ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

回向

2009年08月15日 | ノンジャンル
墓参をし、清めてお供えをし、線香を上げ、祈りを捧げる。
先人や亡き家族の菩提を願い、供養する。

慣習的となったとはいえ、こういう時を一つの節目の時期に
持っていることは、日本の美徳であると思う。

さて、回向ということを少し考えたい。
これは、回し、向かわしめると書く。
何を回し、向かわしめるのか。

これは、生きる者が己の善根、功徳をもって、亡き者へ
回し向かわしめ、その菩提を得さしめるということである。
つまり供養する者、すなわち生きる者が、生きていくその中で
善行によって積んだ善根を回向し、亡き者を弔う
ということである。

いくら豪華な法要を営み、盛大なお供えをしようと、
生きている者が不幸であれば、それは供養とはならない。
誰が不幸を回してもらいたいものか。迷惑千万である。

例えば、仏道修行とされる読経や偈を誦すなどするのは、
生きている者しかできない。
その行によって得られる善根、功徳を、回向するというのが
本来の供養であり、これは何も特別な時期においてのみ
なされることではなく、むしろ日常的なものである。

端的に言えば、今を生きる者が、悩みや苦しみはあっても、
日々の生活にささやかながらでも幸せを感じ、その幸せを
感謝しつつ、亡き者に回し向かわしめる中に、表裏一体の
幸福があるのである。

自らが生きる力を失い、不幸にある中で、亡き者が安らかに、
菩提を得ることはない。
真の供養というものは、まず自らが幸せを感じ、それを
回向するところにある。

不肖の息子である私は、時に悩みや苦しみ、
どうしようもない絶望さえも回向してしまう。
生きていようが、亡くなっていようが、関係ないのである。
幸せも、不幸せも、分かちあってもらうつもりである。

いつか、苦しみよりも、幸せの方を多く分かちあえれば、
それで良いと思っている。
幸せだけを回向するなどと気負わねばならない相手ではない。
時には、助けてくれとすがりつくことさえある。

それでも、互いにわかりすぎているほどわかっている
ことがある。
私の幸せは、すなわち家族の幸せであり、それはそのまま、
亡き者の幸せ、つまり供養なのである。




踏出す一歩

2009年08月15日 | ノンジャンル
一歩前進。

それをコマ送りのように細かく見れば、踏出す足が今の
位置よりも前に着地するまで、それを後ろに残された
もう一方の足がしっかりと支えている。

踏出された足は、またしっかりと地を踏みしめて、
もう片方の足が更に前へ踏出されるのを支える。

どちらの足も、前へ踏出す足となると同時に、他方を支える
軸足となる。これを繰り返して、人は前へ進んでいける。

自身にとって踏出す力、そして支える力が何であるかを
改めて考えてみることは、非常に大切なことである。

自らの力の発動がその主源である事は当然ではあるが、
その発動を促す様々な機縁は、人との関わりの中で得られる
ものであることに感謝したいものである。