雲は完璧な姿だと思う。。

いつの日か、愛する誰かが「アイツはこんな事考えて生きていたのか、、」と見つけてもらえたら。そんな思いで書き記してます。

1月17日

2014-01-18 03:31:55 | 勇気
19年前の今日。
僕は大阪府、豊中市の「曽根」という街に一人で住んでいて、
「阪神淡路大震災」に遭遇しました。



20代前半。
社会人になって数年がたった頃。
僕は週末の休日と月曜日迄をくつけて休み。
大好きなスキーを

「フワフワのパウダースノーで楽しもう!」

と大阪から飛行機で青森県の鯵ヶ沢(あじがさわ)
というスキー場にポンポコと出掛けていきました。
そこでヘロヘロになるまで滑りまくり、

「筋肉痛だぁ......」

などと言いながら、
当時はまだ大阪の空の玄関として機能していた伊丹空港から
自宅に戻って来た、その夜に、
僕はその地震に遭遇しました。

住んでいた街は大阪地区の中では比較的神戸寄りのところで。
宝塚や伊丹にもほど近い場所。
地殻の構造なども関係してなのか、
地震の揺れは大阪エリアの中では一番大きかったようです。
公式な記録では
「震度6前後であろう」
とのことでした。

震源地が地盤の真下にある、
いわゆる「直下型」の強烈な揺れというのは、
例えればジェットコースターのピークからドーン!
と落ちていくアノ瞬間と全く同じような感覚のもので。
それは本当に大げさな表現でもなんでも無く。

「恐怖心を瞬時にあきらめに変える」

ような、どうにもならない「縦揺れ」でした。
その揺れの感覚は19年経った今でも
僕の体と記憶に深く刻まれています。
「釧路沖地震」も札幌で経験していたソレ迄の僕の人生においても、
「東日本大震災」を経験した今この瞬間迄においても、
「大地の揺れ」ということに関しては最大の、
決して忘れることの出来ない揺れでした。

子供の頃から不思議と?
地震の前には寝ていても必ず目が覚めてしまう僕は、
その日も長旅とスキーとでボロボロに疲れていたにも関わらず、
やはり、地震の十分ぐらい前にはパチリ......
と目が冴えてしまっていました。
ただ、大抵は、それが

「なんで眠れないのか?」

ということまではマッタクもって分からず。
勿論、タダ単に体調的に眠れないという時も、
何かを考え過ぎていて眠れない......
というような時も沢山あるので、
殆どの場合は、地震が来た時になって、初めて

「ああ、これだったか......」
「体調の方じゃなかったのね......」

などと思うような始末。その程度。
そんなレベルの「カン」だとマッタクもって
何の役にも立たたないタダの野生的本能であって。
この時も当然

「なんで眠れないのか?」

ワケも分からずにいて。
翌日の仕事のことも考えて、とにかく

「早く寝なきゃ、寝なきゃ、、」

と、夜明け前ぐらいまで布団の中で格闘をしていました。



そんな時に、
その強烈無比なる揺れがやってきたのです。



その時の僕の住んでいたマンションは5階建てぐらい。
揺れている間は、
フローリングの床に「ベタ置き」して使っていた
分厚いベッドマットレス越しに床が捻れ、波打つという感触を
寝ながら背中で感じ取ることが出来ました。
そんな歪んで波打つ床だけでなく、天井、壁、窓、ドア......
住んでいた建物全体から今迄聞いたことも無いような、
まるで建物の悲鳴のような、
唸り声のような轟音が響いて来て。
さらに、その轟音に混じって、低くて深い

「ゴーー......」

という地鳴りのような音も聞こえていました。
その音は建物の下、地中深く、
大地の底の方から響いて来ていて。
何か巨大なものが下から襲いかかってくるような、
体全体でそれを聞きとっているというような、
そんな低音でした。

逃げようと起き上がろうとするも、
揺れでまったく身動きが取れず。
どうにもならず。
そんなバケモノのような揺れの中で異様に軋み、
歪む天井を見ながら僕はこう思いました。

