銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

加藤和彦氏の、死の、私なりの分析-1

2009-10-19 09:23:47 | Weblog
 今朝、09-10-18の朝日新聞・朝刊に北山修氏の加藤和彦氏の死に関する、追悼の言葉が出ています。それを読まなければよかったと思いながら、昨日から、ずっと寝ないで考えている、加藤和彦(氏)分析をここにアップロードさせてくださいませ。それは、今連載で取り組んでいる大学の質と変化の問題とは別になります。そして、10時間だけアップロードした、プリンストン大学の文章は一回引き上げて、後日改めて、さらしましょう。

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 まず、最初に、『久しぶりに、天才的、生き方に接したなあ』という感慨に打たれています。『日本にも、こういう人もいたのか』という悲嘆とともに、『ある種のうれしさも感じた』と申し上げたいと思います。

 これから、一種の奇想天外な論を展開するとしても、私の尊敬の気持ちには変わりは無く、ただ、人間として、自分たちの生き方の一種の指針となっていただくために、その人生を分析するのをお許しいただきたく。・・・・・

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 奇想天外だというのは、加藤氏の自殺(ほぼ、そのようにみなされている)の引き金になったのは、結構のところで、北山修氏との人生の比較に在るかもしれないと思うからです。

 同じ朝日の、17日の夕刊に載っていた写真によれば、北山氏は顔の骨格がしっかりしていて、やや、スポーツマンタイプであり、若き日の加藤氏は、優しい面立ちです。それが何を意味するかというと、北山氏は、人生の総括的な計算ができる人であり、

 医師となった(これは、医師免許が必要なので、国家試験も受けないといけません)ということは理性の人であることをも証明しています。つまり、はっきり言えば、大きな規模で計算ができる人です。

 ここで、今朝の新聞を読んで残念だったというのは、その北山氏が、加藤氏の自殺を、「すべて計算づくだったと」・・・思う・・・と4行目に書いていることです。

 つまり、私が、<<<加藤氏に比べれば、より計算ができる人である>>>と、これから、書いて行こうと思っていた北山氏が、「加藤は、計算ができる人間だった」といっているわけですから、私の論理が、ちょっと成り立たなくなると思います。が、めげないで書き進めましょう。

 加藤和彦氏は、相当前から、自殺することを考えていたと私は思います。それを、計算というのならそうでしょう。そして、ワイド・ショーの無い、週末を選んだというのもそうでしょう。でも、私が最も重きを置くポイントは、北山氏の文章の、14行目に『人生のライバルだった』という言葉にあります。そうですね。同僚として、出発した若き日の仲間との、差がついてしまった。それに愕然とする日はあると思います。

 石川啄木の、「人がみな、われよりえらく見ゆる日よ、花を買い来て妻としたしむ」という歌があります。みんな身近な人の出世というか、差がつくことには、愕然とする日が来るのです。

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 真に芸術家として生きることは、結婚・生活を難しくします。発想がわいているときには、話しかけられるのもいやなもので、「あっちへ、行け。うるさい」というような発言をしたり、または、発声をしなくても態度に拒否する感じが現れると思います。

 私は、自分が天才でもないし、有名でもないが、56歳でパリに研修滞在をできたときから、『あ、自分は世界に通用する。がんばりたい』と思って当時もっていて、2400万円を軍資金として、アトリエ一人暮らしをはじめたのです。

 家族と一緒に暮らしながら創作をすると、お互いに欲求不満となるのです。で、その間にさらに、ニュ-ヨークへ二回も行くこともできたし、今、このように、毎日一本のエッセイを書く、修練もできたので、それは、それで、無駄ではなかったのですが、人生最後の日までは、その一人暮らしは続けられないと感じて、

 家へ戻った人間で、と、同時に、芸術家で在ることをあきらめた人間なのです。だから、67歳まで行き続けられているわけですが、あの生活を続けていたら、必ず孤独死へいたったでしょう。

 その間の、深い思いと、どうして、家へ帰ることになったかのいきさつは、私の五冊目の本、『黄色いさくらんぼ』に詳しく書いておりますから、ここでは、詳述をしませんが、加藤和彦氏も、自分の将来の姿のひとつとして、孤独氏は想定なさっておられたでしょう。

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 最近、『おくりびと』という映画がヒットして、孤独死をしたあとの、部屋の始末をする場面が、鼻を押さえるという表現で、示されていました。私は、一人暮らしの間に、二回ほど大病をしたのですが、その一回目のときの肺炎のときに、三日間ほど、四六時中、大型(16畳用)ガス・ファンヒーターをつけっぱなしにしたのです。その間に、医者から、「あなたは、このままだと死にますよ」と言われたのがショックで、買ってきたキャベツを冷蔵庫に入れるのを忘れていたのです。すると、キャベツが猛然と、におい始めたのでした。悪臭です。

 びっくりしました。野菜です。たんぱく質が入っていない野菜がこれほど、におうのですから、人間の体が腐ったら、硫黄や燐が入っているので大変な腐臭がすると思い至ってね。しかも、24度ぐらいに温度設定をしていると、たった、三日ほどで、ものは腐り始めるのです。キャベツより、人間の体の方が早く腐ると思いますし。

 強烈な恐怖に教われました。私も絵描きでしたから、おしゃれで、その予想には参りました。だけど、それだけで一人暮らしを止めて、家へ帰ったわけでもなくて、二回目の大病、イタイイタイものを主人が東洋医学で治してくれたので、(ただし、三ヶ月間の間に、50回程度、二日に一回は通いましたが)、『ああ、自分はこの人の軍門に下るべきだ。普通の主婦として生きよう』と、絶対的な覚悟を決めたのです。

