あみの3 写真日記

ラーメン食べ歩きとお城歩き、その他感動したことを写真で綴る雑記帳。
更新は不定期です。

142 苗木城@岐阜県中津川市 令和二年(2020)11月27日

2020-12-05 11:41:54 | 旅行・城歩き
国指定史跡 【苗木城跡】
岩盤を利用した石垣と懸造の建物造
、、、眼下を流れる木曽川に架かる「城山橋」より撮影



歴史
岩村城は大永6年(1526)遠山一雲入道昌利が築き、子の景徳が住んだ。2代後、直廉の時代は、東美濃は武田信玄と織田信長がしのぎあい、岩村の兄景任と苗木の直廉(岩村から養子、弟)の遠山兄弟が間にあった。信長の時代に苗木城は別系の飯場遠山氏が入るが、信長の死後は森長可に攻められ、遠山友政は徳川家康の側につく。18年後の関ヶ原の戦いの直前、友政は家康の命で苗木城を奪還し、その功で1万石の大名となり、幕末まで国替えすることなくここを治めた。

縄張り
木曽川の流れを天然の水堀とし、高森山の山頂部に本丸、一段下がったところに二の丸・三の丸と続く縄張りである。随所に露頭する岩盤と石垣を組み合わせ、建物を建てられる平場を確保するなど自然の地形を最大限に有効活用していた。天守や櫓などなどの建物も崖から斜面に突き出して築く「懸造」である。各曲輪が、この規模の城では例のないほど大量の石垣で積み上げられているのも苗木城の特徴である。

見どころ
岩山と言う地形的な制約の中で造成された岩盤や、巨岩と一体化した石垣は見ごたえ満点である。推定復元された天守の骨組み(天守展望台)からは木曽川や恵那山、中津川市内が一望できる。

出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)




本年9月27日に登城した、岐阜県指定史跡 日本三大山城 【岩村城】、→こちら
717mの山頂部にそびえる六段壁(ろくだんへき)が圧巻で自分史上最高の感動を味わった。

しかし今回、それを上回る感動に打ち震えております。

こんな巨石を目にすることもないし、ましてやその上に城を築くなんて考えられないです!



先ずは立体模型で全体像をイメージしましょう。
西側、ちょうど冒頭の「城山橋」からの写真と同じ方向から俯瞰した様子だと思ってください。
すごく精緻に制作されている「苗木城模型」。、、、「苗木遠山資料館」所蔵

山頂の天守と岩肌にへばりつくように配置された曲輪群と櫓。最下段左手には独立した最大の石垣を持つ「大矢倉」が見える。
お城の壁が「赤土の壁」で塗りこめられていたため、城域全体が赤褐色に見えたという。
白い岩肌と赤土の壁の対比が麓の城下からもはっきり見えたことでしょう。
、、、吹き出し説明は筆者による



では苗木城縄張り図にて当日の行程を説明します。
駐車場は何ヶ所もあります。大形バスも停められる駐車場からは徒歩で「高森神社」脇から「足軽長屋」方面に行くことができます。
車で舗装された道を進み舗装された駐車場へ行くには、苗木資料館を過ぎた山道を入り「足軽長屋」方面に出ます。
車で最短を狙って行ったのは「苗木さくら公園」駐車場。
、、、苗木城跡パンフレットより引用



「苗木さくら公園」脇の巨石に度肝をぬかれる(;'∀')
軽自動車のサイズ(3.4×1.5×h1.8)に比較してざっと4×3.5×3m位、石の比重を2.6とすると
約33.6㎥(体積)×0.8(球形の比率)×2.6(比重)=87.4t
V=4/3πr³  rざっくり1.9として28.7m³×2.6=74.6t
概ね80tもある巨石がころがっている風景💦 
この先が楽しみですね(笑)



途中細い林道を進み未舗装の「さくら公園第1駐車場」にたどり着きました。ここからは林を抜け城跡まで200mの登山道ですが緩やかでした。




歩くこと3分(笑)めっちゃ近いやん
藪の中から突然大きな石垣が見えてきました。
めっちゃコーフンしました(^^)/
写真手前の石垣は「北門」、中央奥に見えるのが「天守」

