銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

死刑囚の釈放から、勇気を与えられ、60%程度まで開示して真実を語る、

2014-03-28 12:19:39 | Weblog

 今は土曜日の午後2時です。これから残りの加筆を始めます。それから総タイトルも一気に変えました。

 元は、『晴天の霹靂とは、この事だ。・・・・・袴田死刑囚、針生一郎、赤津ただし、渡辺幸子』でした。

 この文章は、実は、いろいろ、解りにくいものだったと、今は、反省しております。どうして、そう言う風になってしまったかと言うと、相当に、自分の規制を緩和して、新しい部分に入ろうと思っていて、気がせいていたのでしょう。それで、自分では、わかっているつもりのところは、ぼんぼん抜かして文章を書いているがために、解りにくくなっていたのでした。これから、そう言うところを補いつつ、解りやすいものに変えていこうと思います。

 新しく加筆したところはわかりやすい様にアンダーラインを引いておきます。

副題1、『それは、晴天の霹靂と言うべきものだった・・・・・で、思い切って書く事を、規制緩和して拡大する』

 私は前報で、神様が人間の姿を借りて、目の前に現れ、はかまだ(元?)死刑囚の釈放を教えてくれたと、申し上げております。その現象があまりにも尊かったので、録画のニュース番組も見なかったと、申し上げております。

 いや、それは、晴天の霹靂と言うべきニュースでした。はかまだ死刑囚を解放したのが、検察庁だったのか? 警察庁だったのか? 法務省だったのか? そう言う部分が今のところ、私にはわかっておりません。だが、大体英語だとPOLICEという部分だと思いますが、そう言うところが、弱者に対して優しい措置をとるということが、ありえないからです。今までは、そうでした。だから、このニュースは晴天の霹靂といってよいものです。

 で、ずいぶん、勇気を持って、自己へかけている規制をはずし、大きく踏み込んで書き始めようと思っております。で、大きく踏み出して語りたい、最初のことが尾行のことです。私は犯罪人ではないのですよ。むしろ被害者です。ところが、加害者側が強者なので、自分でやらず、お金を与えて雇った人間を使い、私を心理的に追い詰め、病気にし、果ては、暗殺してしまおうとしています。

 その最たる道具が、尾行者の存在です。本日はそれについて語り始めます。

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副題2、『どこへ行くにも尾行が付いていると、感じる私だが、それは、人権侵害の最たるものだ』

 私は家族や友人に公衆電話から電話をかけて、そのはかまだ死刑囚の解放を教えてもらったわけでもなく、電車の中で、誰かが誰かと話しをしているのを小耳に挟んだわけでもありません。夜の九時に、三浦半島を横切る人なんて、少ないのです。

 そして、その神が、降臨した詳細は語りたいぐらいですが、それを語ると、また、四六時中、尾行が付いてしまうでしょうから、語れないのです。そして、私に親切にしてくれた人に後日何らかの挨拶(?)が行ってしまうでしょう。

 それは、事実です。この間、電車の中で、相当にレベルが高い合唱団(戸塚混声合唱団といい、今年の八月に、ヴェルディのレクイエムをみなとみらいホールで演奏する予定)からお誘いを受けました。それは、ほぼ、7週間も前のことでした。私は、大変なアッピール力があるし、声は、めちゃめちゃにきれいなのです。だが、72歳になって、新しいソサイエティに入ること、および、ハイレベルな合唱団に入ることへの危惧が有って、その後のフォローをやっていないのですが、相手様からも連絡が入っておりません。

 私は無論、「電話を下さらない様にしてください」と、語っていますが、それでも、この沈黙は変です。普通なら7週間も待ってくれないで、次から次へとメンバーが変わってお誘いがあるものなのです。声のいいメンバーは合唱団にとっては貴重だから。

 ふむ、ふむ、尾行があの日付いていたのですねと、思っております。お誘いは電車の中で行われたのですが、その電車の中に尾行が付いていたのでしょう。もし、私が合唱団に入ると、そこで、お友達ができますね。私が、友達に何かを語ることが異常に恐れられています。と言うのも、私の周辺にあることは、まともな人が聞いたり見たりしたら、みんなが『へーっ。そんなことがあるのですか? 恐ろしい。考えられません』と言うことばかりなのです。だから、友達ができることは、できるだけ避けたいと思われていて、

