私の実の弟の嫁Eちゃんの父親は昨年初め癌の宣告を受け、余命6カ月と言い渡されました。
86歳という事もあり、内密にしていたのですが本人の知るところとなりました。
しかし、ご本人はいたって無頓着というか、別段ふさぎこむ事もなく(さすが大物!)、それよりもお母さんの方が
腰の痛みで動けなくなり、たよりの同居の息子夫婦は精勤に共稼ぎを続けるもので、
末期癌のお父さんがお母さんを介護している状態でした。
結構その様子を聞くと笑っちゃう事もあり、使命がある事が良いようでした。
抗がん剤治療など、癌に対しての治療は受けず自然にまかされたようです。
そして、運命のこの日、朝ごはんをすませ、食卓で椅子にかけている時に「うーっ!」
っと倒れられて逝かれたのです。
皆さんのあこがれの亡くなり方でございました。
Eちゃんのお里は山形県鶴岡、日本海に面したすばらしい所です。
でもこうなると、なかなかこちらから行くのは大変。
今までも1年に1~2回行ければよい方でした。
Eちゃんに後悔のないように行けるだけ行ってあげるようにこちらの家族で後押し。
このお正月明けもEちゃんが「山形へ週末いってきまぁす」と言うので、まだまだ頑張っておられると思っていた矢先、
訃報が届きました。
山形くんだりから阪神間へ嫁いでくれた事をいつも感謝してましたから、ましてやこれから母を見てもらわなあかんので
私もお悔やみに出かけました。

得意のピーチを予約、仙台へ・・・
ところが大雪ということを忘れていた。
主人の母が「それはアイゼンがいる!」と。
そこまでは、と思ったけれども母の気遣いを頂戴してリュックへ…


さあ、靴はぬれてもいいように、足首まである古のバスケシューズ???

いざ、大震災の地、仙台空港へ、さすが飛行機、東北ってこんなに近いんや。
太平洋側から日本海側へは山越えの高速バスで。

そのバス停までは電車もあるけどバスの時刻に間に合わないので張り込んでタクシーを、これも予約してましたので
空港ロビーへ出ると「○○○○様」と書かれた札を持って運転手さんが待ってくれてました。
もう、20時くらいだったので、あたりは真っ暗。
運転手のおじちゃんに「ここに津波が来たのよね」と聞くと、「そうです!、この高速の土手で止まりました。この高速へ上がれ
るように階段がいくつも震災後作られています」と。
運転手さんはその日は内陸の自宅で難を逃れたと。
そして、復興はまだまだ、今はオリンピックに人手が取られて一向に進まないらしい。
実に悲しい。これでいいの?
さあ、バスに乗り山越え。
仙台の街は夜。でも、美しい!

そして、高速へ雪が現れる


山越えで約3時間、この時間に眠る予定が、隣の席に乗り合わせた若いお母さんが親切で親切で。

約3時間、東北を語ってくれました。
転勤族の彼女は今、福島県で住んでいる。
消費税が8%になる前に鶴岡に家
を建てるんだとか。
70坪に30坪の家、おおすごい!
雪が落ちてもお隣に迷惑をかけない作りを心がけるとか、関西では到底考えられない配慮ですなぁ。
そんな彼女とバイバイして深夜、鶴岡到着。
ビジネスホテルで宿泊。
小さいながらも温泉有り、気持よかったあ!
夜が明けて窓の外は・・・

こんな感じ、さぶそう

身支度すませて、メモリアルホールへ
このたび、お父さんを亡くした嫁のお母さんと私の母、何やら、未亡人同士で意気投合。

いよいよ、式が始まる。

土地柄、内容も少し違い、一番驚いたのは孫が亡くなったおじいちゃんに弔辞を述べたのです。
同居していた子と、私の弟の息子。
男子二人がおじいちゃんとの思い出を語ります。
共稼ぎの親代わりに毎日、保育園の送り迎えをしてもらった。
高校野球を見るのが大好きで、弟の家へ山形チームを応援に来るのが例年の行事となっていました。
その連れがこの孫で、いつもおじいちゃんに手をひかれ甲子園へ通いました。
今春就職が決まった彼は思わず涙があふれ、「僕が稼いだお金でおじいちゃんの手を引いて甲子園へ行きたかった。それが悔やま
れてならない」と。
後で弔辞の事をたずねると本来ならばおじいちゃんの友人にお任せするのだが皆さん他界されたり、施設に入られたりとても頼め
ないのでという事でした。
しかし、私たちには子どもたちにとり、おじいちゃんぶりが想像され、良い絆が作られていたのだなあと胸うたれました。

弟の息子は、こうも言いました。
「もし、クラスにおじいちゃんがいたら、絶対に友達になっていた!」と。
おじいちゃん冥利につきますなぁ。

友引に亡くなったおじいちゃんは、通夜を延ばし、この地方にのっとり丑の日、子の日を避けて翌日に通夜、翌々日に火葬、
翌々々日に本葬となりました。
身内の長い合宿も終わりでお名残り惜しいと誰もが声を掛け合いなごやかにお開きとなった。
その後、弟の嫁の育った街をドライブ、、、だって雪で歩けないし。