「ああ、アノ天井が落ちて来たら俺は死ぬんだな、、
しょうがねーな......
俺、死ぬのかな......」

そんなふうに自分で自分の「諦め」と
「非力さ」とを客観的に眺めながら、
そんな冷静な自分に少し驚きながら、
僕は布団の中でただ「ジッ」として何もせず、
天井を眺めていました。
ジッとするしか出来なかった......
というのが正確なことかもしれません。
その時間は数分だったハズですが......
途方もなく長く感じたのを覚えています。

揺れが治まると、
建物が壊れなかったことに少しの幸運を感じつつ、
僕はベッドから起き出し。
メチャクチャを通り越して跡形もなくなった部屋を眺め。
歪んで開かなくなった部屋のスライドサッシを無理やり開け、
外の様子を見てみました。
窓の向かいにあった木造の一軒家は半壊していました。
住んでいた人達は無事のようで、
三世代の家族が皆、
表に出て自分たちの家を呆然と見つめていました。
その異様な光景を目にして、
急いで付けた部屋のTVやラジオからは
地震に関する詳しい状況や情報は
地震直後にはまったく流れてこなくて。
その様子からも

「尋常ではないコトが起ったのだな、、」

ということは直ぐに察っせられました。
で、馬鹿げたことに......
ここで急に強烈な眠気に襲われた僕は、
余震が続く中でウトウト......っと、
気がつくとそこから少し眠りに落ちてしまいました。
しばらくして

「ハッ!?」

と気がつき。
迂闊なウトウトから目を覚ますと、
僕は急いで服を着替え、靴を履き。
滅茶苦茶になっている部屋や廊下を横切り。
ひどく歪んでいた玄関のドアをこじ開け、
薄らと明るくなった早朝の世界に飛び出して、
近所の様子を走って見て周りました。
近所にあった木造の古い家の多くは向いの家と同様に半壊、
もしくは倒壊をしていました。
丈夫な建物にも何らかの損傷があることがハッキリと見て取れます。
道路には所々車が落ちてしまいそうな大きな窪みが出来ていて、
大きく陥没したり、
道ソノモノがネジ曲がったりもしていました。
つい数時間前迄いた「伊丹空港駅」もペシャンコに潰れていました。
それが駅だったのか?どうか?
も知らない人にはわからないような感じ。
まるでゴミの山の様になっていました。
夜が明けてからはメディアからも徐々に詳しい情報が入って来て。
部屋に戻り、TVを付けると、
震源地は神戸から淡路島の辺りのようで、
色々な場所のリアルタイム映像も写し出されています。



画面に映る慣れ親しんでいた神戸の街は
巨大な炎と黒煙に包まれていました。



僕は新入社員で、いきなり大阪赴任を言い渡され。
社会のこともロクに分からない上に、
何もかもが見知らぬ土地で仕事を始めたのですが。
そんな中で、
まるで母の様に親切に僕に色々なことを教えてくれて、
助けてもくれていた、
恩義あるデスクの先輩女性が家族と共に住んでいた
見覚えのある茶色いマンションが、突然、
TVに大きく映し出されていました。

芦屋にあるそのマンションの横には......

信じられない光景が......

太くて大きなコンクリートの柱の根元から横倒しになった
高速道路が映っているのです......

彼女のマンションは、
そんな巨大地震の象徴的光景となった高速道路と共に
TVに何度も何度も写し出されます。

戦争を知らない世代ですが、
それはまるで爆弾が落とされた後の街のように見えました。

彼女のマンションは何度も何度も映し出されるのに、
肝心の、その彼女の安否はまったく分かりません。
一切の連絡方法が機能せず、
何も出来ないまま、
僕はTVに映し出される横倒しになった高速道路と
彼女のマンションとを延々と見ていました。