 その戸塚混声合唱団にも、鎌倉の住民が居て、私の知り合いが、既に、入団しているからこそ、そう言うルートから、何らかの悪口が既に入っている可能性を感じています。これもいつも言っている五億円の損害がありますの一例です。

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副題2、『針生一郎さんは、最初は、好意的だったのだけれど、三冊目の本を出した頃から、急に脅迫をして来る様になった』

 と言うわけで、私はすさまじいレベルでの不自由さの中に居ます。

 それが、瀬島龍三の悪を、北久里浜で、目撃してしまったことから、重積し始め、そして、この鎌倉でも、石川和子さんが、警官を呼んで、その警官が、また、大へまをしたときからですから、憤懣もやるかたないです。

 ところで、私はいやなことがあれば、それを振り払うために、きれいなこと、(=心身ともに美しいこと)に没入をしたいのです。絵を描くこともそうですが、合唱団に入る事もそれのひとつです。だが、どこに所属してもたちまちに、敵に把握をされ、その中のメンバーにいじめられると言う悪が降りかかり、純粋な楽しみからは、遠くなります。それで、そう言うものではない、自分ひとりでできることが、今は、可能なことなのですが、

 絵を描くというのは、今の様な状況ではできません。神経が休まりませんので、集中ができないのです。だから、私は、私の敵たちの頭脳が幼稚だと、言い続けています。絵を描かせれば文章を書く時間が当然少なくなりますね。だから、絵を描かせた方がいいのに、美術の世界でいじめるから、絵が描けなくなるのです。

 で、・・・・・・美術9条の会をはじめとして、組織を作って、悪口を伝播する。そう言う風にして、私をいじめれば、あなた方は自縄自縛ですよ・・・・・と、言いたいのですが、いつまでも、いつまでも、幼稚にありとあらゆる機会を捉えて、いじめてきます。

 絵の世界で、ワシオトシヒコ、赤津ただし、瀬木龍三、針生一郎などの、美術評論家が、直接にいじめてきました。針生サンなんて、初期にはすごく親切であって、2ミリ程度の細かい字で、手書きをされたおはがきを何枚ももらっています。それも、例の泥棒に、すでに、数枚は盗まれているでしょう。だけど、一枚ぐらい見つかっています。でも、まだ、スキャンをしていないのです。スキャンをすると、それをどう使うかを、敵さんたちはすぐ、感じ取られ、針生さん側に連絡を取られてしまって、嫌な思いをするから。

 そうこう、しているうちに、針生さんは、亡くなってしまいました。非常に甘えた感じで、電話対応をなさる紳士でしたけれど。

 ところで、その針生さんの電話ですが、驚くべきことに夜、主人のオフィスへかかってきたのです。

 これこそ、電話盗聴の最たる証拠でした。私は普段は主人のオフィスには、居ません。たまたま、その夜だけ、そこで、本の発送の仕事をしていて、針生さん以外の人と、個人的な連絡を取っていたからこそ、電話盗聴の仕組みによって、その場所へ脅かしのファックスを送ってくださいと、針生さんは、依頼をされたのだと思います。

 ところで、普段、主人のオフィスを盗聴しても、何も敵方に取って、必要にしてありがたいデータは入手できません。だけど、その夜だけは、そこが、攻撃の場所として使われたのは、私が自宅を出るとすぐ尾行が付いて、主人のオフィスまで、それが、ついてきたか、または、自宅の室内が盗聴をされていて、主人に、『あなたのオフィスで、ほんの発送をしますね』と、告げたのが、利用されたかのどちらかでしょう。

 で、私は、それが起きた、2006年以来、外出の際には、必ず、メモを書いて、それを残し、声では、外出の挨拶をしないこととしております。それも、主人から誤解を受けて、外出をすると機嫌が悪くなる理由のひとつです。主人はおびえるな』と言うのです。楽しめと言うのですが、余計な神経を使うのが嫌ですから、できるだけ、平穏にするために外出時は、必ず、メモを残して黙って外出します。

