amita_gate's memorandum

その日読んだ本やサイトのメモ

大乗ということ

2006-01-19 07:06:14 | 真宗についてのメモ
本願は他力であるがために、一切衆生を同時に救済する。それ故勝義に「大乗(大きな乗り物)」であり、「一乗(一つの乗り物)」と呼ばれる。
一人ずつの個別の救済ではない。自分が先に往生や成仏してその後で布教して救う(=自力)のとは原理的に異なる。

「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」(第十九願)
これは個別の成仏なので、自力の聖道門と呼ばれる。

「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ」(第二十願)
これは個別の往生なので、自力の念仏と呼ばれる。

一人ずつ歩まねば救済されない(=自力)のは限られた救いである。
私が成仏してもあなたは成仏していない。
私が往生してもあなたは往生していない。
あなたが成仏しても私は成仏していない。
あなたが往生しても私は往生していない。
これでは、大乗仏教と名づけられていても、本当の意味で大乗(大きな乗り物)と呼ぶことは出来ない。

そもそも仏教は無我を原理とする。
自他を区別されたままなのは真の仏道ではない。

全ての衆生の同時の救済が大乗である。
「万行諸善の小路より 
本願一実の大道に 
帰入しぬれば涅槃の 
さとりはすなわちひらくなり」
(高僧和讃。http://www.icho.gr.jp/seiten/index.htmlhttp://www.icho.gr.jp/seiten/html/494.htmlより)
一人一人遅々として歩まねばならない、決して達せられることのない狭い道ではなく、全ての衆生を一人漏らさず同時に(=すなわち)成仏すべき地位に至らせる広大な船が本願の大道である。

これは、往還の回向によってしか叶わない。

「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」(第十八願)
「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」(第十一願)
「たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ」(第二十二願)

十一願(往相)と二十二願(還相)と十八願(信)は、如来が選び取られた本願であって一つのものである。
この三つは同時であり、名号(十七願)において回向されている。

「仏智不思議をうたがいて
善本徳本たのむひと
辺地懈慢にうまるれば
大慈大悲はえざりけり」
(正像末和讃。http://www.icho.gr.jp/seiten/index.htmlhttp://www.icho.gr.jp/seiten/html/506.htmlより)

往還を別々に考えるのは虚仮となる。
これらを切り離して片方のみを取り出すのは、仏智への疑惑でしかない。
それは大悲を知らないことである。
(ある者が救われないことを許容し、或いはそれを知ってか知らずか願ってしまうのが、仏であり得ない衆生の弱さであり悪である)

「仏智うたがうつみふかし
この心おもいしるならば
くゆるこころをむねとして
仏智の不思議をたのむべし」
(正像末和讃。http://www.icho.gr.jp/seiten/index.htmlhttp://www.icho.gr.jp/seiten/html/507.htmlより)

仏教

2006-01-19 06:36:15 | 真宗についてのメモ
「如来の誓願を信ずる心の定まるときと申すは、摂取不捨の利益にあづかるゆゑに不退の位に定まると御こころえ候ふべし。真実信心の定まると申すも、金剛信心の定まると申すも、摂取不捨のゆゑに申すなり。さればこそ、無上覚にいたるべき心のおこると申すなり。これを不退の位とも正定聚の位に入るとも申し、等正覚にいたるとも申すなり。このこころの定まるを、十方諸仏のよろこびて、諸仏の御こころにひとしとほめたまふなり。このゆゑに、まことの信心の人をば、諸仏とひとしと申すなり。また補処の弥勒とおなじとも申すなり。この世にて真実信心の人をまもらせたまへばこそ、『阿弥陀経』には、「十方恒沙の諸仏護念す」(意)とは申すことにて候へ。安楽浄土へ往生してのちは、まもりたまふと申すことにては候はず。娑婆世界に居たるほど護念すとは申すことなり。信心まことなる人のこころを、十方恒沙の如来のほめたまへば、仏とひとしとは申すことなり。
 また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。このこころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。諸事恐々謹言。」(親鸞聖人御消息http://www.access-jp.net/seiten/index.php?chu%2F%E6%B6%88%E6%81%AFより。(20))

