ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

そこをなんとか

2009年08月11日 | ノンジャンル
日常的によく聞かれる言葉である。

もうぎりぎり目一杯のところを話したところで、いわゆる
交渉が始まる。仕事でも、価格、納期面でこれまで数知れず
行ってきたことである。

昔は、この交渉も随分と互いに余裕があったもので、
その分を予め考慮して設定し、想定の範囲内で収めることが
多かった。

今ではどこもぎりぎりの線での凌ぎ合いとなっている。
だが、相も変わらず古臭い慣習の抜けない人は、
「そこをなんとか」という決まり文句一つで押してくる。

詳細を懇切に説明したすぐ後に、「そこをなんとか。。。」
これはまるで人の話を聞いていない。
自分の都合を一方的に押し付けているだけなのである。
こういう場合は、「なんともなりません」と、
けんもほろろに突き放してしまうことが多い。

それはそうであろう。大阪から東京まで、どうやっても
一時間は掛かるのに、なんとか10分できて下さいと
言われても、お話にならない。

交渉上手な人は、共に悩み、なんとかならんかと考える
人である。理不尽な要求であろうと、それをなんとか
適えようと、共に悩むスタンスに立てば、話はまるで
違ってくる。
えてして、そういう場合、双方が真剣に悩んでいるわけで、
時に思いもよらない妙案が浮かぶこともままある。

考えれば、なんともなりそうにないことを、なんとか
しようと悩む中で、様々な不可能を可能にしてきたことを
思えば、共に悩むというのは、なかなかすごいことである。

一方的に、「そこをなんとか」と繰り返す人は、要するに
相手だけに悩め悩めと言っているようなものである。
なんとかしようと悩む前に、相手はもう嫌気が差して、
できないものはできないと開き直ってしまうだけなのである。

大阪から10分で東京へは行けないが、東京に居る者なら、
その場所が近ければ可能である。
本社に連絡し、指示を出して、30分後に現場に到着させ、
対応させたこともあった。
もっとも、それも交渉段階で、考えていた最終対応である。
その対応案を外して考えていれば、八方塞だったかもしれない。

「そこをなんとか」と言うのも言われるのも御免被りたいが、
「なんとかならないか」と、共に悩む分についてはむしろ
歓迎したいほどである。