最初に写真の説明をさせてください。警察は、どうも、聖路加国際病院に対して、私が、銀座で、2014年4月7日に、交通事故に出会った時に、秘密裏に、<治療を行わない>様に命令した可能性があります。怪我、特に、交通事故という緊急時に、大病院から、必要にして十分な治療を受けられないとは、ありえないほどの、人権侵害です。私は罪びとでも何でもなくて、単に土地をめぐる悪の、被害者なのです。北久里浜(横須賀市)と、雪ノ下(鎌倉市)で、2回も、その悪人たちの行った悪の目撃者となっている者なのです。だけど、こんな基本的な、人権が、今、奪われている。
土地を奪われたり、大迷惑をかけられ続けても、私は反抗をしません。提訴したりは、致しません。取られた土地を奪還する運動も、起こしておりません。だから、なめられているとは感じますよ。
だが、いきさつは全部わかっているので、それを、文章に書きますよ。それは、インテリとして、当たり前です。人は、それぞれ、能力や個性や、集中しているポイントが違います。乱暴で、大声で、演技過剰で、自分が身近で、見えている人間に比較すると、偉いと思い込む、その種の単純な、個性もあれば、静かに暮らしていて、他人には、優しく接していても、それが弱いということと、直通するわけではないという個性もあります。むしろ、力が強いから騒がないわけです。そういう人材に対して、やり方が100%間違っています。
小さい時は、神奈川県一頭が良いと言われた人材が、私です。だから、すべての因果関係は見えており、あまりも馬鹿げた人間たちが、この世に存在していることに呆れ果てているし、彼らが、権力を振りかざすこと、・・・・・その一例は、受動喫煙運動の強制ですが・・・・・それが、禁煙ファッショと言われている通り、・・・・・・が、まさしくナチズムの萌芽、かくありなんと、感じるので、使命感を持って、文章を、書いているのです。
で、間違っているのですよ。伊藤玄二郎たちの、やり方が。インテリに対して、行ってはいけない手法をとって、自分を守ろうとしているので、すべてが、おかしくなるのです。だが、私の方から、それを言うのは失礼だと思っていて、今まで、それを、言ってはおりませんが。・・・・・鶴岡八幡宮の大銀杏が倒壊するなど、天のみしるしは、すでにあらわれているではないですか? それでも、彼ら悪人たちは、反省をしない模様です。
土地が盗まれるケースと、重なって現れた、警察の失敗というものが、何かというと、上の破れた調書も、その物的証拠の一つです。それは、以前に、まったく自動車の入ってこない、鎌倉雪ノ下の、山の中に住んでいるのにもかかわらず、ありえない交通事故の調書を取って、警官二人に、私が、脅かされたことがあって、その時にとられた調書です。だけど、どうして、車が入ってこないのに、交通事故の調書を取られるのですか? 変でしょう。これは、警察の大失敗です。
その件をこのブログで書いているからこそ、かくも異常な意地悪を、その件の10年後になっているのにもかかわらず、やって来ている可能性があるのです。その調書がとられた機縁は、バカげた頭脳の持ち主、石川和子さんと、その夫の柳沢昇のせいなのですが、その背後に、石川和子さんの、元愛人たる伊藤玄二郎、鎌倉春秋社社長がいて、彼が、こういうこと(イコール、秘密に行うので、責任者がだれ出るかがばれないと思って行われる種々の弾圧といじめ行動の数々)の基本的なアイデアを出している可能性はあります。
それから、もう一つ理由となる人間たちがあって、土地の問題に関して、原初の原因が、ご近所の安野・前田夫妻にあり、しかも、それを糊塗しようとしてさらに、悪辣なことを重ねてきているので、私は、それを丁寧に書き続けるということになります。この一章も、その一環ですが、以前よりだいぶはっきりと、因果関係を、書くことができるでしょう。非常に複雑なことなので、書くのに力がいるのですが、取り組みます。
ここから先は、写真の説明を終えて、文章そのものの、前置きに入ります。
