雑感 独り善がり

日々の思いや怒りを自分勝手な考えで綴る

1人でも殺したら死刑を望む

2018-05-16 23:24:52 | 社会
ずーっと思っていることだが、死刑に反対している人たちの反対する理由は何?
人が人を裁いてはいけないと言うこと?
死刑でなくても裁判と言う制度がある以上どういう罰であれ、人が人を裁いているよね?
死刑の判決だけがいけないと言っているのか?
ならばその理由は何?

冤罪は別として、目撃されているとか自供と状況証拠・物的証拠が揃っているとかの、殺したってことが明確な
場合は、人が人を殺した場合は死刑でいいんじゃないの?と思うのだけれど。
死刑にしたところで殺された人が戻って来る訳じゃない。それは分かっている。
でも、身内を殺された遺族は、犯人には極刑を望むでしょ?多分。
大事な人を殺された悲しみ・怒り・憎しみ、その他諸々、いくら相手が死んだって消える訳では無い。
そんなもんじゃない。
でも人の命を奪うと言う極悪非道な行いには、何度も何度も繰り返し死刑にしたって足りない位だと思う。

人を殺したんなら自分も死ななければならないのが道理ってもんだ。
何で無期懲役とか懲役〇〇年とかで済むの?意味分からん。
そして何人殺したから死刑だとか、1人しか殺してないからどーだとか、そんなの関係無いでしょ?数なんて。
おかしいんと違う?どうしたらそういう考えに至るのか教えて欲しいわ。
1人でも殺したら死刑だよ。生かしている方がおかしい。
人の命を奪う、人の人生を抹殺する。そんな権利なんて誰にも無い。犯される理由もない。
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5 コメント

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【罪の重さを正当に量り、連続殺人を防止し、社会の安全を守る】  (三角四角)
2018-05-19 06:01:27
 一人殺しても死刑と云う事は、百人殺した人と同じ刑罰でしょう?

 後者の方が、罪が重たい筈なのに、同じ刑罰を加えるのは、不合理だと思います。

 また、犯人が、一人殺した場合、一人殺すも二人殺すも同じと自暴自棄になって、犠牲者が多くなる可能性があると思います。 

 例えば、バスジャックした犯人が20名居る乗客の一人を誤って殺してしまった場合、どうせ、死刑になるなら、一人も20名も同じと全員道連れにされる事にも成り兼ねません。

 連続殺人を抑止する為にも、一人殺したら機械的に死刑にするのは反対です。
三角四角さんへ (angry4444)
2018-05-19 12:57:32
コメント有難うございます。
連続殺人を防止し、社会の安全を守るというロジックは理解しました。どうせ死刑になるなら何人殺しても同じと自暴自棄になり犠牲者が増えるかも・・という説明は分かり易くて仰る通りかも知れません。
ただ私は、1人殺すより100人殺す方が罪が重いとは思えないのです。1人であれ100人であれ、人を殺すと言うこと自体にそれ以上無い重い罪があると思っています。加害者に取れば100人かも知れませんが、遺族に取ればたった1人の大事なひとです。皆誰もが夫々、その存在自体が唯一無二のものなのです。だから、何度も何度も死刑をという言い方しか考えつかないのです。
死刑の方法を変えると言うのはどうでしょう。より残酷な死刑の方法に。
人を殺めた人が生きながらえるってこと自体が理不尽に思えます。死刑囚はどんなに覚悟が出来ていた様に見えても、執行の日、いざ呼ばれると震えると聞きます。死ぬのが怖いんでしょう。でも、被害者はそんな怖い目に遭わされたのです。どうやって償うのでしょうか・・?
【法も社会も、いろいろな立場の国民の為に在る。】  (三角四角)
2018-05-22 18:30:47
『ただ私は、1人殺すより100人殺す方が罪が重いとは思えないのです。1人であれ100人であれ、人を殺すと言うこと自体にそれ以上無い重い罪があると思っています。加害者に取れば100人かも知れませんが、遺族に取ればたった1人の大事なひとです。皆誰もが夫々、その存在自体が唯一無二のものなのです。だから、何度も何度も死刑をという言い方しか考えつかないのです。』


 殺人という罪に対し、刑法は三つの刑罰を用意しています。

 一つ目は死刑、二つ目は無期懲役、三つ目は5年以上の懲役です!