城の外郭にあった土塀付きの門で、城の北側にあったためその名が付いた。脇にある池は雨水に頼る貯水池で馬の飲み水に利用されていました。、、、案内板より以下同



舗装された駐車場からの登城道との合流点にある「風吹門」

2階が「飼い葉蔵」、城下から「三の丸」への出入り口で「大手門」とも呼ばれており、昼夜を問わず人の出入りを監視していました。
城主が在城の時は開門していましたが江戸詰めで留守の時は閉められ、くぐり戸が使われていました。





三の丸にある「大矢倉」
17世紀中ごろに建てられた三階建ての苗木城最大の櫓。
1階は石垣で囲われ倉庫として使われていました。2階3階の壁には「狭間」が設けられており北側の防御の役割があった。



俯瞰してみると三の丸と大矢倉の全体が良く分かる。
「御鳩小屋」とも呼ばれていたそうですよ。





四十八曲がりから三の丸に出入りする門「駈門」


こちらも俯瞰してみます



「大門」
苗木城で一番大きな大門は2階建てで三の丸と二の丸を仕切っていました。門の幅は二間半(約5m)で2階は物置として使われていました。領主の参勤交代の出立など大きな行事以外は空けず、普段はくぐり戸を使っていました。



「御朱印蔵」
切り石できっちり積まれた石垣の上に建てられたご朱印蔵には、将軍家から代々与えられた領地目録や、朱印状など重要な文書や刀剣類などが収められていました。これら収蔵品の虫干しは年に一度必ず行われ、蔵の出入りには梯子が使われていました。




「綿蔵門」
本丸へ登る道を遮る形で建っていた綿蔵門は夕方七ツ時(午後4時)以降扉が閉められ、本丸には進むことができませんでした。年貢として納められた真綿が2階に保管されていたことが名前の由来です。





「坂下門」
坂の下にあったので坂下門と呼ばれていました。別名「久世門」といい、三代領主友貞の奥方の実家で苗木城改修の際に力添えをした、徳川家譜代の名家「久世家」の名から来ていると伝えられています。



この門は礎石とその手前の石段が状態よく残されています。



「千石井戸」
苗木城内で一番高い場所に位置するこの井戸は、高所にも関わらずどんな日照りでも枯れることは無かったと伝えられており、千人の用を達することからその名が付いたと言われています。



天守近くにある井戸で今でも水が湧き出ています。




千石井戸の北側には懸け造の小屋が並んでおり、渋紙蔵、山形蔵、郡方蔵などがありました。


「本丸口門」
千石井戸の西側にある本丸口門は、本丸と二の丸の境となる門で、総欅で作られていたことから「欅門」と呼ばれていました。




「武器蔵」「具足蔵」
鉄砲や弓矢等の武器蔵で礎石や縁石は当時のまま残されています。




「玄関口門」
玄関口と言う名の通り、このルートを抜けていくのが天守に行く正式な道でした。この門の先には土廊下の建物が続いており、奥は小屋と繋がっていました。通常は鍵が掛けられて、ここから先へは入ることが禁じられていました。鍵は目付け役が管理していました。




「本丸玄関」
本丸玄関は天守台より一段低い位置にありました。そのため玄関を入ると苗木城の特徴の一つである懸け造の千畳敷を通り、回り込むようにして南東側から天守台へ入りました。
玄関には玉石が敷かれていたことが絵図に描かれており、整備前の調査でも多くの玉石が確認されました。この石敷きはその玉石を利用して復元したものです。




「苗木城天守建物」
苗木城の天守は二つの巨岩にまたがる形で作られ三層になっていました。



地階部分は「天守縁の下」と呼ばれ、板縁を入れて二間(4m)×二間半(5m)ほどの広さで、岩の南西隅にありました。
1階の「玉蔵」は建物の床面積が三間四方(6×6m)ほどありました。ここには地階と二階に通じる階段がありました。
2階部分は巨石の上にあり、四間半(9m)×五間半(11m)ほどの広さでした。現在設けられている木造構造物はこの2階部分の床面を想定して復元したものです。




