銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

フェデリコ・フェリーニ監督の手の内、心の内、映画『甘い生活』から考えること

2012-03-13 11:58:07 | Weblog
映画好きの方にお断りをします。これは、まだ見ていない方にお勧めするための、文章ではないと言うことです。
 映画『甘い生活」を、きっかけに、人間とか、人間の生活を考える文章です。ところで、現在14日の20時ですが、部分的に書き直したら、書き足しています。どこがというと、スタイーナー氏という知的な上流階級が、子連れ無理心中を図るところです。

副題1、『なぜ、映画***甘い生活***を見たか』
副題2、『イタリアの新興住宅地の光景に打たれる。
      樹木が一本もない荒涼たる大地の中に立つ、
      階級別にランクの差のあるマンションや、集合住宅』
副題3、『俳優陣に、輝きと、リアリティがある』
副題4、『知的階級の実存的不安。と、子連れ無理心中』
副題5、『フェリーニ監督の手の内、心の内を推察する』

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副題1、『なぜ、映画***甘い生活***を見たか』

 私はカンヌ映画祭で、グランプリをとった(だから名画であろう)『甘い生活』を見ることを、わざと避けてきました。1960年の制作です。そのころは、高校生です。受験勉強中の少女(?)が、見たい映画ではない。『ローマの上流階級の退廃を描いている』そうですから、17、8の未来を信じる超がつくほどまじめな(笑)少女が、見るべき映画ではないと感じていました。

 ただ、今、NHKのBSプレミアムがアカデミー賞関連番組を編成していて、その一環として放映をされたものを録画しておいたのですが、無論まともに見る気はなかったのです。時間がないと思っていました。でも、年が年ですから、今見ないと、二度と見る機会はないであろう。名画というものの片鱗には触れておこうと思ってね。
 でもね、最初の動機は不順です。急に暇になったからです。

 なぜ、急に暇になったかというと、突然に、フェイスブックを、切られてしまったからです。海外に住む方から、「急に、開けないけれど、どうしたの?」と、電話で、お問い合わせをいただいて、自分でも訪問ができないが、他人も読めないことになっているのを知りました。過去に投稿した、コンテンツが大切ですが、それは、もう誰にも読めないということです。で、その件に関して延々と、長文を今朝の早朝書いたのですが、それを完成する前に、映画は映画で、独立した一文とさせようと考え始めています。

 でもね、上の、7行をどうしてここに入れたかというと、単に時間があまったから『甘い生活』を受け入れられたというよりも、・・・・・今、抱えている問題から、自然に受領した、哲学的な境地というものが、付与してこそ、この映画が、より良くわかった・・・・・と感じるので、その上の政治的な弾圧の部分もコミの、映画感想ではありますが、ここでは、最初にお断りしたとおり、独立をさせます。
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副題2、『イタリアの新興住宅地の光景に打たれる。
      樹木が一本もない荒涼たる大地の中に立つ、
      階級別にランクの差のあるマンションや、集合住宅』

 この映画は、その映像美がすばらしいと誰もが言っています。私もそれには賛成しますが、大方が言っている、貴族の館内の描写や、大金持ちの近代的なインテリアの情景、又、トレビの泉ほかのローマの旧市街の、各種の観光名所の描写が、美しいというよりも、まず、マンション群の映し出される映像に、圧倒をされたのです。
 イタリアの特にローマが、どれほどの戦災に出遭ったかを、私は、知りません。中心部の歴史的な建造物はすべて残っているので、ローマのあの大マンション群が、建って居るところは、地域開発をされた地域なのでしょうか?

 良くわかりませんが、ともかく、樹木一本無い荒れた大地に、ぽかっと集合住宅が建っているのです。棟と棟の間隔は広いです。そこが、人口密度の高すぎる日本とは違います。が、最初に登場するそれがすばらしい。汚さと貧しさの象徴として見事です。
 つまり、中心部で、ヒッチハイカーとして偶然拾った娼婦の家を主人公のマルチェロ・マストロヤンニと、車の持ち主の、アヌーク・エーメが訪問をする場面です。
 これはね。イタリア人の陽気な気質とカソリックを信じる気風から生まれた、処世術だと思うのですが、都会の中で、車を手で合図して、停めて、乗せてもらう風習があるみたいなのです。特に車の数が少ない時代ですから(1950年代の風習を描いている)立派なオープンカーなどに乗っていると頼まれやすいみたいです。物乞いの発想でもあるが、それこそ、シェアの発想でもあります。又、バスなどが無い深夜ですと、これは、お願いしてもいいことなのかもしれません。特に神の元では平等であるイタリアではね。
 で、お礼はコーフィーいっぱいを御馳走してもらうぐらいです。そのコーフィーを入れてもらっている間に、主人公の二人はむらむらと来てしまい。それを察した家主は、ことが終わるまで・・・・・そして、終わった後で、寝入ってしまった二人が起きる朝まで、外の彼女のオープンカーの傍で待っているのです。
 そこへ、親戚だか、ご近所様の男性がやってきて、「お金をもらえ」とそそのかします。つまりラブホテル代わりに使われたからです。が、それを口に出すことも無い間に、アヌーク・エーメがお小遣いを娼婦にそっと渡します。