 ですから、一人殺人したら、どんな場合でも、死刑というのは、法を無視していると思います。



『死刑の方法を変えると言うのはどうでしょう。より残酷な死刑の方法に。』


 残念ながら、残酷な死刑は、憲法によって禁じられています。


【 (拷問及び残虐な刑罰の禁止)
日本国憲法 第36条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。】



『人を殺めた人が生きながらえるってこと自体が理不尽に思えます。死刑囚はどんなに覚悟が出来ていた様に見えても、執行の日、いざ呼ばれると震えると聞きます。死ぬのが怖いんでしょう。』

「人を殺めた人が生きながらえるってこと自体が理不尽に思えます。」


 そう思うなら、刑法自体を改正しなければ成りませんね!

 再度言いますが、刑法は、 「人を殺めた」らと言って、必ず死刑にするとは言ってませんから。


【 (殺人)
刑法 第百九十九条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。】



『でも、被害者はそんな怖い目に遭わされたのです。どうやって償うのでしょうか・・?』


 難しい問題ですね。

 少年犯罪とか、精神錯乱中の場合は死刑にしないという問題も在ります。

 でも、死刑という刑罰は、刑罰の中でも唯一、不可逆的刑罰ですから、死刑執行してから、冤罪が発覚しても、もう、どうにも成りません。

 無実の人を処刑して、真犯人も処刑すると、一人の被害者に対し二人の命を奪うことになるのです。


 また、「目には目を、歯には歯を」と云う野蛮なやり方は日本人には受け入れられない様に思えます。


以下
(参考)

【 プロローグ 冤罪はつくられる

 〔ロフタスの警告〕

 「三ヵ月前の午後二時ごろ、あなたは何をしていましたか」「ちょうど一週間前、駅前であなたは誰とすれちがいましたか」

 ある日、捜査員がこのような問いかけをしてきたとき、わたしたちは、はたして正確に答えることができるだろうか。

 1979年、アメリカの心理学者エリザベス・ロフタスは、『目撃者の証言』という目撃記憶についての先駆的な研究書を発表する。

 この書において彼女は、多くの心理学の研究や事例から、私たちの目撃記憶は曖昧(あいまい)で大変不正確であり、この目撃記憶をそのまま信じることは問題であると指摘した。

 このロフタスの研究は欧米の心理学会に衝撃をあたえた。

 目撃証言がどれくらい不正確であって、そのメカニズムはどのようになっているのか、といったことが専門家はもちろん、法曹関係者をもまきこむ形で大きな関心を集めた。

 そして現在、欧米においては証言心理学とよばれる分野が確立されるまでになったのである。



〔「犯人の横顔と後ろ姿を見ている」〕

 記憶とは不正確なものであるという指摘にたいし、つぎのように考える人もいるだろう。

 目撃者が、事件そのものを事件としてはっきりと意識せずに目撃した場合には曖昧であるかもしれないが、目撃者が事件に直面し、目の前で犯人の顔を見た場合には、不正確な記憶や変容などは起こりえないのではないか、と。

 しかし、つぎの事例をどのように考えればよいだろうか。

 ある日の午後11時すぎ、男が家に押し入って、熟睡中の女性の頸部(けいぶ)を鋭利な刃物で突き刺し、殺害するという事件が発生した。

 その当時、おなじ部屋には、被害者の実母と子どもが就寝していた。

 そして、母親は、自分の目前で娘が押し入った犯人に殺されるのを目撃したのである。

 男はその直後、部屋から飛びだして逃走した。

 母親はこの事件について供述し、面通(めんとお)し(容疑者が犯人であるかどうかを確認するために、目撃者が容疑者の顔を見ること)をおこなった。

 母親は、確信を持って容疑者を犯人として特定した。

 供述調書によると、母親は、「犯人の横顔と後姿をみれば、その人が犯人であるかどうかの判断がつくと思う」(判例時報819号)と述べ、面通しで被告人を見たときに、被告人が「犯人と全く同じであり卒倒する様な感じであった」と述べている。

