女房が、私も貴方も陸上選手だったから、長男の康平も少し走るのが速くないと肩身の狭い思いをするかもと・・・いうので
康平が小学1年生に上がると、土・日の朝に一緒に走るようにしました。
これが、私の指導者として、親ばか指導の始まりでした。
案の定、熱が入り出して、走っている最中に鉄拳制裁をしてしまう始末
ある日、あまりにもペースが遅く走る康平の腰を押したら、見事に転んで・・・・・泣き出すかと思いきや、何くそという顔をして、涙をこらえて、立ち上がり、走り出しました。そのけなげな顔をみて、俺には親子鷹はできないな! 今もその時のことは思い出しますね~本人は覚えているかどうか?わかりませんが
漫画で大好きだった巨人の星、星飛雄馬のようなに息子を鍛えていく! そしてプロ選手にしていく、私はそんな星一徹には、到底なれませんでした。
まあ、それよりは、女房は、スポーツ根性話が嫌いな人で、楽しくやりたい、楽しくなければいけない派
まあ、中学の陸上部顧問時代は結構厳しくしていたと思いますが・・・
子供を産んでからは、特にその気持ちが強くなっていましたかね
スポーツは楽しくやらなくてはいけません。だから、厳しいのはいやと
結構、彼女の影響は強かったのだと思います。
だから、大学や、実業団のようなミニ部活のような事はクラブを作るにしてもダメだよ!と・・・
そんな時に、出会ったのが、阿見駅伝(2月) 康平が2年生の時 1999年
阿見町の自分の住んでいる霞台地区の駅伝監督を頼まれて、地区の小学生20名ぐらいで約2ヶ月練習会をやりました。本番の試合には2~3チームを組んで出場しました。
結果は、散々でしたが小学生を教えて本当に面白かった。
試合も終わり、思い切って、このまま練習会を継続してやりませんかと文章を作成して配りました。
陸上競技クラブとして、スタートしませんか?と思いを伝えました。
練習会として決めた冬の日曜日、阿見第一小の校庭を借りて康平と二人で待っていました。
しかし、当日、集まったのは一緒に行った康平と親戚の女の子のゆうちゃんの2人だけでした。
やっぱり、陸上競技ではクラブは難しいのかな~~~とその時は思いました。
女房に話したら、残念ね~~と
クラブがスタートする1年前のことでした。
康平が小学1年生に上がると、土・日の朝に一緒に走るようにしました。
これが、私の指導者として、親ばか指導の始まりでした。
案の定、熱が入り出して、走っている最中に鉄拳制裁をしてしまう始末
ある日、あまりにもペースが遅く走る康平の腰を押したら、見事に転んで・・・・・泣き出すかと思いきや、何くそという顔をして、涙をこらえて、立ち上がり、走り出しました。そのけなげな顔をみて、俺には親子鷹はできないな! 今もその時のことは思い出しますね~本人は覚えているかどうか?わかりませんが
漫画で大好きだった巨人の星、星飛雄馬のようなに息子を鍛えていく! そしてプロ選手にしていく、私はそんな星一徹には、到底なれませんでした。
まあ、それよりは、女房は、スポーツ根性話が嫌いな人で、楽しくやりたい、楽しくなければいけない派
まあ、中学の陸上部顧問時代は結構厳しくしていたと思いますが・・・
子供を産んでからは、特にその気持ちが強くなっていましたかね
スポーツは楽しくやらなくてはいけません。だから、厳しいのはいやと
結構、彼女の影響は強かったのだと思います。
だから、大学や、実業団のようなミニ部活のような事はクラブを作るにしてもダメだよ!と・・・
そんな時に、出会ったのが、阿見駅伝(2月) 康平が2年生の時 1999年
阿見町の自分の住んでいる霞台地区の駅伝監督を頼まれて、地区の小学生20名ぐらいで約2ヶ月練習会をやりました。本番の試合には2~3チームを組んで出場しました。
結果は、散々でしたが小学生を教えて本当に面白かった。
試合も終わり、思い切って、このまま練習会を継続してやりませんかと文章を作成して配りました。
陸上競技クラブとして、スタートしませんか?と思いを伝えました。
練習会として決めた冬の日曜日、阿見第一小の校庭を借りて康平と二人で待っていました。
しかし、当日、集まったのは一緒に行った康平と親戚の女の子のゆうちゃんの2人だけでした。
やっぱり、陸上競技ではクラブは難しいのかな~~~とその時は思いました。
女房に話したら、残念ね~~と
クラブがスタートする1年前のことでした。