見えているのに、
僕には何もすることが出来ません。

「もしかしたら彼女達がテレビ画面に映るんじゃないだろうか......」

「無事でいてくれ......」

そんな気持ちでTV画面を見続けていました。

やがて、マスコミのヘリコプターが数多く飛びだして。
そこから届けられる映像で、
神戸駅のほど近くも映し出されました。
延々と燃え広がる火災。
上空を飛んでいるヘリコプターにまで届く、
モウモウ.......と立ち昇る黒煙。

本当に火の海。

そして、

その火の海となっている場所には—————

その場所には—————

その時僕がつき合っていた大切な彼女が住んでいました。

大阪オフィスの同僚達も皆知っている僕の彼女。

その大好きな彼女が住む街が燃えています。

彼女の街が燃えています。

彼女はそこにいるハズなのです。

見えているのに、

相変わらず僕は何もすることが出来ません。

僕には何も出来ません。

連絡が......つきません。

皆、連絡がつかないのです......



——————ソレから後のことは......
ナカナカ記すことが出来ません。
いつか僕の中でしっかりと整理された言葉が生まれてくれば、
ちゃんと記すことが出来るのだと思います。



いつだったか、東日本大震災の後、
僕が統括していた部のスタッフ全員が集まった時に
「一度だけ」
この阪神大震災の話しをしたことがあります。
愛する人達の行方が分からなかった時、
その後僕がどんなことをしたのか?という話し。
幸い二人とも無事だったのですが、
それが分かるまで、大切な人達を見つけに行こうと、
僕がどんなコトをして、
どんな風景を目の当たりにして、
どんなコトを思ったのか?
思っていたのか?
......という話し。

その時は、
こんな時だからこそ阪神淡路の時の経験を、
大事なコトを、
僕の中にある知識を話そうと......したのですが、
話しているうちになんだか色々な記憶や思いが頭に浮かんで来て。
それが被災された東北の人たちの姿とも重なって。
ちゃんと纏まった話しとして話すことが出来ず。
酷いことに、最後には、
話しながら多くの部員達の前で涙が溢れて来てしまいました。
会議のような場でとても恥ずかしいことだと思います。



もし、今日の記事を見ている人の中に、
その時、その場にいたスタッフさんがいたら、
改めてお詫びをしなければいけないのかな......
すいませんでした。



本当は、
その時僕が言いたかったこと、
阪神淡路大震災の時に思ったコト、
起きた出来事、というのはとても沢山あって。
だからとても一度に話したり、
書き記すようなことは出来ないのですが。
そんな事というのは、みな極々当たり前で、
常識と言えるようなことばかりにも思えています。
......そんなもの?なのでしょうか。



命は宝物だということ。

明日死んでも後悔の無い様に生きなければ、ということ。

大切な人の安否が分かって、
初めて次の心配も行動も出来るんだ、ということ。

異常な災害時には、
人間それぞれの本質が表れてくる
ということ。

そして、改めて、

強く生きたい、

強くなりたい......ということ。

そんな当たり前のことばかり。

でも、そんな当たり前のことも成すのは難しいということ。

当たり前に生き抜くということも大変なことなのだということ。



阪神淡路大震災以来、
1月17日にはその時噛み締めた色々な思いを
ちゃんと思い起こそうと努力してみます。
あの時を目前にし、
あの時に一緒に過ごした途轍も無く辛い思いをした人達。
今もそんな思いをし続けている、
なかなか癒えない傷を負った多くの人達のことを思ってみます。
電気やガスが街に戻るまで、
僕のワンルームで窮屈な思いをさせながら数ヶ月一緒に暮らした
3人の人達のことを思ってみます。
ほんと、ダメな僕は、毎日の生活にまみれる中で、
そんな思いもついつい薄れてしまっていたりする気もして。



改めて、命に感謝して、大切に、強く生きねば、と。



当たり前の日々に感謝をしなければ、と。



1月17日にはそんなことを思い直したりします。



梅田のホテルから眺めた大阪の街。
この街には色んな想いが刻まれています。
僕にはとても大切な街です。


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