これは、完璧に、前報の続きです。ただし、副題は、1から始めます。そして、ツィッター方式で、書かせていただき、書き終えた内容に応じて、総タイトルを変える可能性があります。最初は、『田中角栄、小渕恵三、立花隆、秋山豊寛、成岡庸司(電車の遅延現象は?)』でしたが、二度目には、『聖路加は、6万円をとって何もせず、慈恵医大は、3万円で40針縫ってくれた。なぜ、かくも違ったか?』として、3度目のものとして、『自らの失敗を糊塗する為に、警察は、私の、治療を受けるという、超・基本的な権利を奪った可能性がある』へと変えております。でも、それがブログとしては、どぎついかな思い直しと、再度、二番目のものを用いました。なお、加筆した部分には、アンダーラインを、入れておきます。
副題1、『JR池袋駅、東上線、そばの通路に設置されている大型液晶画面が、暗示する政治的真実』
副題2、『2005年1月だったと記憶しているが、品川駅で、横須賀線が、一時間近く遅延したことがあった』
副題3、『それから五年後の、三原橋交差点際の交通事故では、警察が、聖路加病院に、≪治療をするな≫と言ったらしい?』
副題4、『築地署では、驚くべき話が、警官から出た。≪人身事故を、物損事故扱いにしましょう≫と言われる』
副題5、『警察と、CIAが密接に結びついていることがこの時に判った。それは、人的交流でいえば、伊藤玄二郎と、成岡庸司君が、すでに、ツウツウであることを指し示すことでもあった』
副題6、『他人(=私)の土地を、10坪程度、損をさせているが、自分の方は、10坪程度得をしている、前田家と安野家の、二つの家』
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副題1、『JR池袋駅、東上線、そばの通路に設置されている大型液晶画面が、暗示する政治的真実』
立花隆氏が、ああ言う風に田中角栄総理大臣を抹殺する方向で、動いた陰に、秋山豊寛氏などのサポートはなかったでしょうか? これは、読者に向けて質問をするというよりも秋山豊寛氏と、立花隆氏に、向けて質問をしているのです。
秋山氏が、立花氏に向かって、「それを書いたらどうかな?」と、サジェスチョンすることはなかったでしょうか?
ここですが、普通に考えると、秋山氏は、立花氏よりも年下です。そのうえ、立花氏は、東大出身で、秋山氏は、国際基督教大学出身です。立花隆氏は、最初の就職先が、文芸春秋社です。当時は、テレビ局に就職するより、有名な出版社に就職する方が、社会階層的に上だとみなされていたでしょう。だから、諸要素を勘案すると、秋山氏の方が下です。しかし、意外にも秋山氏は、立花氏の上の存在であり、教唆したり命令したりすることができるのかもしれません。それは、CIAとの関係において、秋山氏の方が上の階層にいるということを示唆したいから言っていることです。傍証はないのですが、そんな雰囲気を感じることがあります。
一回、それをさらして、推敲後に公開しようと、思って、ひっこめた私の文章があって、その中で、私は、秋山氏が、ベイカーさんというアメリカ人青年(金髪碧眼の留学生)と親しかったのを書いています。その文章は、本日、または、将来、推敲して、曝しますが、ここで、かいつまんで、その主意をさらすと、
その頃、秋山氏はベイカーさんに進言をして、早稲田の革マルの委員長だった成岡庸司君を、CIA(=今、私がエージェントとして、表記をしている存在達)の内部に入れるべく、リクルートをしたのではないかと、私は見ています。
そういうことをした後で、成岡君は、世間から身を隠し、表向きというか、彼自身と非常に親しい間の人間には、革〇委員長として、成田闘争を、指導し、そこからの縁で、千葉動労を支配し、それから、今では、JR東日本本体を支配する、社会階層的な関係になっているとみています。しかし、それは、一般人は、知らない世界の話です。ごく、ごく上位の話です。日本の頂点での話です。
私が母の見舞いのために、JR池袋を利用していたころ、JR池袋の私が通る通路に、大型液晶画面が設営をされており、そのタイトルは、『現在の遅延情報』となっていました。それほど、その頃は、遅延現象が多かったのですが、それは、自然なことではありません。それは、ごく政治的な事件なのですが、それをあたかも、正当なことであるかのごとく、遅延情報を、お知らせする液晶画面ができたというのは、それは、私を脅かすためであり、それを、JR東日本が、設営した事から、成岡庸司君の権勢を知ったのです。それは、池袋駅構内ですから、JR東日本が設営したはずであって、JR東日本は、遅延現象の多発(2005年から、今の今も多い)を、公的に、容認しているわけです。ただし、私がどんどんどんどん、真実に迫っていますので、その大型液晶画面はあまりにも馬鹿げたことが、ブログ読者から広く世間に流布する可能性を感じたらしくて、