 まあ、針生さんから来たのは、正確に言うとファックスですが、私は毎日主人のオフィスに居るわけではないので、狙って、かかってきたと思われ、それが、一種の脅かしでした。『お前が居る場所は常に把握しているのだよ』と言う脅かしの道具として、針生さんが使われたのです。ずっと親切だった、針生さんを攻撃用弾丸として、使うことが、私を暗殺するためには、効果があると、敵さんたちは考えたのでしょう。

 酒井忠康さんが、電話をしてお願いをしたのか、他の人物から頼まれたのかは、解りませんが、針生さんが、私にののしりの、ファックスをよこしたのです。それは、驚くべき・けなし・の言葉の連続でした。いつも、好意的にほめてくださったのに、その日には、けなす内容の文言がファックス用紙に、満ち満ちていたのです。これが、2006年のことですが、

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副題3、『針生さんのファックスは、赤津ただしさんの、罵詈雑言のファックスの踏襲だろう』

 1999年に起きた 赤津ただしさんとの、トラブルも同じ類でした。ただ、こちらには、因果関係がありました。だから、こちらは、政治とは無関係に起きたのです。だが、針生さんのは違います。

 1999年のほうは、ちゃんとした因果関係があります。喧嘩になったみたいなのです。ただ、こちらには、こちらの言い分があります。

 これは、企画展を、目白の新樹画廊で、やってくださると言う話が、赤津さんから出たのに、氏が書いてくださると言う、500字で5万円だという推薦文が、はがきの印刷に間に合う形では、届かないのです。じりじりして、待っていても届きません。赤津さんとは1994年の私の個展で知り合ったのですが、オーナーが『あ、その日と無視しておいたいいよ』と言うので、礼状も差し上げなかったほど、当時は、評判が悪かったのでした。

 で、仕方がないので、個展そのものをお断りして、ニューヨークへ行ったのです。そちらの方が、もともとの予定であり、赤津さんの企画展の方が急に横入りしてきたものでしたが、どうしても、文章が届かないので、そうさせていただきました。

 あの頃から、15年たっているので、赤津さんも、お変わりになったとは思いますが、当時は、うつ病で、朝日新聞をやめたとの事で、時々、仕事がはかどらないことがあるみたいです。そこまでは、知りませんでしたが、どうしても間に合わないのです。で、初期の予定通りに目白の企画展は、なかったことにして、ニューヨークへ、行くことにしたのです。赤津さんはそれに対して怒りに起こって、罵詈雑言が羅列されたファックスを送ってきたのです。お酒が好きで飲むと酔うのだそうです。それでだとも思いますが、ひとかどの人とはとても思えない、支離滅裂な罵詈雑言の羅列でした。後に、美術9条の会の呼びかけ人になっていると知りますが、あのファックスを公開したら、美術9条の改組のものが瓦解するでしょう。あまりにも下品だから。

 当時、私はニューヨークへ行くための前段階として、逗子にアトリエを作って、一人暮らしをしていました。で、一人の夜に、そんな罵詈雑言のファックスが来たら、参りますね。で、当時同窓会展で、仲良くしていた、渡辺幸子さん(グーグル検索をしてみてください。何らかの形で、出てくるでしょう。もとJALのスチュワーデスだったことがセールスポイントになっている画家です)に、これを訴えました。

 渡辺幸子さんのほうも、恩師の田沢先生に対する愚痴を聞いてもらいたい方だったので、おあいこだと思いますけれね。ただし、彼女は、私より年上ですが、お姉さん役を果たせる人ではなくて、こちらが、困った事を打ち明けても、対応がありませんでした。

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副題4、『渡辺幸子さんは、私と、一緒に、有楽町の外人記者クラブで、食事をした仲である』

