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塾も学校もガラガラポン!

2007-06-07 23:32:57 | Weblog

<2007.6.7付「産経抄」>

http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/sankeisho/070606/sks070606000.htm

 

「またぞろ夏の時計を1時間早めるサマータイムを導入せよ、という大合唱が政府や国会、それに経済界から聞こえてきた。安倍内閣では初となる経済財政運営の基本方針でも「早期実施を検討」の文言が盛り込まれるという。

 ▼朝寝坊派にとってはこのうえなく迷惑な話だ。「早起きは三文の徳」というのはわかるが、時計の針を1時間早くしたからといって温室効果ガスを減らすことができるのだろうか。」

 

その通り!時計の針を一時間早くしたところで、経済活動が一時間多く消化されるだけなので、逆に温室効果ガスの排出は増える。絶対増える。間違いない。

 

ただ、「早起きは三文の徳」には賛成。人間は朝早く起きるという生活をほんの数十年前まで行ってきた。「早起き」の歴史の方が「遅寝」の歴史より遥かに長く、由緒正しき生き方だ。

 

「▼推進派の能書きでは、深夜の経済活動が減少するため電力消費量も減る、というが疑わしい。午後6時でも外は明るいとなると、「もうちょっと仕事をしようか」とサラリーマンの残業が増え、子供が通う塾も授業時間を延ばしかねない。

 ▼参院選の応援で久々に表舞台に立った小泉純一郎前首相も朝寝坊派のようだ。「サマータイムをやりたい企業があるのなら勝手にやってもらいたいね。午前7時出勤にすればラッシュアワーも改善される」とバッサリやってくれた。そもそも日本では占領下の昭和23年に導入したが、不評で4年しかもたなかった過去がある」

 

“変人”小泉純一郎の言うとおり。勝手にやればいい。しかし、この人が日本の首相やってんな。なんともかんとも・・・

 

んん??ちょっと待て。

「午後6時でも外は明るいとなると、「もうちょっと仕事をしようか」とサラリーマンの残業が増え、子供が通う塾も授業時間を延ばしかねない」

 

って何じゃい??

 

子どもが通う塾も、授業時間を100パーセント確実に延長するでしょう。しかし、この産経抄の言い方には問題がある。「子供が通う塾も」と、この段階で「塾」を主体にしている。いまから塾が何かをしでかす、ということを予期させる書き方だ。そして、「授業時間を延ばしかねない」と来た。この、最後の「かねない」は明らかに「塾が悪いことをしている」つまり、「塾=悪」という前提に立ってものを言っている。

 

塾通い=悪とする根拠の一つに通塾時間の問題がある。夕方まで学校で過ごすので、塾にはどうしても夜に通うことになる。家族コミュニケーションの崩壊や地域コミュニティーの崩壊を塾に根拠を求める論もある。しかし、これは学校に「都合の良い時間帯」を「取られている」ので仕方がないではないか。塾は学校時間外で運営するしかないのだから。

 

以前、教育再生会議の座長である野依さんが「塾を全面廃止しろ!」との発言をした。教育再生会議のメンバーから「塾が学力を担保している面もある」との趣旨の発言もあったと聞く。どっちの意見も間違い、中途半端。

 

いい塾は残す。悪い塾は消す。いい学校は残す。悪い学校は消す。そうなのです。「学校=善」「塾=悪」という暗黙の前提に立って皆様お話しされますが、なぜ学校が無条件に善となるのですか?そもそも「塾の歴史」の方がが遥かに長く、江戸時代は日本全国で有名な“塾”がたくさんあったし、現在の大学はもともとはその塾である、という学校及び教育機関がいっぱいあるではありませんか。西洋のサロンにまで目を向ければ、塾の歴史は有史以来、といえるかもしれない。それに対し、学校制度はたかだか100年かそこらではないか。学校制度には歴史がない。由緒正しきは、塾の方であろう。

 