その大型液晶画面の内容は、母が亡くなって、私が池袋駅を通らなくなったら、変化しています。いわゆる、企画の宣伝画面となっています。広告の画面と変化しています。この意味については、一回書いています。
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副題2、『2005年1月だったと記憶しているが、品川駅で、横須賀線が、一時間近く遅延したことがあった』
成岡庸司君が、動かすJR東日本は、随意に、遅延現象を起こします。私が京橋で、中央分離帯にけっつまずいて、慈恵医大に、救急車で担ぎ込まれ、顔を40針縫った日も、品川駅で、1時間以上電車が遅延しました。
その頃は、まだ、自宅の電話に盗聴装置が仕掛けられていることを、自分自身は、知りませんでしたが、盗聴が、仕掛けられていて、主人に、新橋の慈恵医大から「迎えに来てください」と公衆電話で、言っているのに、来てくれなかったので、それゆえに、遅延をさせて、さらに、私の帰宅が遅れ、夫婦げんかに持ち込まさせ様として、遅延が起きた(または、起こさせられた)のだと、思います。
2005年だったと思いますが、まだ、村松画廊が、きちんと、開いていたころで、その相馬さんというスタッフと、話し合った直後、ユマニテという画廊に向かって急いでいて、例のごとく、鍛冶橋交差点の、横断歩道を利用しないで、村松画廊を出た途端に、そこで、道路を渡ったので、今は、フェンスができている中央分離帯が、当時は、盛り上がったコンクリートだけであって、重い荷物(本を、配ろうとしていたので、背中にA4・ME型の重いパソコン、両手に自分の著書を10数冊、紙袋に入れて、持っていた。10年前なので、体力があったことには、我ながら驚くが)の、1月の何日かです。
こういうのも、当時のパソコンが、破壊をされないで、生きていれば、過去メールとか、過去メルマガで、すぐわかるのですが、今は、調査に時間がかかるので、その頃とだけ、言わせてくださいませ。
手術中は気強く、平気だったのですが、品川駅で電車が遅延した間、電車の中で、待っている間、手術と、それから、けがをした直後の出血(多量とも思えなかったが、)の影響で、貧血を起こしていたので、非常にむかむかして、待たされるのが、辛かったです。
今では、お金に余裕があるので、グリーン車に乗ると思いますが、その頃は、まだ、2冊目の本を作ったばかりで、お金に、ひっ迫をしていました。私の場合、本は流通にかけないで、差し上げるだけなので、一冊100万円以上の出費なので、お金を倹約する必要がありました。まだ、二冊目ができたばかりだったと思います。その後、実際には、工業生産的に、4冊続けて出版をするのです。心の中では、一生で、10冊は出版しようと、思ってもいましたし。で、お金は、必要で、倹約しきっていました。だから、ひとが、貧乏な時期の気持ちも、非常によくわかるのです。
そして、私は、たいていの時には、電車の中では、人に助けてもらえる(=座席を譲ってもらえる)のに、その時には誰も席を譲ってくれず、非常に気分の悪いまま、夜の9時半に慈恵医大を出て、鎌倉まで、ずっと立ったままで(というのも遅延をしたので、電車は、非常に混んでいた)へ帰り着いたのが、やっと、11時でした。そして、家族が驚くので、鏡を初めて見たのですが、
夕方6時45分にけっつまずいて、顔に眼鏡が刺さったのですが、顔の皮の内側を、血が流れ落ちて、ほほから顎にかけてたまり、それが、すでに紫色になっているのでした。だから、まさに、大きな包帯がくっついた顔は、包帯以外のところが、お岩さん状態で、人々が、恐れおののいて、席を譲るどころではなかったのもわかります。(苦笑)でも、それなら、タクシーで帰宅すれば、と、おっしゃる方もあるでしょうか? タクシー代がなくても、家まで帰れば、家族が払ってくれる?