 そこで、その男性を被告人として、裁判がおこなわれた。

 その結果、被告人に懲役15年の有罪の判決が下され、刑が確定した。

 男性は判決にしたがって服役(ふくえき)した。

 しかし、この判決から19年後、真犯人があらわれたのである。

 この事件の時効が成立した後になって、男が自ら「真犯人は自分である」と名乗り出たのだった。

 男はこの事件の際に、手口が似通っていることで取調べを受けていた人物であった。

 そして、高等裁判所はこの真犯人と名乗りでた者の供述を検討した。

 その結果、供述と事件の客観的事実が合致し、信憑性(しんぴょうせい)はきわめて高いと判断し、再審開始が決定された。

 目の前で犯行を見ていた母親の目撃記憶は、正しくはなかったのである。

 弘前大学教授夫人殺人事件とよばれるこの事件は、目撃者が犯人を目前で見ていたとしても、また確信を持って証言していたとしても、その記憶がそれほど正確でもなく、時間とともに変容してしまうことを示している。

 なぜ、このような記憶の変容が生じるのであろうか。


 以上 「嘘をつく記憶」

 目撃・自白・証言のメカニズム

 2000年1月10日発行

 講談社

 講談社選書メチエ175

 菊野春雄 著

 プロローグ 冤罪はつくられる

 〔ロフタスの警告〕
 〔「犯人の横顔と後ろ姿を見ている」〕より引用 】
再度 三角四角さんへ (angry4444)
2018-05-22 22:31:37
1人でも殺したら死刑にして欲しいと言うのは個人的な意見であり希望です。勿論、法に則って裁判で量刑を決めればいい話ですし、そう簡単には死刑にならないのが現実です。
そして、冤罪の場合は別ですと言ってます。殺したと言うことが明確な場合と断っています。
殺された人の人生は抹殺されているのに犯人が死なないと言うのは不公平で理不尽だなと感じているだけです。

【人生いろいろ、人それぞれ】 (三角四角)
2018-05-23 18:07:22
『1人でも殺したら死刑にして欲しいと言うのは個人的な意見であり希望です。勿論、法に則って裁判で量刑を決めればいい話ですし、そう簡単には死刑にならないのが現実です。』


 分かりました。

 どうにもならない理不尽さに、叫びたい気持ちなのですね。

 私としては、想像するしかないですが、我が身に降りかかるまで、本当の気持ちは分からないでしょう。



『そして、冤罪の場合は別ですと言ってます。殺したと言うことが明確な場合と断っています。』


 本ブログコメント欄

【法も社会も、いろいろな立場の国民の為に在る。】より引用 


【 プロローグ 冤罪はつくられる

〔「犯人の横顔と後ろ姿を見ている」〕

 記憶とは不正確なものであるという指摘にたいし、つぎのように考える人もいるだろう。

 目撃者が、事件そのものを事件としてはっきりと意識せずに目撃した場合には曖昧であるかもしれないが、目撃者が事件に直面し、目の前で犯人の顔を見た場合には、不正確な記憶や変容などは起こりえないのではないか、と。

