の教師となる。1798年にアカデミー附属ギムナジウム(中学校)の校長に就任。1805年にペテルブルグ科学アカデミーの経済学および統計学の助手に任命される。1804年に「ロシア林業の歴史と現状」を執筆。1806年,高等師範学校の統計学教授に任命され,ロシア最初の「統計学雑誌」を創刊。1809年,『一般統計理論,この教科の教師のために』を発刊。1811年以降,ロシアの最初の統計機関となった警察省統計課(後の内務省統計課)の指導を委ねられる。1819年,高等師範学校がペテルブルグ大学に改組され,引き続き統計学の正教授。1818年以降,財政学も担当。1821年,ペテルブルグ四教授事件で告発され,大学から追放される。1827年に自由な活動を許され,1834年にアカデミーのの正教授として迎えられる。

 ヘルマンはシュレーツェルの影響を強く受け,統計学を政治的科学の一環として位置づけた。彼は統計学を狭義には顕著事項の記述としたが,広義には「ある一定の時期の国家の状態にかんする基礎的な知識」とした。国家の状態については,政府の状態と人民の状態とに区分し,後者を第一においた。ヘルマンはシュレーツェルのいわゆる「国家の基本力」(社会的経済的現象)の体系化を試みた。その背景にあったのは,シュレーツェルの啓蒙的国家観より進んだ市民的国家観,社会観である。また統計学の新しい段階をスミスに代表される政治経済学との結びつきにもとめたことは特筆できる。このような新しい統計学の課題にこたえる統計理論の中心的内容は,統計学=国状記述の指標体系の設定とそのための統計資料論(資料の批判的利用)であった。

 ヘルマンがシュレーツェルを継承して取り組んだのは,統計的認識の真実性の問題である。この点について論じたのが「ロシア統計のための材料,序説,統計的著作の効用および詳細な統計的情報に付随する困難について」(1806年),『一般統計理論』第4章「統計学の資料源泉について」(1809年)である。前者では,「下級警察行政機関の報告」を例に,その不完全さが指摘され,その原因の分析(書式の不完全性による回答の不完全性,写字生の誤読および下級職員の怠慢)が与えられている。ここではまた「統計批判」の実際的手順が予約列記されている。後者では諸種の統計的資料の真実性とその批判の問題が総括的に論じられている。『一般統計理論』第3章「統計学の典拠について」では,統計報告のイデオロギー的性格,下級官庁とその職員の故意あるいは怠慢にもとづく誤りとともに,被調査者の回答の不真実にもとづく誤差の問題,被調査者の利害の程度に言及している。
ヘルマンの統計学で扱われる資料は,その大部分が数量的資料であり,表式調査を中心とする政府調査の結果である。未整理な部分があるとはいえ,1806年と09年の論文によって,統計調査結果の吟味批判の主要な論点は提示されている。ヘルマンの「統計批判」論は,シュレーツェルから彼が学んだものであり,その本格的な展開であった。このことは,「統計批判」が国状学派統計学の共有財産となりつつあったことの証左である。同時にヘルマンはその厳しい統計批判論をもちながら,統計に対する懐疑論,否定論に一貫して反対した。筆者は最後に次のように述べている。「われわれはこのヘルマンの楽観的な言明が,単なる主張ではなく,彼のロシアにおける現実の統計的資料にもとづく諸研究によって裏づけられていることを見なければならない。そしてまた,これらの研究がロシアにおける「国家の状態」,「諸階級にあいだの関係」の解明をその究極の主題とし,結局,統計学がそれを通じてロシアの農奴制社会の矛盾とその改革の必要をあきらかにしうることに彼がはっきりと確信をもっていたことと無縁ではないであろう。この統計的研究を支えるものが,彼にあっては,スミスに代表される新しい社会科学をふまえた統計理論そして「統計批判」であった」(136頁)。
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