だから、塾に恩師がいてもおかしくないし、構わない。それを「なぜ学校に恩師と呼べる人がいなくて・・・」と、どうしても「学校を主体、つまり善」と考えたがる。こういう思考そのものが間違い。関係ない。塾でも学校でも恩師と呼べる師がいることそのものが素晴らしい。恩師は学校にいるべき、というのは間違った先入観だる。

 

ちなみに、わしは塾というものが大嫌いで、塾なんか全部つぶれてしまって、塾に勤めている壊れたカスどもは全員失業して死んでしまえ!と思っているます。はい。余談でした。

 

さて、ここからが本題。渡部昇一先生(上智大学名誉教授)が仰ってます。「すべての塾を正式の教育機関として認めよ」と(ご著書の『国民の教育』(扶桑社))。個人的には全部を認めたいとは思わないが、選別が難しいので「すべての塾を正式な教育機関として認める」案に大賛成です。そうすることで、一つ確実に言えることがある。それは平日午前中から授業を始める塾が誕生するということです。それでも塾を選んで、そこに通う子がいればそれを認めればいい。そうすることで自然淘汰されていく。そうなのです。塾だからダメで、学校だからいいのではなく、あかん塾は潰れます。同じようにあかん学校は潰せばいいのです。そうすれば、○○○高校のようなキチガイしかいない高校(わしは、「サルの惑星」と名付けた。これは既出ですね)は潰れます。潰れたらいいのです。あんなサルの惑星存在してる意味がないから。というと、その学校にしか通えない(学力のせいで?)生徒が困るではないか!!という意見が出てきますが、結論は、通わなければいいのです。高校になど行かなければいいのです。現在学校教育機関で授業が成り立たなく保育所、託児所化しているのは、本来ならば学校へ通う必要のない、あるいは通ってはいけないカスまでも、無理矢理学校へ押し込めているからです。学校へ通うことだけが人生ではない。どうせ将来フリーターで生涯賃金6000万円台(←この記事も既出。探せ)なのだから、学校になど通う必要はない。「15の春を泣かすな」という”迷言”をご存知か?これは知る人ぞ知る、マルクス経済学者の美濃部亮吉が東京都知事をしていた悪夢の約10年間に「考案」した言葉。この言葉のせいで、高校受験はもう受験ではなくなり、本来高校へ行く素養も資格もないサルどもが高校へ通うようになり、その結果大学受験でも同様の“成果”が見られるようになった。もう駅弁大学は、大学ではない。保育所や託児所よりもサル化している。

 

話しがそれた。

 

だから、ダメな学校は潰せ。ダメな塾は潰せ。その代わり良い学校は残せ。応援しろ。良い塾は残せ。応援しろ。良い・悪いの判断はどうするのか?それは、生徒が通うかどうか、で決めればいい。生徒が選ぶ学校・塾は良い学校・塾で、生徒が選ばない、つまり生徒数がどんどん減少する学校・塾は悪い学校・塾という判断でいいのではないか?そうすると、生徒に媚びを売って、よしよしするだけの学校ができるかもしれないという危惧が聞こえるが、心配いらぬ。既に塾は「生徒に選ばれるか否か」で選別されているではないか。生徒に媚を売るだけの塾は生き残っていない。「成果」の出ない塾は既にどんどん潰れている。

 

学校免許法は無くさないといけない。教員に免許はいりません。これも塾がお手本になる。塾では、ダメ教員はお払い箱になるのです。免許制度があるからダメ教員がいつまでも学校に居座っている。免許を更新制にしたところで、税金がムダに使われるだけ。免許などいらん。教員は“実技”と“理念”と“学力”で選抜しろ。免許を与えるな。

 

というわけで、学校だからいい、塾だからダメ、という凝り固まった発想はオジャンにして、ガラガラポン!塾=悪という先入観は捨てなさい。ガラクタ同然の学校あるいは学校の教員もわんさかいるのだから。ガラガラポンして、残ったものを認めていく。ガラガラポンを早しなさい。


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