「如来の誓願を信ずる心の定まるときと申すは、摂取不捨の利益にあづかるゆゑに不退の位に定まると御こころえ候ふべし」
不退の位とは、必ず成仏する立場にあるということ、摂取不捨とは、弥陀の願力によってそれが実現するということ。
それを心得ることが信である。

「摂取不捨の利益にあづかるゆゑに不退の位に定まる」ことは仏説である。弥陀の誓願にそう誓われているのだから。
だから、「人の仰せごとにはいらぬものにて候ふ」。仏教とは仏の教えである。仏の教えとは仏が説くものであって、人間が説くものでない。人間やその他の衆生が何を言おうと、仏の誓願を覆すことは出来ない。
「如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず」。
仏法とは仏の法則である。仏の法則とは仏が衆生を仏へと至らせるものであって、衆生が仏へ至るものではない。衆生が仏になろうと思って何をしようと、それは妄想であって虚しいものである。
衆生を仏に至らせることが出来るのは仏のみである。仏とは南無阿弥陀仏である。

「安楽浄土に入りはつれば、すなはち大涅槃をさとるとも、また無上覚をさとるとも、滅度にいたるとも申すは、御名こそかはりたるやうなれども、これみな法身と申す仏のさとりをひらくべき正因に、弥陀仏の御ちかひを、法蔵菩薩われらに回向したまへるを、往相の回向と申すなり。この回向せさせたまへる願を、念仏往生の願(第十八願)とは申すなり。この念仏往生の願を一向に信じてふたごころなきを、一向専修とは申すなり。如来二種の回向と申すことは、この二種の回向の願を信じ、ふたごころなきを、真実の信心と申す。この真実の信心のおこることは、釈迦・弥陀の二尊の御はからひよりおこりたりとしらせたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。」(親鸞聖人御消息http://www.access-jp.net/seiten/index.php?chu%2F%E6%B6%88%E6%81%AFより。(21))

往生とは何であるか。
「法身と申す仏のさとりをひらくべき正因に、弥陀仏の御ちかひを、法蔵菩薩われらに回向したまへるを、往相の回向と申すなり」
仏の願力によって、成仏の因が定まることである。

なお、成仏とは法身を得ること。
法身には真実法身(一切の認識を越えた、形而上の身体)と方便法身(衆生を救済し真実法身に至らしめるために、仏法として形を現されたもの。名号)の二種がある。
「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」(唯信鈔文意http://www.access-jp.net/seiten/index.php?chu%2F%E5%94%AF%E6%96%87。【4】)
「この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり」(一念多念文意http://www.access-jp.net/seiten/index.php?chu%2F%E4%B8%80%E5%A4%9A。【18】)

ここで、成仏の因とは、普通私たちが連想するような個人的なもの(念仏する人一人だけのもの)ではない。往生は往相と還相の二種である。往相は自利であるが、還相は利他である。利他を欠いての往生はない。
上の御消息中には還相の説明がないので、入出二門偈頌により補足。

「第五に出の功徳を成就したまう。菩薩の出第五門というは、いかんが回向したまう、心に作願したまいき。苦悩の一切衆を捨てたまわざれば、回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに、功徳を施したまう。かの土に生じ已りて速疾に、奢摩他毘婆舎那巧方便力成就を得已りて、生死園煩悩林に入りて、応化身を示し神通に遊びて、教化地に至りて群生を利したまう。すなわちこれを出第五門と名づく、園林遊戯地門に入るなり。本願力の回向をもってのゆえに、利他の行成就したまえり、知るべし。」(入出二門偈頌。http://www.icho.gr.jp/seiten/index.htmlhttp://www.icho.gr.jp/seiten/html/463.html及び次ページより)

「苦悩の一切衆を捨てたまわざれば・・・功徳を施したまう。・・・教化地に至りて群生を利したまう」
つまり還相とは、他の一切の衆生を捨て(られ)ず、功徳を施して、彼らもまた利す(往生させる)ということ。
本願による往生は、自ら(往相)だけでなく一切衆生をも「同時に」往生させる(還相)ものであることを知らなければならない。
(本願においては、私は往生したがあなたは往生しない、ということは原理的に不可能である。その逆も)