 その舞台となったマンションですが、後で出てくるスタイナー氏のものとはずいぶん違います。地下室があり、そこに彼女は住んでいます。上階よりも間取りが小さく(1DK・・・・ただし、最近の日本のワンルームマンションの2倍の広さはある)ですが、配管がズサンなので、床は常に水浸しで、板を渡して部屋に入ります。

 主人公のマルチェロマストロヤンニが住んでいるマンション、そして、友達のホステスが、住んでいる高級マンション(が、デザインが古い)。知識階級の有名人が、住んでいる高級マンション(デザインがモダンだ)。古い貴族の館、大邸宅だがインテリアは、古い。近代的なビジネスエリートが住む、モダンな一戸建て・・・・・とうとう、目を見張るほどの、建築物の羅列で、それそのものが、大いなる、意味をこちらに感じさせます。
 庶民的な彼の自宅マンションには、庶民的で、糟糠の妻になりたい女性が待っているし、貴族の館には、何者にも動じない老女が住んでいます。

 最後の宴会場、大富豪の家では、日本でも、六本木あたりで、ちゃらちゃらしているような、後にテレビ業界を牛耳る(加賀まりこや、桃井かおりや、大原麗子などのように、スターともなった人物もあろうが、プロデューサーや、コメンテーターや、台本作家などの裏方ともなっただろう人材がたむろしている場所の、雰囲気を彷彿とさせます。

 私はともかく、階級のステータスの象徴としての住まい、そして、それの利用の仕方に舌を巻きました。

 この映画には、実は筋が無いのです。でも、それでも、飽きないでついていったのは、そういう部屋の違いを見るだけでも面白かったからです。
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副題3、『俳優陣に、輝きと、リアリティがある』

 私はね。もうひとつ惹かれるポイントがあって、それで、ずっと見続けたのですが、それは、俳優陣に輝きがあります。多分、若い日に高卒後、新聞記者になったフェリーニ本人の自画像が投影されているマルチェロ・マストロヤンニが出ずっぱりで、それが、この映画の統一感を唯一支えているところですが、それを始め、出演者全員が輝いていて、かつ、スターシステムではなくて、リアリズム追求でそれなりに、しっかりとした演技を求められていて、きちんとこたえているのです。

 それに、重要な女優陣と主人公が交わす、男と女のリアルな会話・・・・・これもすごいです。特に、糟糠の妻になりたいエンマという女性(ほかの女性と比べると、肉体的な魅力やら、タレント性、また実家の財力という点では、劣るが、必死に、よい妻になろうとしている女性)との会話とか、やり取りは、秀逸ですね。エンマが、最初の方では、浮気ばかりするマルチェロとの、未来を危ぶんで、自殺未遂をするのですが、その後、きちんとほぼ、実質的な、夫婦生活(日本語で言えば同棲)を連続して、居ます。その後、大喧嘩をして、二時間ぐらい、車から放り出されます。自宅へ帰れない路上でほうったらかしにされるのですが、マルチェロは、結局は迎えに行きます。それほど、女性側エンマが、強くなっているのを示すのは頼もしい限りです。

フェリーニ自身は戦友としての妻、ジュリエッタ・マシーナを持っているわけですが、それでも相手から近寄って來たり、しごと上で出遭った女性たちと、何かアヴァンチュールをしなかった可能性は少ないのです。
 でも、エネルギーレベルがとても高くて、肉体的にも壮健な人間たちのありのままの姿だといったらそうも言えるのです。

 しかも、だからこそ、集団的創作の結果である映画の監督ができるのだと思います。我が家など、夫・妻とともに、そういう世界で、活躍できるとは思いません。朝から晩まで不定期な重労働が重なった上で、夜は飲んだり食ったりを仲間とやるわけでしょう。すさまじい、生活です。でも、その猥雑さを、全部入れ込めているのが、彼の当時の立場の反映だと感じますね。動と静と、社会と個人のエピソードが、入れ替わり立ち代り現れますが、私は、その大体を、面白いというか、感銘を受けながら見続けました。
 
 特に父と息子の関係など、生涯ではじめて、ローマのキャバレーの夜に心が通うエピソードなど、『こうだろうな。彼ならね』と思わせる部分がありますし。
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副題4、『知的階級の実存的不安。と、子連れ無理心中』

