ようこそ西千葉へ アミーゴ.

ゴールは88歳。誰も教えてくれない12年。主役は自分だ。昨日はもう来ない今日を明日をどう生きる。わはははーアミーゴ

千葉市での体験と人生

2007年09月02日 | 千葉大学

昭和20年7月7日の七夕大空襲で家を焼かれてしまい路頭に迷う。

中学を卒業して西千葉ゆりの木の現在地「新聞販売店」に住み込みで働く、

3畳一間の個室でお給料ももらえる。 大変な仕事でしたが活き活きと働きました。

改築前の西千葉駅は改札を通ると砂利の上を歩いてホームに「懐かしい」

店前は舗装道路ではなく、

確か街路樹は桜が植えてありました。

20歳新聞配達をしながら美容学校に通う。

美容師になろうと決断したのは「新聞の人生案内欄読んでいると」大学を卒業する男性が

美容師になりたいが心配です。という記事でした。


答えは、欧米先進国は男性が主流だから10年たてば日本も男性が活躍する。

10年、我慢ができれば挑戦したらという事でした。

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新聞記事を読んで「えっ」そんな職業があるんだ。

たった10年我慢すればいいんだ。

競争する相手が今はいないんだ

お客様が女性で経営者も美容師さんも女性・・・ようーし、それなら、

中学しか出ていない。
お金もない
親も助けてくれない

ない、ない、ない、  自分だが10年我慢すれば、努力すればいいのだと思いました。

新聞販売店で働いている間、松波町と栄町に住んでいました。

まだ千葉駅が市民会館のところにありました。

確か幸町「壁の穴の木村さんが住んでいるところは海でした」

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昭和39年12月21日現在地の隣に(まこと美容室)をオープンしました。23歳でした。

そのときにためていたお金は15万円でした。後はお金を借りて・・・

オープンしても技術も未熟で、お客様も少なく給料を払えないので、新聞販売店で朝2時に起きてトラックでの新聞の配送をしてました。

5ヶ月ぐらいでしたか、、、居眠り運転で死ぬ思いをしたり、お給料も払えるようになったので辞めさせてもらいました。


40歳で結婚するまで美容室MADOKAの2階に住んでいました。

戦争、アメリカ軍の空襲、焼け出され、仕事を得て、


職業が新聞配達からスタートして、新聞の記事により美容師の職業を得て、新聞販売店が閉店した後に美容室をオープンする。
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千葉駅も現在地に移り中心市街地はすっかり変わってしまう。

海も埋め立てられ

西千葉駅も高架駅に変わり

京葉線が開通

ゆりのき通りも舗装される

ぶら下がりモノレールが走り

奈良屋、扇屋、田畑、が無くなり「そごう、三越、パルコ」がオープン


そして、何時の間にか66歳になる。

自分の千葉市は院内、栄町、松波からスタートして千葉の中心市街地で遊び、楽しみ、

西千葉を中心とした仕事、活動に・・・・


千葉市で空襲に会い・・・千葉市で職業を得て・・・千葉市で独立し・・・千葉市に住む

政令指定都市 千葉市  大きなまちです。

これからの人生・・・死ぬまで千葉市に住むのでしょう。


これからの人生・・・内を目指して生きるのか       アミーゴ


   今日の写真は真っ白に改装した美容室MADOKAです。写真より素敵ですよ