まさか日本でカルチャーショックを!

日本で技術者→中国広東省にて日本語教師→日本で技術者復帰→技術者+?
旧題名:まさか私が日本語教師に!(NO.3)

俺、そうとう大変だったんだろうなぁ・・・

2020-10-04 01:48:15 | 日本での生活
休日の土曜日であり、なおかつ丸一日自由な時間があった。

朝、コンビニ駐車場で缶コーヒーを一口飲み、病院に電話。
インフルエンザ予防接種の予約であったのだが、本日ひとつ残っていると言う。

本来自分の免疫力が低下する時期を考えると、もう少し遅めの接種のほうが良い。
それに昨晩は休日前であり、今朝未明まで起きていたので避けたかった。
しかし、今月は試験もある。
さらに今年は新型コロナウイルスという実に厄介なものも存在している。
そういう次第で、本日の接種を決めた。

この3年(会社が利用している健康保険組合からの)インフルエンザ予防接種費用補助の用紙が届く前に接種するのは、私から後期高齢者の親へ感染させてしまうことを避けたいからである。
2018年1月に当時すでに相当弱っていた父親に感染させてしまった。
当然母親にも。
これはとても大変であった。

(ちなみに母親は市からの金額補助のクーポンが届いておらず、まだ接種していないのだが、母親には母親の考えがあるので別行動を取っている。)

(それに私の感染で職場の機能をマヒさせたくもない。
今の職場は以前のところとは違い、「私のインフルエンザ感染が危うく国の経済に影響することになるところであった・・・」というところまでの危険性もないので、強制的な予約は取られていない。)



帰国後の私はそれまでの己の生き方をひとまず仕舞い込み、両親のことを優先させた。
後に記すが、それはそれでけっこう重かった。

さて、これは何度か記している。
とても不謹慎な表現をすると、今年父親が他界してから、少しは自由を得た。
いや、かなりの自由を得たのかもしれない。


本日は実にあれこれ考えた。

中でも今朝の母親との会話。
昨年2019年の私は父親のことでかなり大変だったらしい。
大変になる前の記憶が若干欠如している・・・。
そのうちのひとつは2019年度からの新たな趣味の勉強とするつもりで訪れた場所・・・。
その地名も駅もバスも思い出せない。

母親いわく「昨年はそうとう大変だったと思うよ」と。

大変になってからも多少記憶があいまいな部分がある・・・。
父親の入院等、引っ越しや母親、親族、友人、仕事や観光で日本に来た学生たちのことは覚えている。
仕事の内容も自分が何をしていたのか実に鮮明に覚えている。
合間にいくつか受けた試験のことも良く覚えている。

しかし、その他の個人的な行動のいくつかが思い出せない・・・。

懸命に頭を回転させると、おぼろげな光景は浮かぶ。
しかし、そこから先が不明なのである。

おそらく相当重くのしかかっていたのだと思う。
入院していない時は母親ひとりに介護をさせるわけにもいかない。
入院すればしたで、面会にも行かなければならない。
母親が帰った後で、父親の洗濯物が出てくることもあるのだし。
歩きや自転車の母親に毎回それらを運ばせることも避けたい。
父親の様子を見たり、励ましたり。

当時は残業30分程度で退社して、家に飛び帰って世話を手伝ったり、病院への面会等をこなしたり、引っ越しに際してのあれこれ(特に旧宅の片付け)のために、休憩など取らずに仕事を飛ばしていた。
当然昼も仕事をしていたことも珍しくはない。
同僚の「たまには休憩したら・・・」という心配の言葉を無視して。

2018年晩秋に片道2時間弱かかる通勤時間の職場から近場への転勤願いを出した辺りまでかなりのことをはっきりと思い出した。
その頃はすでに父親に介護認定が下りていた。
はっきりと思い出せるのに、自分の個人的なことで思い出せない記憶があるという矛盾。

それでも、私はこう思う。
誰もが親の面倒を見ることができるわけではない。
老いた親の傍にいることができない方々はたくさんいらっしゃる。
それを考えると、「私はなんて幸せな人間なんだろう」と感じる。


私は2014年夏に帰国できた。
これは必然的に私の想いがアファメーションとなって発生したことなのであろう。

2014年1月下旬から2月中旬までの3週間という一番長かった一時帰国で見た両親の様子。
そして、私が中国に戻る日が近づくにつれてはっきり感じただんだん大きくなる両親の寂しさ。
まるで譜面にクレッシェンドが記してあるかのように。

それらが「なるべく早く帰国して、老いた親を支えたい」と決意させることになった。

私自身、2012年12月下旬からは「いつ本格帰国になっても後悔しない」ように中国生活を楽しむことにした。
それは当時のパスポートの期限までの日本本格帰国を決意したことによる。

正直、2012年夏から秋の尖閣問題は痛かった。
中国は好きであるが、このままの身分(現地採用日本語教師)としてはずっと滞在できないと感じた。
当時は公安も私の安全を考慮してくださった。
(郊外の村の外れのアパートに一人住む外国人専家証をもっての就労ビザを持つ日本人教師が襲われたら、大問題になるよなぁ・・・。)
それでも正直「長く居すぎた」と感じた。
長く居れば、楽しいことも増えるが、嫌なこともたくさん経験することになる。

ただ・・・。
正直、ずっと地元にいるつもりはなかった。
だが、両親の様子を見ると、他のところで好き勝手に生きることはできなかった。
父親を連れての病院、かさばる物、重い物の買い物。
車を運転しない母親だけでは無理である。
妹たちも毎週のように実家に顔を出すことは不可能であるし。

であるから、ずっと実家に住み続けた。
やりたい仕事のチャンスもあった。
あることですぐに遠地に飛んで行きたいことも何度かあった。
友人たちとの交流の調整も大変であった。
試験勉強も、個人的な自己研修も。

実際、失ったものも大きい。

それでも天から自分に与えられた役目を放棄したくもない。
しつこいようではあるが、親を養うため、支えるため、介護のために地元に戻ったり、実家に住んだり、自分のところに呼び寄せることが無理な方々も多いのである。
そのような方々から見たら、私は本当に幸せなのであろうし、自分でも有難く感じる。


時々自由な日に自分に課している何かをサボることがある。
本日は勉強であった。
何一つしていない。
強いてあげれば、車を走らせながら、中国語の歌を聴いていたぐらいか。

最近増えた突然の自由。
何も準備していなくても、貴重な時間を有意義に過ごせるように、何かしらのパターンは存在する。
しかし、本日は本能のままに行動した。

ひとりで何もかも背負い込むことは難しい。
ストレスを溜めるべきではない。
笑顔で生きたい。
人々のために。

今晩も夜更かしをしてしまった。
明日はAM9:30開店のスーパーを振り出したとした買い物の運転手と一部の荷物持ちという役目が待っている。
そろそろ寝ようと思う。

笑顔で眠りに着こうと思っている。
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