銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

『母娘間の緊張(ミリオン・ダラー・ベイビー)』

2010-06-22 00:02:47 | Weblog
 2004年に公開の映画、ミリオン・ダラー・ベイビーについて、は、何も書くつもりもありませんでした。もしかしたら、見るということさえしなかったかも知れません。

 映画はNHKが放映して、それを録画はしておきましたが、『大勢の人の評価が定まっているものを、後追いしても仕方がない』と言う気持ちもありましたし。しかし、それを覆したのは、友人のひそかなささやきです。
 場所はお酒の入った席。クラス会。一万円クラスの夜の席。男の子も女の子(といっても、すでに、67歳ですが)も、わいわいがやがやと盛り上がっている傍らで、「すごくいい映画だったわね。ほら、あの○○○○をはずすところ。深い意味があるわね」と。

 誘い水は、私の「このごろ、あなたは、どんな映画を見ているの? グラン・トリノよかったわね」という言葉です。私は彼女のひそかな呟きを聞いて、未だ見ていなかった、それを『見るべきだ』と、感じました。彼女の言うには『グラン・トリノより上』らしいですから。それに彼女自身が、よくものを考える人ですから、その言葉には信用が置けます。

 さて、この映画はTSUTAYA等で、レンタルDVDが手に入ると思いますので、ネタばれは禁じ手でしょう。私が、見る気になった大切なキーワード、○○○○についても、その夜は実際のものを知らされましたが、ここでは、伏字といたします。
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 でも、カラメ手から攻めたいです。よい作品については、どこからか入れる、切り口があるはずですから。で、例の心理学的分析、特に親子関係から、攻めて内部まで入り込みましょう。

 この映画には、主要な三人の登場人物がいます。今アメリカで、非常に地位が高いらしい(それは、全米俳優協会?が選んだ、100本の名画・・・・・と言う番組の司会をしていた事でも知らされたが)モーガン・フリーマンが語り部です。

 主役は、もちろん、イーストウッドで、ボクシング・ジムの経営者をしています。どうも、元々は、医者、(またはそれ相応の技術者)だったインテリと言う設定です。しかし、妻とは別れ、子供には、一切、手紙を受け取ってもらえない孤独で悔悟に満ちた老人と言う設定です。

 ボクシング・ジムには、大スターもおらず、お金持ちではありません。つまり、客観的に見れば、不幸せなまたは、人生に成功しなかった人の範疇に入ります。

 モーガン・フリーマンは、そこに雇われている、元ボクサーです。こちらも、チャンピオンまでにはなれなかった、独身の老人であり、決して金持ちではありません。こちらの人物造形には、モハメッド・アリに翻弄されたドン・フレージャーが、投影しているような気がします。ボクシング・ジムの様子もドキュメンタリーで見たフレージャーのジムにそっくりで、そこに、フレージャーに似た老アフリカンが住んでいるという設定も似ています。

 そのジムにヒラリー・スワンクが演じる、最底辺(貧乏と言う意味で)の女の子が弟子入りしてきます。新聞の批評や広告を見ると、彼女の出世物語のように、聞こえましたが、主題は別のところにありました。しかし、その大切な主題はここでも、伏せましょう。ただ、『単純なシンデレラストーリーではない』と言う事だけはここに、記して置きたいです。

 彼女の貧乏ぶりの描き方が、すばらしいです。まず、「母は太っているの」といいます。これはアメリカ人ならピンと来るでしょう。メトロポリタン・オペラ劇場に来る人は、ほとんどの女性はやせています。

 三階に座っている若いバリバリのキャリアウーマンらしいアフリカンの女性も、一階に座っている上流階級らしい、白人レディも、四階の前全部に座っている、通らしい、独身の、冴えない中流OLの人もすべて、やせていました。私もそこでは、一番ぐらいやせている人でした。一週間に四日は、三時間しか寝ないで版画を作っていましたので。四日目ぐらいに七時間寝るのです。それを三ヶ月間ぶっ通しです。

 だけど、ブルックリンで道を聞いた中年白人女性は、ウエストが二メートル近くありそうな巨体で、親切に、「そこまで一緒に言行ってあげるわ」といわれても、夕方六時にしまる画廊に、彼女と一緒に歩いたのでは間に合わないでしょう・・・・・というほど、自由には歩けない人でした。

 「ありがとう。ありがとう。大体分かったから、一人で行ってみるわ」といって、振り切って歩かざるを得ないほど、太っていました。
 ポテト・チップスなどを、無茶食いする生活を続けていると、ああなると聞いた事があります。

 昔、母が、「怠け者はエリートにはなれないのよ」といったことがありますが、この映画内での、ヒラリー・スワンクのお母さんは、発想が怠け者の典型です。

 娘が極貧の生活の中で、貯金をして家を買ってあげても(その前は、トレーラーハウスに住んでいた)「あら、生活保護が打ち切られるから、家なんか買ってくれないで、現金をくれたらよかったのに」といいます。

 その結果、家は娘の名義になって、住んでもいないのに、税金を払ってあげるような始末で、(それはある部分、私の創造ですが、あたりでしょう)さらに、生活費まで送ってあげることとなります。

 でも、悲しいことに感謝されません。

 ただ、それも、主役のイーストウッドとの、交流のすばらしさを際立たせる役割を果たすわけですから、プロット上必要なことは推定できますが、

 それでも、この母親像は、リアルすぎて、悲しいです。お母さんは、その年齢にしては、かわいくてきれいな顔をした女優が演じているから、余計にリアリティがあります。悪役っぽい顔の女優が演じたら、「なるほどね、それは、最初からわかっていたわよ」となって、感動が少なくなるでしょう。

 そして、小道具も大変上手に使われています。モーガンフリーマンのソックスとか、お母さんが着ているディズニーランドのTシャツとか。特に後者が、大変な意味を持っているのですが、一種のネタばれになるので、これも、解説をいたしません。

 ともかくにして、長女というか、一人目の子に対しては、親は未熟であり、特に女性同士だと、フロイトの言う反発も生まれる・・・・・というところを見事に描き出しています。

 ほかにもありますが、今日はこれだけで、終わらせてくださいませ。
      2010年6月21日      雨宮 舜
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