本願は他力であるがために、一切衆生を同時に救済する。それ故勝義に「大乗(大きな乗り物)」であり、「一乗(一つの乗り物)」と呼ばれる。
一人ずつの個別の救済ではない。自分が先に往生や成仏してその後で布教して救う(=自力)のとは原理的に異なる。
「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」(第十九願)
これは個別の成仏なので、自力の聖道門と呼ばれる。
「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ」(第二十願)
これは個別の往生なので、自力の念仏と呼ばれる。
一人ずつ歩まねば救済されない(=自力)のは限られた救いである。
私が成仏してもあなたは成仏していない。
私が往生してもあなたは往生していない。
あなたが成仏しても私は成仏していない。
あなたが往生しても私は往生していない。
これでは、大乗仏教と名づけられていても、本当の意味で大乗(大きな乗り物)と呼ぶことは出来ない。
そもそも仏教は無我を原理とする。
自他を区別されたままなのは真の仏道ではない。
全ての衆生の同時の救済が大乗である。
「万行諸善の小路より
本願一実の大道に
帰入しぬれば涅槃の
さとりはすなわちひらくなり」
(高僧和讃。http://www.icho.gr.jp/seiten/index.html中http://www.icho.gr.jp/seiten/html/494.htmlより)
一人一人遅々として歩まねばならない、決して達せられることのない狭い道ではなく、全ての衆生を一人漏らさず同時に(=すなわち)成仏すべき地位に至らせる広大な船が本願の大道である。
これは、往還の回向によってしか叶わない。
「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」(第十八願)
「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」(第十一願)
「たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ」(第二十二願)
十一願(往相)と二十二願(還相)と十八願(信)は、如来が選び取られた本願であって一つのものである。
この三つは同時であり、名号(十七願)において回向されている。
「仏智不思議をうたがいて
善本徳本たのむひと
辺地懈慢にうまるれば
大慈大悲はえざりけり」
(正像末和讃。http://www.icho.gr.jp/seiten/index.html中http://www.icho.gr.jp/seiten/html/506.htmlより)
往還を別々に考えるのは虚仮となる。
これらを切り離して片方のみを取り出すのは、仏智への疑惑でしかない。
それは大悲を知らないことである。
(ある者が救われないことを許容し、或いはそれを知ってか知らずか願ってしまうのが、仏であり得ない衆生の弱さであり悪である)
「仏智うたがうつみふかし
この心おもいしるならば
くゆるこころをむねとして
仏智の不思議をたのむべし」
(正像末和讃。http://www.icho.gr.jp/seiten/index.html中http://www.icho.gr.jp/seiten/html/507.htmlより)
一人ずつの個別の救済ではない。自分が先に往生や成仏してその後で布教して救う(=自力)のとは原理的に異なる。
「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」(第十九願)
これは個別の成仏なので、自力の聖道門と呼ばれる。
「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ」(第二十願)
これは個別の往生なので、自力の念仏と呼ばれる。
一人ずつ歩まねば救済されない(=自力)のは限られた救いである。
私が成仏してもあなたは成仏していない。
私が往生してもあなたは往生していない。
あなたが成仏しても私は成仏していない。
あなたが往生しても私は往生していない。
これでは、大乗仏教と名づけられていても、本当の意味で大乗(大きな乗り物)と呼ぶことは出来ない。
そもそも仏教は無我を原理とする。
自他を区別されたままなのは真の仏道ではない。
全ての衆生の同時の救済が大乗である。
「万行諸善の小路より
本願一実の大道に
帰入しぬれば涅槃の
さとりはすなわちひらくなり」
(高僧和讃。http://www.icho.gr.jp/seiten/index.html中http://www.icho.gr.jp/seiten/html/494.htmlより)
一人一人遅々として歩まねばならない、決して達せられることのない狭い道ではなく、全ての衆生を一人漏らさず同時に(=すなわち)成仏すべき地位に至らせる広大な船が本願の大道である。
これは、往還の回向によってしか叶わない。
「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」(第十八願)
「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」(第十一願)
「たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ」(第二十二願)
十一願(往相)と二十二願(還相)と十八願(信)は、如来が選び取られた本願であって一つのものである。
この三つは同時であり、名号(十七願)において回向されている。
「仏智不思議をうたがいて
善本徳本たのむひと
辺地懈慢にうまるれば
大慈大悲はえざりけり」
(正像末和讃。http://www.icho.gr.jp/seiten/index.html中http://www.icho.gr.jp/seiten/html/506.htmlより)
往還を別々に考えるのは虚仮となる。
これらを切り離して片方のみを取り出すのは、仏智への疑惑でしかない。
それは大悲を知らないことである。
(ある者が救われないことを許容し、或いはそれを知ってか知らずか願ってしまうのが、仏であり得ない衆生の弱さであり悪である)
「仏智うたがうつみふかし
この心おもいしるならば
くゆるこころをむねとして
仏智の不思議をたのむべし」
(正像末和讃。http://www.icho.gr.jp/seiten/index.html中http://www.icho.gr.jp/seiten/html/507.htmlより)