| 武田家滅亡伊東 潤(著)出版社: 角川書店
発売日: 2007/03amazonおすすめ度
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解説
~戦国最強の武将といわれた武田信玄は、父信虎(のぶとら)が成した甲斐統一を基盤として、信濃、駿河、遠江(とおとうみ)東部、上野西部、飛騨と越中の一部を制することに成功した。やがて信玄は京に上り、天下に号令することを目指したが、病魔には勝てず、天正元年(1573)、軍旅の途中で力尽きた。彼の悲願は後継者に託されることになるが、その後継者こそ、諏訪四郎勝頼こと武田勝頼である。
勝頼は、信玄の四男でありしかも側室(諏訪の姫)から産まれた子供であったため、誕生当初は誰も四郎の家督承継を考える者はいなかったが、武田家に起きたいくつかの偶然が重なり、勝頼は信玄亡き後の武田家を背負うことになる。~
これは私が読んだ本の中で今年一番のオススメかもしれません
天正3年(1575年)、武田軍は、長篠の合戦にて敵対する織田・徳川連合軍からの攻撃により多くの有力な宿老を失うことになったが、本書では、この戦により信玄時代からの宿老が一掃されたため、勝頼の権力はより強固なものとなったと記されています。
また、一般的に愚将のイメージが強い勝頼ではあるが、勝頼は、美濃の明智城や、父信玄でも落とせなかった高天神城を攻め落としており、決して軍才に劣っていたというわけではないようです。
しかし、信玄亡き後の武田家は、金山の枯渇により深刻な財政難に陥ることになり、度重なる戦で自国の城が落とされそうになっても、資金不足から援軍を送ることが出来ずに、次々と城は相手方に落城される。これに不満や不安を抱いた多くの家臣らが次々と勝頼から離反していき、武田家は急速に衰退していく。
勝頼が、武田家の運命を左右する判断を迫られる場面として、たとえば、手取川の合戦で越後の上杉謙信に敗北した信長は、このあと武田家に「あつかい(和睦)」の申し入れをしている。家臣らは、これを武田家復活の「千載一遇の好機」とみる者と、長篠の禍根や信長に対する評判から「利なし」とする者と、意見は二つに分かれるが、勝頼は、「暫し情勢を傍観する」という何とも中途半端な決断を下してしまう。以後、信長からの和睦の申し入れはなく、交渉は決裂する。
さらに、上杉の家督争いが起こった「御館の乱」では、勝頼は、当時同盟を結んでいた北条方の三郎(上杉景虎)に援軍を送らずに、三郎の敵方である喜平次(上杉景勝)側につくことを決める。これにより、武田家は北条家と敵対することになり、結果、西に信長・家康、東に北条と、周囲を敵で固めてしまうこととなる。
いずれも、勝頼の外交の見通しの甘さが原因だったと考えられます。
そして、その後の武田家の滅亡は史実のとおりですが、本書は、いつの時代も国家を存続させるには、軍事力の強化よりも、安定した資金調達手段を確保し、利害の対立する外交・内政を上手く調整していくことが出来るリーダーの存在が大きな要因であるということを教えてくれた一冊でした。。
本書は、アマゾン評価も★5つのようですが、わたしもこれは「面白さ抜群」の一冊だと思います