岩の柱穴は当時のものをそのまま利用しています。


推定復元された柱と築城時の柱穴


柱穴跡
ノミの跡が当時の職人の手作業を妄想させます。



推定復元された天守2階部分は展望台になっています。
木曽川や恵那山、中津川市街が一望できます。



「馬洗岩」
天守台の南下にあるこの巨石は馬洗い岩と呼ばれています。「この石回り二十三間弐尺」とあり周囲45mほどの花崗岩質の自然石です。
かつて苗木城が攻められ、水の手を切られた時にこの岩の上に馬を載せ、米で馬を洗い水が豊富であるかのように敵を欺いたことが名前の由来と伝わっています。




笠置矢倉から見上げた馬洗岩と天守
天守と比較すると岩の巨大さがわかる。




「笠置矢倉」
本丸から見て西側にある櫓で通常は何も置かれていませんでした。櫓は三層の掛造りで巨岩の上に建てられていました。



ここからの眺望は良く笠置山が正面に目ることから笠置矢倉と呼ばれていました。
眼下には木曽川とそこに架かる城山橋。(冒頭の写真はこの城山橋から撮影しました)



「不明門」
笠置矢倉下方向にあった二階建ての門で二階部分は物置として使われていました。幅一間(約2m)ほどの通用口の両側の壁は石垣でできており、高さは最大3.2mありました。普段は締め切られ、忍びの門と呼ばれていましたが、現在門から外へつながる道は確認されていません。



「的場跡」
弓の稽古の的場が二か所設けられていました。
二の丸にあるこの的場は領主居間の南側の一段低いところにあり、長さ約30m幅7~8mほどで、剣や槍、鉄砲の稽古も行われていました。
残っている的の土塁は長さ3m、高さ1mほどで右側は石垣、左側と奥は土塁で囲まれていました。




天守北東側にあるもう一つの的場



「二の丸」
領主遠山家の住居や家臣の集まる部屋がありました。



「台所門」
二の丸に出入りするための門



「竹門」
東西二か所にあった門。
こちらは西側、足軽長屋と風吹門の間に設置されていた門です。



「足軽長屋」
竹門を出て高森神社参道を過ぎた辺りにある広い削平地。



ここから東方向に天守が見える。



木曽川に架かる城山橋から見る苗木城の姿は忘れることができません。



【苗木城】
《遠山氏が築き、奪回し、守り抜く》

名称(別名);霞ヶ城、赤壁城、高森城
所在地;岐阜県中津川市苗木
城地種類;山城
築城年代;大永6年(1526)
築城者;遠山一雲入道昌利
主な城主;遠山氏
文化財区分;国指定史跡
近年の主な復元等;昭和59年(1984)度から本格的整備が開始され、史跡見学ルートの整備、二の丸・三の丸の石垣整備、本丸跡一帯の石垣整備を平成16年(2004)度までに行った。
平成17年度には展望台を整備した。平成18年(2006)度から2023年までに城内道などの道の整備と、帯曲輪・二の丸・三の丸の石垣の整備を行う予定。
天守の現状、形態;木枠懸造により推定復元

※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;





【苗木遠山資料館】

苗木10521石の領地に比べ格段に立派な石垣とこの資料館は流石
外様大名ながら幕府の「若年寄」に就任。譜代に準じる特遇を受けていた所以である。



苗木城唯一の遺構、城門「風吹門」



周辺には大名墓地、遠山氏の墓所がある



付近の民家脇の巨石
巨石がフツーに存在する地



高森神社
苗木藩の廃仏廃寺(廃仏毀釈)
明治新政府の方針と共に取り締まりの役職を拝命した事、さらに藩主も同調したため
徹底した廃仏毀釈で城下一帯から仏教色は消え、神道に統一された。その陰で厳しい弾圧もあったと地元民は語る。未だにこの地区に仏教は無いそうです。




中津川市苗木遠山資料館
住所;岐阜県中津川市苗木2897番地の2
電話;0573-66-8181
開館時間;9:30~17:00
休館日;月曜日(12月27日~1月5日)
入場料;330円


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