「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

南大門焼ける!現代に生きる人の責任について

2008年02月11日 23時07分27秒 | 文化論


 辛いだろうな、韓国の人は。僕らは高松塚古墳の壁画にカビが生えて随分と残念な思いをしたけど、そういうレベルでは無いんだろうね。ただ歴史を次代につなげて行かなくちゃいけないのに、それが自分の次代に喪失させてしまって、どうも申し訳ない感じでは同じなのかもと思ってみたのです。金閣寺が焼失したときもおなじような気持ちだったのだろうか。歴史的価値からいったら近いものがあるかもしれません。でも大きな街のど真ん中にあって、都市の象徴みたいなものだとすればフランスの凱旋門並なのかと思う。日本は城壁国家じゃないんで、それに相当するものを探すのは難しいけれども、街の象徴という意味では浅草雷門とかがそうなるのかな。それとも東大寺かな。歴史は浅いけれども東京タワーを失うくらいの喪失感は感じているのかもしれませんね。
 歴史的建造物を失うってのは、とても残念で、僕のように城好きの人にとっては城郭がある街と無い街とでは同じ城下町と言っても随分と印象が違うのです。小さいときから、駿府公園に駿府城がないのが、なぜか悔しかったし、やや長じてホントはお堀がもっとあったのだけれども、旧日本軍によって堀を埋め立て、連隊本部にしちゃったという話を聞いて、それだけで戦争のばかばかしさを感じたことを思い出しました。他の県にはお城や武家屋敷の門が、そのまま学校の校門だったりするのを見ると、とてもうらやましく感じた覚えがあります。
 僕が住んでる田舎にはそれでも代官屋敷や庄屋さんのお屋敷が残っており、家の屋号めいたもので、「隠居」とか呼ばれている家があったりして、少しは歴史を感じたりするけれども、静岡市内の歴史的建造物って、山田長政の家の他に何があるんだろうって思うと、街のシンボル的歴史的建造物に乏しい感じがする。これも静岡空襲という人災のせいだとすれば、戦争のバカバカしさは僕らから歴史意識をも奪ってしまったことになる。
 

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2 コメント

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駿府城下町 (あおい君)
2008-02-12 07:35:11
静岡の街は、本当に城下町らしさが残っていませんね。
駿府城関連の建造物で残っているものといえば、静岡市立高等学校(千代田三丁目)に保存されている「田安門」ぐらいかもしれません。
1940年の静岡大火と1945年の静岡大空襲で城下町の面影はことごとく失われてしまったので、仕方がないのかもしれません。

現在の常磐公園前の道は、戦前は「寺町通り」で、この道の西側は本通方から寺町一丁目、二丁目、三丁目、四丁目と続く多くのお寺が並んでいたところでした。
この寺院群は、戦後、沓谷地区(静鉄長沼駅北方)に集団移転させられて、普通の平凡な街並となってしまいました。(それでもいくつかのお寺が残っています。また、寺町の一番南側に位置していた、戦前はとても大きな寺だったという宝台院の山門は、大正時代に菊川の応声教院に移転させたため無事残っているそうです。)
「寺町」だけでも残っていれば、もう少し城下町らしさがあったのではと残念です。(ヨーロッパなどでは空襲にあった街並を忠実に再現させているとことが多いようですが、当時の日本の都市計画では、経済優先の考え方しかなかったのでしょう。)

しいて、静岡の城下町らしさを探すとすれば、駿府城南西面の碁盤の目地区の「町割り」ぐらいかもしれません。
この地区は、正確に一丁(約109m)ごとの正方形の町割り(現在、呉服町通り・両替町通りなどと平行な道は半丁ごとになっていますが、これは大火後、間に道が新設された結果です。)となっていて、通り沿いに「○○町○丁目」と町名が付けられて、「丁目」は文字どおり「1丁」ごとでした。(戦後、呉服町一~六丁目を一、二丁目に集約するなどして、町名の原則はくずされてしまっていますが、「呉六商店街」などという名称に名残があります。)

駿府城天守閣については、ぜひボクの生きている間に再建されることを切に願っています。(でも、無理かも・・・・)


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駿府城が (aniki)
2008-02-12 22:13:10
再建されると良いですね。しかも今という次代を考えると、コンクリート製で博物館なんか他の再建城郭と同じでメンテナンスの費用なんかでないと思うので、なにか別のアイデアが必要かと思いますね。
 それから長沼北の寺町についてのご教示ありがとうございました。常々不思議に思ってました。義弟が長沼にいますし、自分も静岡の有東に住んでいた頃、カミさんの仕事が瀬名でしたので、抜け道として墓地群の中を通って行ったことがあります。夜はあまり気分の良いところではありませんが、それよりもなぜこんなに集まっているんだろうと思っていました。土地として「長沼」という地名は低湿地を想像させますが、寺町としても墓地としても適合地だったかどうか疑問が残っていました。護国神社はまた別格だと思いますが、あそこも人を寄せ付けない感じがありますね。

 それから静岡市立高校の門のことは知りませんでした。機会があれば見に行きたいと思います。応声教院は僕の地元でありながら不勉強でした。県の文化財になってますね。それから街区に残っているお寺が悉くコンクリート製なのに意外と権威がある風な景色が記憶にあったのですが、その謎も少し解けた感じがします。
 せめて旅館とか料理屋とかの建物や街区が残ってくれていても楽しいんでしょうが、浮月楼も当時のままじゃないですしね。そこにいるとタイムスリップしたような気分が味わえる場所があればいいなあと思います。次代は全然違いますが、カミさんが駒形通りが気分的に好きなのも、そういう部分があっての事じゃないかと思います。
 おでんフェスタをやっていたそうですが、僕らにとっては新奇な感じですが、あおい君さんにとっては少し昔に戻った感じなのでしょうか。
 またなにかあったら教えてください。
 
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