 後半に、知的階級として成功をしていて、自宅をサロンとして開放しているスタイナー氏という人物が出てきます。名前の音感やオルガンが弾けることなどから、ドイツ系の人物像を思い浮かべます。で、この映画の中ではきわめて異色の登場人物です。外では飲み食いをあまりしない、上品な人物です。
 自宅のサロンでは、お客が出す音によって目覚めてしまった、天使のごとき愛らしい子供たちも寝室からやってきて、お客に紹介されます。

 そのかわいいお子さんを道連れにして、この人物はやがて無理心中をしてしまいます。女性の方(妻)ではなく、夫の方が、子連れで、無理心中をするのです。
 この事件が当時のローマで実際にあった事件を反映しているのか、それとも、フェリーニの創作であるかどうかがわからないのですが、ありとあらゆる意味で満たされた人物が、実存的な不安に駆られて、愛するもの、特に後に残す幼いこどもたちを心配して道連れにするのは、世間一般の人にとっては、衝撃的なことですが、フェリーニにとっても衝撃だったと思われます。

 フェリーニは、こういう知的上層部と、ずっと前には、付き合っていませんでした。最初は雑誌記者として、始める社会との縁ですから、取材という形でありとあらゆる階層の人々と付き合うことが可能なのです。特に自分が持っている男性的(セクシュアル)な魅力を武器にすれば、ありとあらゆるところに入り込める。
 が、知的上層部は雑誌に自分が出ることなど、望んでいませんので、記者としては出会えない人種です。そういう普段は出遭えなかった人種と、対等の間柄として、その上等なサロンに招かれることは、彼が映画『道』によって世界的な大成功を収めたことと関係があるでしょう。それで、この手の知的上流階級との交流に、門戸が開かれたことをも示しています。

 その家庭にまで入っていってみたところ、お子さんが居た。フェリーニは奥さんが女優のジュリエッタ・マシーナであり、戦友ですから、お子さんを意図的に、創らなかったと考えられます。そして奥さんは35歳を超えました。これは1950年代の医療では出産には危険な年齢といえます。そして、フェリーニ自身も、『しごとに身軽に専念できるためには、小さな子供にかまっている暇などない。そんな小市民的な考えは持っていない』と、自己に思い定めていたと感じます。ところが目の前に、天使を見たら衝撃を感じるはずです。
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 実際には本能というか、潜在意識のレベルではうらやましかったと思われます。で、事件がなかったとして、その***父がかわいいお子さんを殺してしまった***というエピソードが、フェリーニのある種の、うらやましさほかの潜在意識の、葬り去りへの解決策、または、開放策だとしたら、・・・・・それこそ、創作の醍醐味ですが、それはそれでもいいと思います。
 というのも最上級の創作のしごとと子供というのは、並立しないのです。子供を持ったら、ある程度以上に平凡に生きないとダメです。

 ただし、これが、創作ではなくて、実際に起きた事件を反映したものだとしたら、フェリーには神の存在を感じたことでしょう。何もかもそろっている人間に落ちてきた衝撃の結末・・・・・自分には子供が居ない。だが、自分は、無理心中事件を起こすほどの、追い詰められた不幸は無い・・・・・というポイントで、幸せと神の采配を感じ取ったといえないでもないです。
 この信仰の問題は新たに、一章を付け加えて考えます。 

 ところで、この事件が実際に起きたものだとしたら、不安の処理をどうするかという課題が、新たに、生まれます。フェリーニにとっても、又、世界中の知的でより深く物事を考える人の間で、必要なこととなります。で、フェリーには、子供云々ではなくて、不安を動処理するかの問題に関して、あのエピソードを提示したのだとなります。無論のこと観客の方は、「結論はあなた自身で出しなさい」といわれているわけですがね。

 その不安の問題こそ、私が昨日、深夜に、文章を書き始めた大きな動機です。

 そして、それは、『フェイスブックを、敵から切られた』ということと連動して考え及んだことなのです。902人という大勢の知己がすでに、その世界で、居ました。それは、単にこちらが、有名人だから相手から申し込まれたわけではないのです。俳優などの有名人は次から次へと申し込まれるので、数千人の友達が居る人が居ます。が、私の場合は、丁寧に、丁寧に、どこか、気心が通じた相手を開拓して言った、友達で、その数なのです。すさまじい重労働の結果でもありました。

 それを一気に失ったわけです。しかも、その世界に私が居ないわけですから、鬼のいぬまの洗濯として、復讐やら、いろいろな悪口の伝播に使われる可能性はあります。大損失です。
 