が、車だと、却って酔うのです。
これには、本当に気分がめいりましたよ。今では、冷静に、こういう風に書いていますが、その頃は、『これからの人生を、どうしようか。顔がお岩さん状態では、銀座の画廊巡りもできなくなるし』と思いました。
実際の執刀は、脳外科の先生だったのですが、そばで付き添っていた整形外科の先生が、私からの質問「このけがは、先生からご覧になって、どのくらいのレベルでしょうか?」に答えて、「僕が過去に見た顔のケガのうちで、上から、4位ぐらいです」と、おっしゃったので、さらに、まいっていました。
でも、人間は、再悪の、時には却って、腹も座るものです。すぐ、エッセイを一遍書きました。その時のものは、相当に抒情的に、優れていると思います。幸い、メガネのレンズは、眉間の、右横に刺さったのと、脳外科の先生が、非常に丁寧に縫って下さったので、正面を向いている限り、相手には、けがの痕は見えず、したがって、今では、精神的には、すっかり回復をしています。
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副題3、『それから五年後の、三原橋交差点際の交通事故では、警察が、聖路加病院に、≪治療をするな≫といったらしい?』
しかし、それから、五年後に、今度は、三原橋交差点際で、また、横断歩道を利用しないで、横断し、ばっちりと、車にはねられてしまいました。画廊巡りをしていると、7時直前は、5分や、10分が惜しくて、横断歩道の赤が、待てないのでした。その時は、横断歩道から、15m手前で、4丁目から5丁目までを渡ったのですが、左側だけを見ていたのが、最悪の原因でした。そちら側の、横断歩道用の、信号が青から赤に変わるタイミングだけを気にしていたので、右側を見ていなかったので、右から来た車にぶつかってしまったのです。
一列目の車は止まってくれたのですが、二列目の車には、私が見えなかったらしくて、ボーンと、はねたのです。その途端に、私は気絶したらしくて、7mぐらい先で、ぺたーっと、ムササビみたいに、ひらったくなっていたらしいのです。その上を、車が通り、危うく前輪が、私の体に乗っかる直前で、止まってくれました。これは、本当にラッキーでした。もし、車が胴体の上に乗っかったら、今、こういう文章を書くことはできません。あの世に行っていたと思います。私は骨粗しょう症ですから複雑骨折でもしたら、回復できません。
ただし、バンパーが頭の皮だけを削ったのです。ありがたいことに、脳を、囲んでいる膜とか、脳を囲んでいる骨とかには、ぎりぎりかからず、ただ、皮膚と、その下の薄い肉を、べろっとむいただけで、済んだのです。
しかし、その後がいけなかったですね。救急車は、聖路加病院へ運んでくれました。慈恵医大は、3万円の治療費で、64枚のCTスキャン画像を撮影してくれて、それを、私にも見せてくれました。私は聖路加でも同じことをなさるのだと聞いて、5年後の自分の脳を、見ることを大変楽しみにしていました。実際にCTスキャン機械を、体が通ったので、その画像を見せてくださると思ったのですが、救急外来の、設備が違っていて、それは見ることができませんでした。
しかし、このころ、裏側から、警察が、わが家の電話の盗聴で、動き出し、聖路加病院へ、治療をしない様に命令したらしいのです。
それは、どうしてそうなるかというと、ご近所の前田祝一・清子夫妻と、安野忠彦氏、+夫人・夫妻の行動が原因で、わが家の私道部分が、コンクリート打ちをされており、しかも、崖も無断で、大量に、削られています。その被害を20年以上、黙っていてあげましたが、
石川和子さんという陶芸家(鎌倉春秋窯主催者であって、しかも、「自分は、伊藤玄二郎の愛人だから、鎌倉では有利に過ごせます」と、自分から、公言している女性)が、私の猫のことで、・・・・・私の猫が、私の方を好きだと表明して、彼女に反乱をしたのにパニクって、・・・・・警官を呼び、「あそこの奥さん(=私のこと)を、あそこの旦那さんに、叱ってもらう様に、あそこの旦那に頼んでください」と、依頼をして、
