1969年にデビューした「薄幸の美少女歌手」藤圭子は、メジャーでありながら60年代そして70年代の歌謡業界の中の負の部分が、露呈したかのようなシンガーだった。たしか、当時ジャズファンだった五木寛之が名付けたと記憶する「怨歌(えんか)」と言う命名がそれをよくあらわしている。
歌謡曲の中には「負の系譜」が綿々と存在する。作者不詳のヒット曲があるのだ。少年院(鑑別所と言った)や軍隊で歌い継がれてきた歌、その替え歌などなど。
「演歌」そのものがもともと演歌師が歌った社会諷刺の演説歌からきている。まつりごと(政治)の中味を伝え、文字も読めなかった民衆にわかりやすくメッセージを伝えた。このふたつの系譜の中にあるいわば反社会な部分、そして抵抗者の部分が歌謡としての「怨歌」なのである。
「怨歌」は70年代初め頃まで、民衆のルサンチマンをひろいあげ、救うものと言われてきた。藤圭子はメジャーの歌手でありながら、もうひとりの藤である藤(冨司)純子、梶芽衣子などとともに全共闘世代のアイドルでもあった。
まして藤圭子の場合、地方出身者の吹きだまりで同時に若者文化の発祥地でもあった「新宿」を背負ったかのようにデビューした。「新宿の女」である。ついで歌われた「圭子の夢は夜ひらく」は園まりなどとの競作となったが、原曲はネリカン(練馬少年鑑別所)で歌われてきた歌から採譜し、歌詞を替えたものだった。藤圭子はその出自にまつわる暗い情念とともに、民衆のルサンチマンを慰撫し、ときには鼓舞もした歌手だった。
(藤圭子の訃報にふれて)
歌謡曲の中には「負の系譜」が綿々と存在する。作者不詳のヒット曲があるのだ。少年院(鑑別所と言った)や軍隊で歌い継がれてきた歌、その替え歌などなど。
「演歌」そのものがもともと演歌師が歌った社会諷刺の演説歌からきている。まつりごと(政治)の中味を伝え、文字も読めなかった民衆にわかりやすくメッセージを伝えた。このふたつの系譜の中にあるいわば反社会な部分、そして抵抗者の部分が歌謡としての「怨歌」なのである。
「怨歌」は70年代初め頃まで、民衆のルサンチマンをひろいあげ、救うものと言われてきた。藤圭子はメジャーの歌手でありながら、もうひとりの藤である藤(冨司)純子、梶芽衣子などとともに全共闘世代のアイドルでもあった。
まして藤圭子の場合、地方出身者の吹きだまりで同時に若者文化の発祥地でもあった「新宿」を背負ったかのようにデビューした。「新宿の女」である。ついで歌われた「圭子の夢は夜ひらく」は園まりなどとの競作となったが、原曲はネリカン(練馬少年鑑別所)で歌われてきた歌から採譜し、歌詞を替えたものだった。藤圭子はその出自にまつわる暗い情念とともに、民衆のルサンチマンを慰撫し、ときには鼓舞もした歌手だった。
(藤圭子の訃報にふれて)
旅の浪曲師の父、三味線弾きで盲目の門付芸人(その実はゴゼさん)の母??その血を受け継いだ幸薄い美少女。その民衆のルサンチマンを体現したかのような歌い手は、あの頃のまだ流しのいた新宿にこそふさわしかったのだと思います。
まさしく、騒乱の時代の時代性をちいさな身体で背負った怨歌のディーバ!
惜しみます。哀悼します!