 私の方は、常に、「田沢先生を、重んじない様に」と、申し上げてあります。その頃から、15年はたっているので、渡辺幸子さんも、田沢先生の呪縛からは、既に、自由になっているでしょう。田沢先生は、通称アマゾネスグループと言われた湘南マダムたちを支配するために、政治的に、渡辺幸子さんをいじりまくっていたのです。グループの中に、新参者として最後に入った渡辺幸子さんは、いじめ易い人間だったのでしょう。その不満と愚痴は、ずいぶんと聞いて差し上げましたよ。(苦笑)

 この一連の文章は、・・・・・現代最高の権力者である、国際的軍産共同体のエージェントたちが、私のブログをつぶすために、最近、10個ぐらいニュースを仕立て上げた。そのうちのひとつが、石原慎太郎氏を、外人記者クラブに招いたことである・・・・・と、言っていて、そこから発想が沸き起こって書いています。

 で、外人記者クラブが、前報でも、出てきましたね。

 その外人記者クラブのレストランで、4、5回は、渡辺幸子さんと一緒に食事を取っています。が、同窓会展のメンバーがそこを利用できるのは、グループの中に入っている、石塚雅彦氏のおかげです。石塚氏は、日経新聞のニューヨーク特派員を務め、最終的には、論説員で、日経新聞を辞職し、現在は、早稲田大学の法学大学院の教授になっている紳士ですが、一時期外人記者クラブの理事長でした。あの紺色の緞帳の前で、有名人が質問を受けるその外人記者クラブのトップだったのです。だから、今般、石原慎太郎氏を急に招聘したのも、石塚氏かもしれないと思うほどです。

 ところで、私は過去ブログで、石塚氏を、エージェントだと断言をしています。外人記者クラブのレストランを経験できたのは、石塚氏のおかげですから、ちょっと、恩知らずみたいですが、フェイスブック時代に発見をした、古村浩三君(この人は、一年次には、1200時間を一緒の教室で、すごした仲である・・・・・そのうちの、300時間は、たった20人だけが一緒だったが)を使って、私のパソコンへの破壊工作をしていると、推察されるので、そう書いているわけです。古村浩三君は、石塚氏の命令で動いていると、感じます。また、その結びつきは、国際キリスト教大学の寮の四人部屋で培われたものだったと推察されます。

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副題5、『石塚雅彦氏は、湊宏先生のご子息を支配して、私に連絡を取らせた可能性があるが?』

 石塚氏は、小学校の先輩ですから、こう言うことは、書きたくないですが、港宏先生のご子息まで、使った可能性があるので、その断言が出てきています。湊宏先生とは、子供の頃は、幼年学校、戦後は、東大、ハーヴァード、MITと、秀才コースを歩んだ科学者で、立派な方であり、奥様は後年東京女子大の学長をなさっておられます。

 この有楽町の外人記者クラブがある、電気何とかビルの中に、湊宏先生のご子息が弁護士事務所を開いておられます。湊宏先生と言うのは、40代で亡くなった俊才ですが、私は、大学時に、先生の下についていました。本当は湊先生の助手として、大学に残る予定でした。

 だが、卒業実験の段階で、難しすぎる実験、====トルエン類で,炭素繊維を作る(・・・・・多分、ベンゼン核を破るのは、不可能な反応です)====を命じられたので、助手職につくのをお断りをしてしまいました。計算上は、国際キりスト教大学の助手になった方が得だったかもしれません。

 そちらだったら、日本化学会のメンバーに推挙していただいて、後日、猿橋賞をとる? あ、は、は。それは、夢のまた夢ですが、御茶ノ水女子大付属高校の先輩中村佳子さんは、猿橋賞をとっていますでしょう。だから、ありえる発想でもあるのですが、そちらを捨てた事を、今現在、惜しいとは思っておりません。何が得だったかはわからないのですが、自分に、ここは向いていないと思ったら、さっさと去る人間が私なのです。

 もう一度湊先生のご子息に戻ります。先生のご子息は、私が書いた「白皙の人湊宏」と言う文章に対して、コメントをおよこしになったのですが、そのタイミングが変なのです。これは、後に雲居佐和子先生に関する文章に甥ごさんから、コメントが、同じく、タイミングがずれて来たのと同じ現象だと思いますが・・・・・・