また、それに乗って、のこのこ、やって来た交通警ら隊の、警官二人が、わが家で、言葉による乱暴狼藉を働いた揚句に、
さらに、絶対に、車の入って来られない、この山で、交通事故の調書を取って、さらに脅かしたのです。
この現象そのものにも、本当に参ります。猫は私の猫だから、私を好きなのは当たり前なのに、お客が多くてちやほやされるから、それを好んでその陶芸教室へ遊びに行くのを、自分の方が、雨宮舜(=川崎千恵子)より優れていることの証拠として、信じていたから、かくも狂ったのでした。猫に逆らわれただけで、狂うのですから、どれだけ、甘い生活を送ってきた女性かがわかります。が、
それ以来、パソコンは壊れるは、その土地泥棒の痕跡の証拠隠滅は図られるは、と、ひどいことが重なり切っているので、そういうことを書き始めています。すると、それに対する復讐として、聖路加病院に、≪治療をするな?≫と警察が命令したらしいのですよ。つまり、警察とは、自分のところの警官が失敗したのを、書き表す私を殺したいらしいのです。医療を受ける基本的人権さえも奪って、石川和子側の見方をするのです。
驚き入って、言葉もないと、言うところです。
@@@@@@@ここまで、8日の月曜日、午前2時までに推敲をしました。これから先は、間に長時間の休憩を入れて再開をさせてくださいませ。エネルギーも必要だし、調査も必要です。
聖路加病院の看護師さんが、まだ、治療があるだろう、待っていてくださいと言うのに、先生から、突然、「もう、帰っていいです」と言われて、看護師さんたちも怪訝そうでした。私は前の事故で、帰宅困難な状態に懲りているので、その日はホテルに泊まるつもりでした。幸いに、事故車を運転していた人がたいへん親切で、ホテルまで送ってくれるというので、私は聖路加病院の前で、彼の車が駐車場から、目の前まで、来てくれるのを待っていたのです。すると、すぐそばを覆面パトカー(サイレンを鳴らさないパトカー)が止まって、聖路加病院から出てきた二人の警官を乗せました。
その二人がパトカーに乗る直前に、「畜生、間に合わなかった」と言いました。それを聞いたとたんに、警察が、聖路加に治療をするなと、命令したことを、察知したのです。傷は、洗ってはもらえました。消毒もしてもらえました。
そして、傷以外のところにたまっていた血液の凝固は、シャンプーで洗い流していただきました。そして、各種ののみ薬の処方箋は、いただけました。そして、会計を済ませ、薬局にもより、道路っぱたで、加害車両の運転手さんが来るのを待っていたのです。ホテルに行く前に、築地署にも、依ってほしいと言われていたので、加害車両の運転者さんは、そのすべてに付き合うつもりでした。いい人でした。小さな会社だが、社長をしているとのことでした。後で、ここらあたりの、リンク先やら、j-peg を、入れ込みたいとは、思いますが、ここでは、文章だけを書くことを先に進めます。
結局、圧倒的な差で、慈恵医大と、聖路加の処置は、慈恵医大の方が、優れていて、しかも、治療費は、聖路加が、6万円で二倍であり、慈恵医大は、あれほどの、処置をして、三万円でした。
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副題4、『築地署では、驚くべき話が、警官から出た。≪人身事故を、物損事故扱いにしましょう≫と言われる』
先ほどから言っている通り、しっかりした、顔(角ばっている)の紳士は、たいへん親切であって、築地署まで、まず連れて行ってくれました。築地署は、全ビル非常に静かでした。どうしてか、奥まっていてさらに静かな部屋に通され、(カーテンが、部屋の中にあったので、取調室ではなくて、倉庫みたいな部屋でしたが、Yというニコニコ顔の警官が、「相手は、一度も、ミスをしたことのない人なので、これを、人身事故にしないで、物損事故にしませんか?」というのです。