 しかし、つぎの事例をどのように考えればよいだろうか。

 ある日の午後11時すぎ、男が家に押し入って、熟睡中の女性の頸部(けいぶ)を鋭利な刃物で突き刺し、殺害するという事件が発生した。

 その当時、おなじ部屋には、被害者の実母と子どもが就寝していた。

 そして、母親は、自分の目前で娘が押し入った犯人に殺されるのを目撃したのである。

 男はその直後、部屋から飛びだして逃走した。

 母親はこの事件について供述し、面通(めんとお)し(容疑者が犯人であるかどうかを確認するために、目撃者が容疑者の顔を見ること)をおこなった。

 母親は、確信を持って容疑者を犯人として特定した。

 供述調書によると、母親は、「犯人の横顔と後姿をみれば、その人が犯人であるかどうかの判断がつくと思う」(判例時報819号)と述べ、面通しで被告人を見たときに、被告人が「犯人と全く同じであり卒倒する様な感じであった」と述べている。

 そこで、その男性を被告人として、裁判がおこなわれた。

 その結果、被告人に懲役15年の有罪の判決が下され、刑が確定した。

 男性は判決にしたがって服役(ふくえき)した。

 しかし、この判決から19年後、真犯人があらわれたのである。

 この事件の時効が成立した後になって、男が自ら「真犯人は自分である」と名乗り出たのだった。

 男はこの事件の際に、手口が似通っていることで取調べを受けていた人物であった。

 そして、高等裁判所はこの真犯人と名乗りでた者の供述を検討した。

 その結果、供述と事件の客観的事実が合致し、信憑性(しんぴょうせい)はきわめて高いと判断し、再審開始が決定された。

 目の前で犯行を見ていた母親の目撃記憶は、正しくはなかったのである。

 弘前大学教授夫人殺人事件とよばれるこの事件は、目撃者が犯人を目前で見ていたとしても、また確信を持って証言していたとしても、その記憶がそれほど正確でもなく、時間とともに変容してしまうことを示している。

 なぜ、このような記憶の変容が生じるのであろうか。


 以上 「嘘をつく記憶」

 目撃・自白・証言のメカニズム

 2000年1月10日発行

 講談社

 講談社選書メチエ175

 菊野春雄 著

 プロローグ 冤罪はつくられる

 〔「犯人の横顔と後ろ姿を見ている」〕より引用 】



 を見て頂ければ、分かると思いますが、 「弘前大学教授夫人殺人事件」の容疑者は、被害者の母親が目撃している正に目前で 、「殺したと言うことが明確な場合」であった(真犯人と容疑者を勘違いして取り違えたか、または、記憶が変容してしまった)ので、殺人罪で有罪と成ったのです。

 でも、死刑では無く、懲役15年だったから、真犯人が出てきた時に、冤罪を晴らす事が出来ました。

 これが、死刑だったら、真犯人が出てきても、救いが在りません。

 冤罪は、真犯人が現れるか、決定的な証拠が現れるまで、有罪なのです。

 そして、真犯人か有力証拠が現れて、冤罪と証明される前に、死刑が執行されてしまったら、殺人の被害者と同じ位悲惨なのです。

「そして、冤罪の場合は別ですと言ってます。」

 何が別なのか分かりません。

 冤罪と判明する前に、死刑が執行されたら、何が別なんですか?

 何の落ち度の無い、殺人被害者への共感は分かるのですが、同じく何の落ち度の無い冤罪者に対する冷たい視線には憤りを感じます。


『殺された人の人生は抹殺されているのに犯人が死なないと言うのは不公平で理不尽だなと感じているだけです。』


 貴方の言う事は分かる様で分からないです。

 まさしく、いろいろな状況があるわけでしょ。

 強盗殺人とか、保険金殺人とか、業務上過失致死や、単純な過失致死や、徹底的に虐められたから反撃に出たら死んでしまったとか。

 色んなケースに対処する為に、死刑以外の罰があるのです。

 その違いを無視して、全部死刑にしろと云うのは賛成出来ません。


 不公平で理不尽と言いますが、人間に生まれたこと、動物に生まれたこと、日本人に生まれたこと、シリア人に生まれたこと、優しい両親に育てられたこと、子供嫌いの両親に虐待されたこと。

 東日本大震災の際の津波に呑まれた人、家族に囲まれながら穏やかに人生の幕を降ろせる人。

 不公平で理不尽なことは、沢山在るのではないでしょうか?

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