「この二種の回向の願を信じ、ふたごころなきを、真実の信心と申す」。

菩提と誓願

2006-01-05 08:48:35 | 真宗についてのメモ
「この故に、行者、常に諸法の本より来(このかた)空寂なるを観じ、また常に四弘の願・行を修習せよ。空と地とに拠りて営舎を造立せんとするも、ただ地のみ、ただ空のみにては、終に成すことあたはざるが如し。」(石田瑞麿訳註「往生要集(上)」(岩波文庫)p181)

空観のみでは駄目ということ。誓願を抜きにして仏道はない。

問題は凡夫に本当に誓願が立てられるのかということであるが。

「いかんが不如実修行と名義と相応せざるとする。いはく、如来はこれ実相の身なり、これ物のための身なりと知らざるなり。
また三種の不相応あり。一つには信心淳からず、存せるがごとし亡ぜるがごときのゆゑに。二つには信心一ならず、決定なきがゆゑに。三つには信心相続せず、余念間つるがゆゑに」(教行信証信巻より。曇鸞「浄土論註」中の文)

「実の如く修行せず」とは、仏の真実であることと方便力を持つことを知らないことである。
また「名義と相応せざる」というのは、自分が言ったことを信じる心が薄く、変わりやすく、続かないことである。要するに、言っていることとしていることがずれていること。

このようでしかあることのできない人間の心に、真実の誓願などないことを知らなければならない。

煩悩と菩提

2006-01-05 08:39:30 | 真宗についてのメモ
煩悩と菩提が一味である(=煩悩がそのまま覚りなのだ)というのが真実としても、欲望と菩提が一味であるというのは詭弁に過ぎない。

欲望は現象に過ぎないが、煩悩は非現象的な(形而上の)原理である。
性欲、食欲、名誉欲、所有欲、支配欲など、いずれの欲望も現象であって煩悩の結果に過ぎない。
これら(現象としての欲望)を事物の原因と見るのは転倒した見解である。

欲望肯定論は、原因である煩悩を見ようとせず、知ろうともしないのに、煩悩即菩提なのだから欲望も肯定されるのだなどと嘯いている。
これはただ無明でありつづける(煩悩に無知な)外道である。

無明の目に映じる全ての現象は虚妄である。それなのに、何故現象を頼りとしようとするのか。真理である煩悩を知ろうとしないのか。

フラニーとゾーイー

2005-12-29 05:22:06 | 宗教・哲学
「その百姓が言うんだけどね、始めは細君もいたし、農場も持ってたんだ。ところが、彼には一人、気のふれた弟がいてね、これが農場を焼いてしまうんだな・・・とにかく、その百姓は巡礼の旅に出るんだ。そして彼は一つ問題をかかえているんだよ。それまでずっとかれは聖書を読んできたが、『テサロニケ書』に『絶えず祈れ』とある、これがどういう意味か、知りたいと思うわけだ。・・・『テモテ書』にも同じような句があるだろうさ--『この故に、われ望む。何れの処にても祈らんことを』そして、キリスト自身も、当然のことながら、こう言ってるわけだ『落胆せずして常に祈るべし』とね・・・そんなわけで、とにかく彼は、師匠を探して巡礼の旅に上るのさ・・・どうやって絶えず祈ったらよいのか、そしてそれはなぜか、それを教えてくれる人を探そうというんだな。かれは教会から教会へ、聖堂から聖堂へと、聖職にある者にはいちいち問いかけながら、歩いて歩いて歩き続ける。そのうちに、とうとう、どうやらすべてを知っていそうな一人の素朴な老修道僧にめぐり会う。そしてこの修道僧が、いつでも神の意にかない、神の望む祈りはただ一つ、すなわち『イエスの祈り』であると教えるんだな--『主イエス・キリスト、われに憐れみを垂れ給え』本当を言うと、祈りの全文は、『主イエス・キリスト、みじめなる罪人われに憐れみを垂れ給え』なんだけど・・・とにかくその老修道僧は、この祈りを絶えず唱えればどういうことが起こるか、それをその巡礼に説明して聞かせるんだな。・・・しばらくするうちに、巡礼は、その祈りにすっかり熟達する・・・新しく開けた魂の生活に狂喜した彼は、それからロシア全土の行脚に出発する・・・みちみちその祈りを唱えながら、たまたまめぐり会った人々にもまた、いちいちその唱え方を教えてやりながらね」
--J.D.サリンジャー著 野崎孝訳『フラニーとゾーイー』(新潮文庫)pp128-9より 
*「・・・」は引用者による中略