 でも、パニックには陥っていないのです。割と丁寧に落ち着いて毎日の生活を普通に、やっています。

 ところで、上にケーキの写真をひとつ載せています。これは、本日、五時から六時までにつくったものです。どうしてかというと、このブログおよび、フェイスブックの両方の世界で、私と接触して下さって居る方が、もしいらしたら、私がそこで、イチゴのショートケーキ(ホールといって丸いもの)をアップしたことがあるのを覚えておられるかもしれないからです。
 それは、ずいぶん好評でした。それと同じ形式で、しかし、イチゴではなくて金柑の砂糖煮を使って作ったものです。

 今回のは、土台としてカステラを使いましたから、細長い形になっています。金柑が五つのっています。普通のお店で買うのに比較すると、これを、二つに切ると、ひとつが、400円程度で売っているものと、同じ量となるでしょう。白いところ(=生クリーム)には、お砂糖を入れてありません。その理由は金柑と土台のカステラが甘いからです。そして、無駄になる部分を避けるために、しぼり袋には入れてありません。ナイフで、ぺたぺたと塗りつけております。簡単に作るのがホームメイドをしょっちゅうやるコツだと感じています。
 今、午後7時ですが、食後のデザートとして、五分の一を食べました。おいしかったです。  
 しかし、どうして、それほど落ち着いているかについては、ここでは述べないで置かせてくださいませ。それこそ、昨日アップした文章を推敲して、そこに書きたいことです。

 で、自分は、最近ではパニックに陥らず、その手の実存的な不安に駆られることが少ないのですが、それでも、一般的には不安が存在していることを知っています。特にものを深く考えすぎると、この世は矛盾に満ちているわけですし、深い悩みに陥りがちですし。
 そういう傾向に対して、私自身は、ただ、「自殺がいけないのだから、ひたすらに努力をする」としかいえませんが、年を取ると鈍感になるとは言えます。経験が深くなるので、いちいちについて、以前ほど、深くは、揺り動かされないのです。特に版画をやったことが良かったです。

  私がやっている一般多色摺りというのは重い金属芯の太いローラーを一日に、600回ぐらい回転しないといけません。それから掃除に関して、同じく、ガラス板を使うのですが、それや、そのローラーを拭うのが、拭っても拭っても、インクの色が、残るので、結構な労働量です。それをやりつつ、毎日、版画ばかり10時間やり、それを、ほぼ80日続けることを、1998年、1999年、2000年と、三年、海外で、やり続けたので、それが不思議な、生活改善に役立ち、あまり悩まないようになりました。それは、幸運です。専業主婦の立場で、そういう自由を得られたのは、本当に幸運なことでした。
  苦しみもいっぱいありますが、ラッキーなこともあります。
  で、私個人に関しては、そういうわけで、やっと悩みのトンネルを抜けたといえますが、ほかの人については、ただただ、「訓練と、選択の積み重ねで、強くなっていってくださいね」と言しかないです。その影に、『自殺は悪いとは思わない』という考えが潜んでいると、引き止められませんね。
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副題6、『フェリーニ監督の手の内、心の内を推察する』

 この映画は、難解だとされています。また、プラスの評価を与える人とマイナスの評価を与える人が、真っ二つに分かれるそうです。

 が、私は、このように考えます。かれが、「道」で世界最高の成功を収めたときに、まだ、34歳です。その後で、突然に名誉や、お金がどっと手に入り、階級的にも自分の今までの世界よりずっと上の人と付き合い始めます。

 それに対して、心理的な安定を求める、整理のための映画だと感じます。父とのエピソードも、自分の少年期を説明する意図があったでしょう。日本と同じようなワーカホーリックだから、家に帰られなかったのか、それとも、外に愛人が居たから帰らなかったのかは、わかりませんが、自信ができたからこそ、明かす、『自分が雑草育ちだ』と言うこと。でも、それでも、父はいい人で、親子の間に愛情が交わされていること。

  しかし、最後に、マルチェロは、海の傍で、であった少女の言葉が、ミミに聞こえません。それは、彼にとって、素朴な民との間に、懸隔が、できたということの象徴だと思います。『道』を作ったときに彼の心にあったのは、素朴なもの、根源的なものへの尊敬だったと思います。
 それは、高卒で入った、雑誌記者の生活から、得た澱(おり)というか、ごみ的なものの払拭と、洗浄を目指した映画だったと思います。しかし、その大成功によって、再び、今度は、上流社会と接触することになった彼・・・・・

 しかも今度は取材する側ではなくて、取材される側として、ある自分。そういうものを、受け止めていいのか、受け止めない方がいいのか、悩みながら、しかし実際は、すでに有名になった自分の生活を後戻りさせることもできないのです。そういう自分の生活の中で、心の折り合いをつけるための、映画だったと考えるのですが・・・・・
  皆様の御意見はいかがでしょう。
    2012年3月13日  午後、8時半 雨宮舜(川崎 千恵子)
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