 それは、「お前が現在書いている文章は、お前の、社交生活を破綻させるぞ」と言う警告として、いただいたと見ています。無論、そのとおりです。渡辺幸子さんは画家として、大学同窓会のホーム頁の長文のインタビューが載っています。そう言う人の裏側を、書くなんて、闇の世界の人間だと、言われても仕方がないかもしれませんね。

 だけど、私は、自分の命を守るため、また、子供や孫の命を守るために、こうせざるを得ないのです。たとえば、石塚氏は、柄沢斉氏を持ち上げています。その柄沢氏のところへ、弟子として、出入りしている、大原光孝氏は、ご近所住まいですので、そちらからの、秋波というか、念波というか、攻撃とかと言うものは、4,6時中続くもので、それこそ、生命の根幹を揺るがすものですから、瞬時、または、随時、対応をしていかないといけません。そして、彼そのものに対応をしても、彼は、反省しないのです。

 だから、その上の段階に筆を及ぼさないといけません。すると、柄沢斉 → 酒井忠康 →と、つながって、結局は石塚雅彦氏まで、到達してしまうのです。

 ここで、はっきりといいましょう。渡辺幸子さんが、青木繁大賞を取ったり、ICUのホーム頁にインタビューを受けているのは、石塚雅彦さんの力だろうし、そこから酒井忠康氏は動いたのだろうし、かつ、私と、ある時期敵対したと言うことが明瞭だからです。電話の盗聴とか、そのほかの目撃で、私と喧嘩をしたことが明瞭だから、誉めそやされ、格上げをされています。

 渡辺幸子さんとのいきさつの詳細(ただし、50%程度しか書いていませんが)は、後で、探して後注として、リンク先を探して置いておきましょう。

 こういうことはあまり言いたくないのですが、はかまだ死刑囚の釈放は一種の晴天の霹靂なので、70%ぐらいまで、規制緩和をして、語りました。渡辺幸子さんからやられた真に恐ろしいことについてはまだ書けません。それは、80~90%まで真実を語っても大丈夫だと見極められた頃に書きます。

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副題6、『外人記者クラブで、お食事をしたから、キャロライン・ケネディ大使のパーティに招かれる可能性はないのだが』

 私があの、紺色の緞帳が後ろに下がっていて、白、ベージュ、灰色の三色の縞模様のカーテンで壁、または、窓が覆われているあの部屋を知っていると言ったって、それだけで、キャロライン・ケネディ大使の、レセプションか、そのほかのパーティに招かれる可能性はありません。だが、他のルートもあるのです。そして、1960年前半の大学在学中に、CIAと目されるアメリカ人に、『頭のよい事を見抜かれてしまったとき以来の、50年間、そして、瀬島龍三が北久里浜で、横須賀市の水道山を搾取して、ただで、私有化した事を目撃してしまってからの、35年間』がなかったら、可能性はあるのです。

 そのためには、捨てないことが大切でしょう。だけど、まっ反対に生きてきました。母校の助手として残る手は捨てました。東大に勤務した時に、教授から「もしやめなければ、将来東大の教授になれるよ」と、言っていただいたのですが、辞めました。大学同窓会展も、渡辺幸子さんに、嫉妬の対象となっていじめられたので辞めました。(笑い)

 それから国画会も辞めました。絵を描くことそのものをやめています。版画ですが、銅版画を作るのに必需品であるプレスと言う機械が、逗子のアトリエから、鎌倉の自宅には、重すぎて、運べなかったので、事実上、辞めることとなっています。プレスを作っている会社のスタッフに断られて、移動できなかったのです。プレスは、移動させる時は、解体して、運ぶのですが、部品一つ一つが、超重くて、人力で山へあげるのは無理なのです。

 ピアノ運搬業者などは、機械を分解できないし、無論、組み立てもできないので、依頼するのは論外であって、仕方がなくて手放しました。

 ただとても小さいプレスを新たに買いなおす手は残っています。また、油絵も水彩画も描こうと思ったらかけるでしょう。だが、攻撃に毎日曝されている身では、落ち着かなくて、それが、できません。