「それでね、スターレッツはまず第一にギリシャ正教の『イエスの祈り』のことを言うの。『主イエス・キリスト、われに憐れみを垂れたまえ』ここなのよ、問題は。でね、スターレッツが説明するの、祈るときにはこの言葉を唱えるのがいちばんいいんだって。特に『憐れみ』という言葉が肝心なのね。だって、これは実に大きな言葉で、その中にはいっぱいいろんなことが含まれるわ。ただ単に『慈悲』っていうことだけじゃないわ・・・とにかくね・・・スターレッツがその巡礼に言うの、もしこの祈りを繰り返し繰り返し唱えていれば--始めは唇を動かしてるだけでいいんですって--そのうち遂にはどうなるかというと、その祈りが自動性を持つようになるっていうの。だから、しばらくするうちに、何かが起こるんだな。何だかわたしにはわかんないけど、何かが起こる。そして、その言葉がその人の心臓の鼓動と一体となる。そうなれば、本当に絶えることなく祈ることになる。それが、その人の物の見方全体に、大きな、神秘的な影響を与える。・・・
「でも、大事な点はね--これがすばらしいんだ--これをやり始めた当座は、自分がやってることをべつに信じてやる必要はない。つまり、そんなことをやるのにどんなに抵抗を感じながらやるにしても、そんなことは全然かまわないってわけ。誰をも何をも侮辱することにはならないのよ。言いかえると、最初始めたときには、それを信じろなんて、誰もこれっぽっちも要求しないんだ。自分で唱えていることについて考える必要もないなんて、スターレッツは言うのよ。最初に必要なのは量だけ。やがて、そのうちに、量がひとりでに質になる。自分だけの力か何かで。スターレッツの言うところによると、どんな神様の名前にも--かりにも名前なら、どんな名前にだって--それぞれ、みんなこの独特の自動的な力があるっていうのよ。そして、いったんこちらで唱え始めれば、あとは自動的に動きだすっていうの」
--同pp46-7より
*この後には念仏への言及もある。

「フラニー、きみに言うことが一つあるんだ・・・逆上したりしちゃだめだぜ。べつに悪いことじゃないんだから。きみがもし信仰の生活を送りたいのならだな、きみは現にこの家で行われている宗教的な行為を、一つ残らず見過ごしていることに今すぐきづかなければだめだ。人が神に捧げられた一杯のチキン・スープを持っていってやっても、きみにはそれを飲むという明すらない。この精神病院にいる誰彼のところへベシーが持ってゆくチキン・スープは、すべてそういうスープなんだぜ。だからぼくに知らせてくれ・・・神に捧げられた一杯のチキン・スープが鼻先に置かれてもそれと気がつかないというのに、本物の信心家を一体どうやって識別するつもりなんだ?それを知らせてもらえないかな?」
--同p224より

雑感:
サリンジャーの小説は、青春の特異な鋭敏な心理を上手く描写したもの、といった形で紹介されていることもある。
しかし、「フラニーとゾーイー」では、「エゴ」(仏教的な「無我」も視野に入れられているだろう)が通底的なテーマの一つとなっており、宗教文学としても優れている。

信仰に心底打ち込んでいくことと、生活との間でどのようにバランス(個人の心においてであれ、家族等の集団との間であれ)をとっていくのか、基本的で困難な問題が正面から取り上げられている。
熱心な信仰者の論理とごく普通の生活者の論理との間の溝の深さ、その間を橋渡しすることの困難さ(その際に要求される慎重さと繊細さ)も描写されている。
信仰者と非信仰者との間の摩擦が生じがちな現在において、示唆するところは多いだろう。

小説では最後、「日常的な営為の中に宗教性を見出す」という形での妥協が試みられている。
但しこれは、信仰者の側の(信仰への)極端な真摯さと、生活者の側での(信仰への)相当程度の理解・共感・愛情があっての、危うい妥協ではある。
(また、妥協はあくまでも一時的な「非問題化」である。)

