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ZOOM「日本中世の浄土教・・・」

2021年09月03日 | ZOOM

浄土宗というとまず法然の名前が浮かび、南無阿弥陀仏を10回唱える宗派だという認識しかもっていない。

ただいま在学しているところは「密教学」という分野であり、勉強するのはほとんど真言宗のことばかり。

静岡にはまず真言宗のお寺がめったに見つからず、曹洞宗が圧倒的に多く、つぎが臨済宗、浄土宗、日蓮宗など。

親戚はほとんど曹洞宗で、こどものころから曹洞宗の葬儀だけしか参列してこなかった。

若干最近になって浄土宗に多少のかかわりをもつようになったのだが、上記の如く、まるでなにも理解していない。

今夜のZOOMの**仏青短期講座ではテーマが「法然浄土教の継承と発展」というもので、聴講して大変勉強になった。

南無阿弥陀仏を一回念仏すれば浄土に往生することができるという「一念義」。

それでは浄土といえども念仏の回数が少ないと辺地に行ってしまうからたくさん称名したほうがいいという「多念義」。

(浄土も広いので仏心のレベルで辺地と報土の差が生じるということもあるのか)

その他、「西山義」、「鎮西義」、「諸行本願義」など全部で五つの流派があるらしい。

日蓮が警戒心をもっていたというのはそのうちの「多念義」だそうだが、現代は主流が鎮西義と西山義だとか。

芝増上寺は鎮西義、永観堂は西山義。

「破立無窮(はりゅうむきゅう)」

浄土宗において。互いに法然の教理を継承していながら、相手の立場を破したり自己の立場をたてたりすること。

法然門下の諸派のなかでも、多念義はとくに批判されることが多く、社会的影響力も大きかったため思想弾圧の対象となった、とされる。

最後に質問コーナーがあり、「南無阿弥陀仏と唱えることを釈迦が言ったかどうか」と疑問を投げかける質問者がいたのだが、法然の時代に釈迦がどのようにとらえられていたかは、現代の情報社会で研究されている釈尊の姿とは違っていて当然なのだろう。

 

ナーガールジュナのわけのわからない『中論』に「うんどうの法則」というのがあって、「いまだ去らないものは去らない、すでに去ったものも去らない、去りつつあるものも去らない」とかもう無茶苦茶こんがらかります。

3つのうちの2つはわかるのですが、最後の「去りつつあるものも去らない」なんて何を言いたいのやら。

現在、過去、未来のうち、未来と過去は「去らない」ですが、現在去りつつあるものを「去らない」と否定するとしたら、つまり現在という時間は一瞬でも止まっておらず、スローモーションにしてもとにかく未来に向かって動き続けているわけで、「現在」という時間はとどまって存在していないので「去らない」と解釈していいのでしょうか。

 

明日はサンスクリット中級があります。

通信教育はスクーリング以外は自力で読書して答えを探すしかないですが、オンライン講座は先生の生の声でたっぷり90分講義してくださるし、質疑応答もあり、資料は事前事後にしっかりと配布してもらえます。

開始の5分前まで台所でお茶碗を洗っていても授業に間に合い、お化粧など身繕いをする必要もなく、交通費が一切からない。

資料は印刷しただけでも数百枚くらいにはなっていると思う。

ただ内容がサンスクリットのほかはアビダルマ、近代仏教などなぜか見事に密教が抜けているのが難点で、つまりレポートに使えそうなフレーズがなかなか出てこないのです。

 

 

 

 

 

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