 で、ここで、対照例としてあげている、渡辺幸子さんに限って、話を進めますが、彼女の方は捨てない人です。田沢茂さんの個人美術館が開かれて、何らかのお祝い事があるそうです。「地方なので、日帰りできるかどうかわからないし、その日、一日絵が描けないので、行くのがいやだ」そうなのですが、「行ってくる」と、私に告げていました。仲良しの時期にです。

 彼女は一時期、コンクールに応募することに、凝っていたので、そのオープニングパーティにもしょっちゅう、出かけていました。忙しい、忙しいと言いながら出かけていました。こう言う事実をすべて、勘案すると、彼女は考え抜いているといえます。自分が画家として出世できるためには何をしたらいいか、どう行動をしたらいいかと。

 私も考えています。ただ、その内容については、まったく、違います。そして、私が考えていることについては、渡辺幸子さんは、理解ができません。最初期に、手書きをコピーしたエッセイメールを彼女に毎回、数千円をかけて送っていましたが、「どうして、こんな無駄な事をするの?」と質問をされました。「お金を無駄に使って」とも言われました。それは、画家としての出世には、何にも意味がないと彼女は考えていました。

 特に、彼女の方は、大学在学中に、お父上が破産をして、大学を中退しなければいけなかったので、お金のことには、シビアなのです。反対に私は、前にも言ったとおり、不思議な形で、一生お金には恵まれている人間で、一種の高等遊民なので、自分のやりたいことに関するお金は、だいたい用意できるのでした。だから、あまり、出世を意識していないのです。二人は、まったく違う人種なのでした。私は、雲をつかむ人、または、夢を追う人であり、渡辺幸子さんは、リアリストというべきなのでしょう。別に自分の方が上だというつもりはありません。だが、徹底的に違う人種だとは解っていました。

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副題7、『私は、用途のある思考はしない。私にとって、思考することそのものが生きている証なのだ』

 ところで、私は小さい時から、沈思黙考をするタイプで、時計を与えておけば、それを解体しながら何時間もの一人遊びをする子で、手がかからなかったそうです。だが、運転免許を取ることは、母から禁じられています。『きっと事故を起こすわ、いつも、ものを考えているから』と、言われて。

 今園芸に凝っています。だが、園芸について考えることは、単純であり、頭脳のパーティションがあいているので、赤玉土、バーミキュライト、パーライトなどを自宅の黒土と、混合して、鉢植え用の土を作りながら、ブログの案を練っていたりします。

 考えることって、不即不離の形で、書くことへ結びついているのです。書かないと前へ進めないから。で、文章を書くことと必然的になって生きます。

 その書くことですが、技法として、手書きが好きな時代もありました。が、後刻、それを本へと編集するのに有利な、パソコン入力は捨てがたいと感じ始めました。

 手書きがよいと主張するライターたちには、編集者が別人として付いてくれているので、そう言えるのですが、自分で本を作るとなると、最初からパソコンに入力しておいた文章の方が、圧倒的に有利なのです。それで、2004年頃から、ほとんどの事をパソコン入力で書く様になりました。

 自分が一回手書きで書いたものを、その紙を右目で見ながら、パソコン入力をして行くのは、信じがたいほどの時間がかかります。五倍程度余計にかかるので、最初からパソコンで書いた方が有利なのです。ただ、パソコンで書くからこそ、妨害を受けるのです。それは、解っていても、中止できません。

 で、そのテーマですが、瞬時に変わります。それは、風のそよぎにさえ感応するほど感受性が強いからです。ニュースを見る、そこで、違和感を感じる。または、感動する。そうすると、その違和感や、感動を書かざるを得ません。ですからテーマがすぐ変わる事を、私は神様が、頭におろしてくださる事を書くのだと、表現をしています。

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  この先,美術評論の分野から、政治を論じる部分へ入っていきます。で、また、長文になる予定なので、ここで、この文章は尾行というテーマに絞って書くとして、恐れ入りますが、ここで、終わらせておいたくださいませ。

 このブログは2008年よりはじめていますが、2010年から数え始めた伸べ訪問回数は、2125749です。

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