この妥協の成立には死者である長兄シーモア(についての回想)の介入を待たねばならなかった。(この世の中に場所を持ち得ないものによって支えられているということ。)


ゾーイーがフラニーと自らを指して言う「畸形」という言葉には、雑多な教育や価値観を真摯に統合することの困難が示唆されているだろうか。

参考:
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4102057021/503-8197557-9012754(アマゾン)
http://homepage3.nifty.com/~seiichi/book/franny_zooey.htm(羊の本棚(書評))

立棺(田村隆一)

2005-12-27 12:28:11 | 
立棺(田村隆一)
II

わたしの屍体を地に寝かすな
おまえたちの死は
地に休むことができない
わたしの屍体は
立棺のなかにおさめて
直立させよ

  地上にはわれわれの墓がない
  地上にはわれわれの屍体をいれる墓がない

わたしは地上の死を知っている
わたしは地上の死の意味を知っている
どこの国へ行ってみても
おまえたちの死が墓にいれられたためしがない
河を流れて行く小娘の屍骸
射殺された小鳥の血 そして虐殺された多くの声が
おまえたちの地上から追い出されて
おまえたちのように亡命者になるのだ

  地上にはわれわれの国がない
  地上にはわれわれの死に価いする国がない

わたしは地上の価値を知っている
わたしは地上の失われた価値を知っている
どこの国へ行ってみても
おまえたちの生が大いなるものに満たされたためしがない
未来の時まで刈りとられた麦
罠にかけられた獣たち またちいさな姉妹が
おまえたちの生から追い出されて
おまえたちのように亡命者になるのだ

  地上にはわれわれの国がない
  地上にはわれわれの生に価いする国がない


*感想
私たちは生きていることを自明と感じている。私たちはいつか死ぬが、多くの場合、死は突発的に生の中に侵入してくる偶然的な危難と感じられている。

しかし、死はこのような様態に汲み尽くされることはない。
生きている者は日々殺害を行っている。
犠牲者は弱きもの(小娘、小鳥)であり、或いは戦い敗れたもの(獣)である。
私たちは犠牲者を弔い生活を再開するが、弔いにおいて犠牲者の言葉は語られることがない。
犠牲者の感情を慰めることが必要なのではない。犠牲者は感情ではなく存在である。犠牲者の存在は慰めによっては消え去らない。

死者は消え去ったのではなく、死者として立ち止まっている。
私たちは死者を弔いにより回収しようとするが、死者は弔いを拒絶する。
死者は理解されることを拒否する。拒否の姿勢に於いて、死者は生の矮小な意味を、生の軽薄さを告発している。
哀れまれるべきは、死者ではなく、生き残っている私たちの方であるのだ。
そしてどれだけ抗しても、私たちもその立ち並ぶ死者の列に引き入れられる。

ロック、人間悟性論

2005-12-02 23:50:13 | 宗教・哲学
ロック、人間悟性論
(John Locke,"An Essay Concerning Human Understanding")

http://oregonstate.edu/instruct/phl302/texts/locke/locke1/Essay_contents.html
(上テキストはhttp://oregonstate.edu/instruct/phl302/e-text.htmlより。
The History of Western Philosophy from 1492 to 1776というサイトの一部)
認識論についてロックほど重要な哲学者はいない。丁寧に読んでいきたいと思う。
BookIV,ChapterXVIの最初の辺りは面白い。

参考(概説):
http://en.wikipedia.org/wiki/An_Essay_Concerning_Human_Understanding(Wikipedia)
http://www.sparknotes.com/philosophy/johnlocke/section1.html
またBertrand Russell,"A History of Western Philosophy",606頁以下。

テキスト:
大変有難いことに、あちこちで読める。
http://www.ilt.columbia.edu/publications/locke_understanding.html
http://www.rbjones.com/rbjpub/philos/classics/locke/
http://humanum.arts.cuhk.edu.hk/Philosophy/Locke/echu/

http://socserv2.mcmaster.ca/~econ/ugcm/3ll3/locke/
http://www.infidels.org/library/historical/john_locke/human_understanding.html
http://www.infomotions.com/etexts/philosophy/1600-1699/
http://www.pelagus.org/books/philosophy%20(1500-1699).html
http://www2.hn.psu.edu/faculty/jmanis/locke/humanund.pdf(PDFファイル)