当店NO1、売れ筋の「のびのび」の生産地である庄内平野。
まさに、平野、ずーっと先まで雪原。という事は田んぼですねん。

すごいわ、米どころ。

そして、日本海の荒波 米屋発見。

帰路、月山を横目に。
飛行機を利用するとこんなに近い東北。
いつか、落ち着いて尋ねてみたい。
東北人の熱い思いにふれた旅でした。
86歳という事もあり、内密にしていたのですが本人の知るところとなりました。
しかし、ご本人はいたって無頓着というか、別段ふさぎこむ事もなく(さすが大物!)、それよりもお母さんの方が
腰の痛みで動けなくなり、たよりの同居の息子夫婦は精勤に共稼ぎを続けるもので、
末期癌のお父さんがお母さんを介護している状態でした。
結構その様子を聞くと笑っちゃう事もあり、使命がある事が良いようでした。
抗がん剤治療など、癌に対しての治療は受けず自然にまかされたようです。
そして、運命のこの日、朝ごはんをすませ、食卓で椅子にかけている時に「うーっ!」

皆さんのあこがれの亡くなり方でございました。
Eちゃんのお里は山形県鶴岡、日本海に面したすばらしい所です。
でもこうなると、なかなかこちらから行くのは大変。
今までも1年に1~2回行ければよい方でした。
Eちゃんに後悔のないように行けるだけ行ってあげるようにこちらの家族で後押し。
このお正月明けもEちゃんが「山形へ週末いってきまぁす」と言うので、まだまだ頑張っておられると思っていた矢先、
訃報が届きました。
山形くんだりから阪神間へ嫁いでくれた事をいつも感謝してましたから、ましてやこれから母を見てもらわなあかんので
私もお悔やみに出かけました。


得意のピーチを予約、仙台へ・・・

ところが大雪ということを忘れていた。

主人の母が「それはアイゼンがいる!」と。
そこまでは、と思ったけれども母の気遣いを頂戴してリュックへ…



さあ、靴はぬれてもいいように、足首まである古のバスケシューズ???


いざ、大震災の地、仙台空港へ、さすが飛行機、東北ってこんなに近いんや。
太平洋側から日本海側へは山越えの高速バスで。


そのバス停までは電車もあるけどバスの時刻に間に合わないので張り込んでタクシーを、これも予約してましたので
空港ロビーへ出ると「○○○○様」と書かれた札を持って運転手さんが待ってくれてました。

もう、20時くらいだったので、あたりは真っ暗。
運転手のおじちゃんに「ここに津波が来たのよね」と聞くと、「そうです!、この高速の土手で止まりました。この高速へ上がれ
るように階段がいくつも震災後作られています」と。
運転手さんはその日は内陸の自宅で難を逃れたと。
そして、復興はまだまだ、今はオリンピックに人手が取られて一向に進まないらしい。
実に悲しい。これでいいの?
さあ、バスに乗り山越え。
仙台の街は夜。でも、美しい!


そして、高速へ雪が現れる



山越えで約3時間、この時間に眠る予定が、隣の席に乗り合わせた若いお母さんが親切で親切で。


約3時間、東北を語ってくれました。

転勤族の彼女は今、福島県で住んでいる。
消費税が8%になる前に鶴岡に家

70坪に30坪の家、おおすごい!

雪が落ちてもお隣に迷惑をかけない作りを心がけるとか、関西では到底考えられない配慮ですなぁ。
そんな彼女とバイバイして深夜、鶴岡到着。
ビジネスホテルで宿泊。
小さいながらも温泉有り、気持よかったあ!
夜が明けて窓の外は・・・


こんな感じ、さぶそう

身支度すませて、メモリアルホールへ
このたび、お父さんを亡くした嫁のお母さんと私の母、何やら、未亡人同士で意気投合。

いよいよ、式が始まる。

土地柄、内容も少し違い、一番驚いたのは孫が亡くなったおじいちゃんに弔辞を述べたのです。
同居していた子と、私の弟の息子。
男子二人がおじいちゃんとの思い出を語ります。
共稼ぎの親代わりに毎日、保育園の送り迎えをしてもらった。
高校野球を見るのが大好きで、弟の家へ山形チームを応援に来るのが例年の行事となっていました。
その連れがこの孫で、いつもおじいちゃんに手をひかれ甲子園へ通いました。
今春就職が決まった彼は思わず涙があふれ、「僕が稼いだお金でおじいちゃんの手を引いて甲子園へ行きたかった。それが悔やま
れてならない」と。

後で弔辞の事をたずねると本来ならばおじいちゃんの友人にお任せするのだが皆さん他界されたり、施設に入られたりとても頼め
ないのでという事でした。
しかし、私たちには子どもたちにとり、おじいちゃんぶりが想像され、良い絆が作られていたのだなあと胸うたれました。


弟の息子は、こうも言いました。
「もし、クラスにおじいちゃんがいたら、絶対に友達になっていた!」と。
おじいちゃん冥利につきますなぁ。


友引に亡くなったおじいちゃんは、通夜を延ばし、この地方にのっとり丑の日、子の日を避けて翌日に通夜、翌々日に火葬、
翌々々日に本葬となりました。
身内の長い合宿も終わりでお名残り惜しいと誰もが声を掛け合いなごやかにお開きとなった。
その後、弟の嫁の育った街をドライブ、、、だって雪で歩けないし。


当店NO1、売れ筋の「のびのび」の生産地である庄内平野。
まさに、平野、ずーっと先まで雪原。という事は田んぼですねん。

すごいわ、米どころ。



そして、日本海の荒波 米屋発見。

帰路、月山を横目に。
飛行機を利用するとこんなに近い東北。
いつか、落ち着いて尋ねてみたい。
東北人の熱い思いにふれた旅でした。