 よく、「どうして、絵を描かないの?」と人に聞かれますが、私の場合は、時間を区切って美術の創作・仕事はできません。文章のほうは、エッセイを主に書いているので、『一日に創作は一本、後は、整理とか、校正にあてる』と決めているので、時間が、管理できるのです。つまり、文章には才能が無い。それは、はっきり知っています。

 才能のある分野は、時間も管理できないし、エネルギーも管理できないし、お金も管理できません。それは、直感で動く世界です。

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 加藤和彦氏は、天才だったと思いますので、まったく、計算外の生活を送ってこられたのですが、晩年になって、それでは、若い日と同じ暮らしができないことに気がつかれたのです。それをどうするかですが、次第に弱っていき、衰えていき、最後には、孤独死にいたる将来が予測できたからこそ、そこまで無残になる前に、決着をつけようという、判断があったでしょう。

 もし、未来へ希望があれば、当座をしのげればよいのです。借金があったとか、ウエブ上で報道されていますが、それなら、北山氏に借りに行けばよい、生き抜くつもりなら、人間は恥をしのぶことなど、簡単なことです。

 私が三冊目か、四冊目の本を作ったときですが、あまりにも、忙しく、(それは、パソコンに妨害を受けたので、神経を使いきってしまって)実印まで含む全財産を入れた、ポーチ(化粧袋)をコンビニに忘れてきてしまったのです。

 朝早く五時ごろ、その新しい本への添え状のコピーをとりに行く必要があったのですが、普断使っているお財布を、二階の居間で捜すと、音が響き渡って家族を起こすことになるので、一階の誰もいない客間の引き出しにあった、そのポーチを持って、コピーをとりに行きました。

 そして、コピーを持って帰ることに懸命で、大切な全財産を忘れてしまったのでした。コンビニのほうは、他人のものだから、あけても見ないでおられたので、・・・・・無論、私のほうには知らせが無くて、・・・・・私は二、三日、真っ青になりながらあちこち探しましたが、見つからないので、仕方がなくて、本を郵送するお金だけを、人に借りました。

 家族が、『お母さんは、贅沢でわがままだ』と思っていた時期でしたから、家族に郵便切手代を借りるわけにも行かないし、実印までなくすとカードの再発行なども簡単にはできないのです。

 でも、芸術家の端くれだから大切な創作品である本を、新鮮なうちに、配りたい・・・・・特に実名で美術評論をした本だったので、登場人物には、早く配りたい・・・・・わけです。その切手代三万円が無い。・・・・というわけで、それを知人に借りました。それは、恥でもなんでもないです。

 その次の希望があるので、本当の、当座のしのぎだから、大丈夫なのです。実際に、ポーチが見つかればお金は返せるし、本も次から次へと、五冊目、六冊目を作りましたしね。

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 だけど、明日への希望が無いときには、借金は、知人にはできません。それは直接の恥になるし、また、返す見込みも無いなら、信用を大きく、そぐなうからです。だから、誰も知らない形で折り合いをつけたくて、カードローンなどをしてしまうとします。そうしたら、定期収入の無い芸術家には、命取りです。日本にはサラリーマンが、数の上で多いです。サラリーマンなら、次の月の収入が見込めるから、カードローンが、大丈夫で、したがって、世にそれが蔓延しているけれど、芸術家が、借金をするのは、危ないのです。

 そうなった日に、もし、自分との対照・比較・例として、安定した家庭を営んでいる北山修氏(私は氏の方の実情は知りません。でも、お医者様というのは現代日本でも、数少ない、エリートとしていまだに認められている階層です。安定した立場であり、社会的な尊敬も、見事に受ける立場です)を、思い浮かべたら、惨めさはいや増すでしょう。

 医者に比較すれば、芸術家は、知らない人

(いえ、彼の顔を知らない人間も、今では、多いでしょう)

から見たら、その服装でのみ、階層を分別され、

時には、この前の横須賀線のドアーにはさまれそうになったご老人(10月、6日から8日まで三日間連続してアップロードした話)みたいに、公的な人、(つまり、JRが雇っているガードマン)にさえ、粗末に扱われるのです。

 もし、そんな目に出会ったら、加藤和彦氏みたいに、過去の栄光があり、プライドの高い人には、大きな、ダメージとなったはずです。

 そうなると、ここで、樹門こうさいという人が「姓名判断の本」の中で言った、『私の規定する幸せとは、普通のレベルの財産があり、子供があり、孫がいることです』というのがあたってしまいます。

 天才であることが、何の役にも立たない世界となってしまいます。

 ここで、後ろから主人に呼ばれました。芸術家で生きていくことをあきらめた私には、家族の仕事があります。それが義務でしょうね。私が孤独死しないためには。
 特に、徹夜みたいにして、ものを考えているのは、それなりに家族には迷惑なので、ここで、途中ですが、いったん終わり、後篇をお待ちくださいませ。でも、加藤和彦氏の自殺(?)は、徹夜でものを考えさせるに足る重要なデキゴトでした。

 なお、一回、8時間弱・真夜中に、あげた、プリンストン大学に関する文章は引っ込めまして、別の日に、再度・あげます。2009年10月19日、雨宮舜(川崎 千恵子)
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