バークレー、新視覚論(George Berkeley,"An Essay Towards a New Theory of Vision")
http://www.maths.tcd.ie/~dwilkins/Berkeley/Vision/1732B/Vision.html
http://digital.library.upenn.edu/webbin/gutbook/lookup?num=4722
バークレー一般
http://www.maths.tcd.ie/~dwilkins/Berkeley/
http://www.cpm.ehime-u.ac.jp/akamachomepage/akamac_e-text_links/Berkeley.html

他力の信心と真宗

2005-12-02 05:21:07 | 真宗についてのメモ
仏道を志すならば仏に仕え申す以上の行いも願いもない。
現に在す仏は南無阿弥陀仏のみである。

故に念仏は浄土往生の手立てであるだけでなく、現在の仏に仕えることである。
念仏は浄土の真の道(浄土真宗)であるだけでなく、真の仏道(真宗)である。

「『大智度論』によるに、三番の解釈あり。第一には、仏はこれ無上法王なり、菩薩は法臣とす。尊ぶところ重くするところ、ただ仏世尊なり。このゆゑに、まさにつねに念仏すべきなり。第二に、もろもろの菩薩ありてみづからいはく、〈われ曠劫よりこのかた、世尊われらが法身・智身・大慈悲身を長養したまふことを蒙ることを得たりき。禅定・智慧、無量の行願、仏によりて成ずることを得たり。報恩のためのゆゑに、つねに仏に近づかんことを願ず。また大臣の、王の恩寵を蒙りてつねにその王を念ふがごとし〉と。第三に、もろもろの菩薩ありて、またこの言をなさく、〈われ因地にして悪知識に遇ひて、波若を誹謗して悪道に堕しき。無量劫を経て余行を修すといへども、いまだ出づることあたはず。後に一時において善知識の辺によりしに、われを教へて念仏三昧を行ぜしむ。そのときにすなはちよくしかしながらもろもろの障、まさに解脱することを得しめたり。この大益あるがゆゑに、願じて仏を離れず〉と。」(教行信証信巻末)

念仏を信じる

2005-12-02 05:17:42 | 真宗についてのメモ
名号と他力の信心
信心には自力の信心と他力の信心があるという。

自力の信心とは自らの善業を頼りとすることである。
他力の信心とは阿弥陀仏の本願力を頼りとすることである。

阿弥陀仏の本願力とは名号である。
阿弥陀仏は誓願を成就されて仏となられた。仏となられた姿が名号(南無阿弥陀仏)である。

末法の無仏の時代、名号である弥陀(南無阿弥陀仏)以外に仏は在さない。
故に名号(南無阿弥陀仏)を称す(念仏)以外に仏行はないのである。

弥陀が誓願成就して名号となられたのを信じて念仏申すのが他力の信心である。

自然・他力・選択
誓願成就しているならば、(誓願の一である弥陀の)二種の回向も成就している。
二種の回向とは、衆生の浄土往生と、普賢の徳の成就である。

衆生の方より見れば、自然の利益として、浄土に往生し、普賢の徳を為すことになる。
自然というのは誓願成就の当然の結果という意味である。つまりは他力である。

他力の他は、「ほか」ではなく、「かれ」の意味で理解されなければならない。
他人の意ではなく、選択(多数の中の特定の一)の意である。
「他の誰か」ではなく、「特定のこの人」である。
即ち名号である弥陀ただ一人である。

名号である弥陀一人を現在の仏と選び定めるのが選択である。

真理について(素描)

2005-11-17 20:35:53 | 形而上学についてのメモ
III.真理の源泉について
A.真理が備えている性質は何か。
1.普遍性
2.永続性
3.不可変更性
4.実在との一致。
5.その源泉が真理であること。
6.知覚可能性。
7.公然性。
8.善なる性質。(美・快・卓越性等含む)

B.真理を判別する基準は何か。
1.従前の知識との適合性。
2.実在との対応性。
3.信憑性。
4.権威による判定。
5.理性による判定。不可疑性。明晰判明性。
6.直観・啓示等による判定。
7.信仰による判定。
8.以上の複合。