私は大変人が良くて、あらゆるトラブルを自分が損をする形で引き受けてきた人なので、その警官のいうことには依存がありませんでした。それ以降の時間で、相手と私は私の主導で、本日限りで、この事件は蒸し返さず、すべてを忘れることという示談書を書いたほどです。だが、その本当の理由は、すでにその時、築地署に代表される警察が内包する悪のすべてを、推察しきっていて、それらを自由にブログに書くつもりでした。幸い、今は、5年も本を作っていないので、金銭的には余裕があり、6万円は、彼に、保険を使ってもらわなくても、支払うことができます。それに、私は横断歩道を渡っていなかったのですから、自己責任もありでしょう。
だけど、その2014年4月7日夜の、Yというニコニコ顔の警官を前にして、私が考えたことは、『ああ、交通事故の調書を、私に渡したくないわけですね。石川和子さんの大失敗を蒸し返されることを恐れているわけですね』ということでした。
すべては読めます。で、物損事故にさせられたのでした。私は聖路加国債病院でも、治療を充分に受けられないという形で、警察にいじめられているのですが、その次の築地署でも、正当な権利を完遂行できないという形で、いじめられているのでした。これは、いじめというよりは、一種の犯罪と言ってよいものだと思いますが、ともかく、真実と違うことを認めよと、築地署で、強制をされたのでした。ニコニコ顔でしたが、強制です。
これで、治療は受けられないわ、お金は損するは、正当な権利は奪われるわと、三重苦を味わわさせられたのでした。が、私はすべてを受け入れ、ありとあらゆる意味で、警察の言うなりの損を、受容しましたが、内心では、『シメタ』と思っていたのです。
『これは、すごい文章が書けるし、すごく深いレベルで、警察の真実に迫れるぞ』と思っていたからです。よく、私に向かってくる敵さんたちのことを、トカゲの脳味噌だと言っていますが、彼らは、その言葉の本当の意味を、どうしてもわからないみたいです。だけど、私の方は、肉を切らせて骨を断つというつもりで、物損事故扱いを受け、一切の証明書類が、警察から出ないという形を受容したのでした。しかも、相手とは、そこで、示談書を交わし、一切の関係を絶っています。だから、こちらは自由自在に、文章を書くことができるのです。
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副題5、『警察と、CIAが密接に結びついていることがこの時に判った。それは、人的交流でいえば、伊藤玄二郎と、成岡庸司君が、すでに、ツウツウであることを指し示すことでもあった』
その夜に、親切なその人と、京橋の、ビジネスホテルへ移動をしました。そこで、築地署で書き始めていた示談書を手書きで二通完成させ、お互いに一枚ずつ、持ちました。夜食も買ってきてもらいました。そのホテルとは、相鉄ふれっサインで、株主優待券を持っているはずでしたが、あいにく、携帯しておらず、仕方がなくて、1万円以上を支払いましたが、夜食も準備してあるので、落ち着いて、ホテルで、ブログを書き始めたのです。
この時は、自分のパソコンを持っていたのかもしれません。i-padではないのですが、タブレット型を買っていて、それは、軽いので、よく持ち歩きます。もっていなかったら、ブログを書けませんね。ホテルで、貸し出すパソコンは、これも警察の指導か?(笑い) ひどくスペックが悪いのです。 それが下の文章です。
小保方ミステリーの終焉 + 私の魔の刻(銀座18:45)と、救急車で、運ばれる私△
怪我をしているのに物損事故にされた理由は、調書を私に渡したくなかったからですか? 警察庁さん?
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