「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

新富町について考える。

2013年06月15日 12時12分17秒 | 人々
 僕の好きな版画家の海野光弘さんの実家は静岡市の新富町にある。今はギャラリーというか、ふつうの民家として存在している。海工房(かいこうぼう)というのがそれだ。最近その界隈を歩く機会があった。新富町とか田町、弥勒といった町はいわゆる安倍川の大改修の後にできた町が多いようで、(弥勒は定かではないが)地図上の区割りを見ると、街区が駿府城近辺の道の通り方が南北に対して菱形を形成し、それに合わせて相似形をなしているのに対し、安倍川界隈は安倍川に沿うように、きれいな長方形をなしている。田町、新富町でいうと静岡商業高校卒業の方々にとっては、庭のように感じる場所である。今回僕が歩いた箇所は職人の町、もしくは町工場の町の印象が強く、下駄や、ひな人形、(家具や仏壇もあるかもしれない)制作を職業としている人が多い。もしくは多かった。今は閑静な住宅街といった印象だが、ところどころに昭和を感じさせる箇所があり、僕らのようなものをホッとさせる雰囲気をもっている。海野さんの家は染物屋を家業とし、「紺豊」といって盛期にはかなりの人数を使っていたらしいと本で読んだ。どちらにしろ浅学の僕には茫洋とした風景になってしまっている。静岡には何十回と来ているし、3年ほどは駅南ながら住んでいたことある。でも全く分かっちゃいなかったのだと思うのである。
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2 コメント

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新富町など (あおい君)
2013-06-26 04:37:33
1909(M42)年、静岡市に合併するまで新富町は南賎機村の安西内新田、田町は同、安西外新田という、いわゆる駿府市中の「町」ではありませんでした。
ただ、合併以前から安倍川沿いということで木工関係の家内工業が盛んだったようです。
(そのため、昔から火事が多い地域で、1940(S15)年の静岡大火の火元も新富町二丁目)
今のさつま通りは、1960年ごろまで土手になっていて下駄の木地を乾燥させるため、タワー型に高く積み上げられた風景が見られました。
弥勒は、駿府市中ではないものの、江戸期から弥勒町という村相当ながら町付きで呼ばれていたようですから、けっこう栄えていたところのようです。
(弥勒の宮崎家は、市中の尾崎家、野崎家とともに「静岡の三崎」と言われる家柄で、明治初めの初代安倍川橋は宮崎家が私財を投入して架けられたとか・・・)
以上、とりとめもない話で失礼しました。
ご無沙汰してます。 (aniki)
2013-06-26 10:49:23
コメントありがとうございます。海野光弘さんの評伝を読んでいて土手の名残の話を読んで何処だろうと思ってましたのでさつま通りとわかってありがたかったです。海野さんは昭和14年生まれですので、静岡大火も記憶に無いながら、経験してるんですね。
弥勒の三崎の話も初めて知りました。同僚に小股という名字でおじいさんが風水師だったそうで、風水的には川の流れを変えたのは発展を妨げるものだとか言っていたそうです。また時々更新しますので宜しくお願いします。

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