東北アルパインスキー日誌 ブログ

東北南部の山での山スキー、山歩き、山釣りなどと共に、田舎暮らしなどの話を交えながら綴っています。

チベットの現実

2008年03月17日 | ヒマラヤ

チベットの暴動が全世界に報道されているが、この暴動は起こるべくして起こったという感がある。チベットは日本人にとってもヒマラヤ登山などで馴染み深いが、最近は漢民族によるラサ周辺の観光開発が急激に進み、一般の観光客も訪れる様になった人気急上昇の地だ。06年7月1日に西寧からゴルムト、ラサ間に開通した世紀のプロジェクト、「チベット(青蔵)鉄道」を世界のメディアは大きな記事にして扱っていた。

青蔵鉄道は960キロが海抜四千メートル以上の箇所を通り、チベット高原とヒマラヤの屋根を車中から仰ぐ息を呑むような大パノラマを望む、世界でも類を見ない素晴らしい観光資源だろう。私も昨年NHKが特集した「チベット(青蔵)鉄道開通」番組を食い入る様にして見たが、しかし、後で違和感を感じたのは私だけでは無いと思います。この巨額の費用を投じた国家の大プロジェクトとは何を物語るのか?そしてここを訪れる観光客のどれだけが、チベットの置かれた想像を絶する苦悩と、民族・文化存亡の危機を迎えようとする悲惨な歴史を理解しているだろうか?漢民族が凄まじい暴力と差別によって異民族を支配し、民族の弾圧ばかりか民族の浄化とも言える愚行を続け、固有の文化そのものを否定して抹殺しようとしている事実に、どれだけの方が関心を持っているのでしょうか?

 日本とチベットの間では歴史的にも繋がりは希薄で、あまり利害関係が無い為か近くて遠い国であり、政府は中国との無用なトラブルを避ける意味で無関心を装っている。日本政府もマスコミもこのチベット問題についてはダンマリを決め込み、堂々とダライ・ラマと大統領が会談したり、真っ先に中国政府を非難して自制を求めるアメリカの姿勢とは大きく異なる。今になって町村官房長官が後追いで中国政府に自制を求めても、これは滑稽なアメリカ追従の姿を世界に晒した様なものだった。つまり、中国とアメリカとのパワーバランスの谷間にある、日本の脆弱なスタンスを象徴する現実でもある。

 チベット人は人種・言語・文化で漢民族とはまったく異なり、1950年に中国軍に侵攻される前までは完全な独立を誇っていた。従って中国の言う「封建制度からの解放・近代化」は、チベット人にとっては明らかな「侵略」であり、第3国から見ても中国は文化的な近代国家の資質を持っていない様に思える。考えてみると中国は近代まで春秋戦国時代から争いの連続で、戦国時代の日本でも有り得なかった事だが、多くの国家が興亡して国家・民族の壊滅を繰り返してきた。この3~4000年にも及ぶ混乱で刷り込まれた民族性は日本人とは異質で、結果的に現在の漢民族が多くの少数民族を力で支配するという構図が出来上がった。

 私自信はチベットを訪れた事もなく、また知人がいる訳でも無いので身近な存在ではない。しかし、学生時代から河口 慧海著「西蔵旅行記」、ハインリヒ・ハラー著「セブンイヤーズ・イン・チベット」、西川一三著「秘境西域八年の潜行」等を読み、多くの夢を膨らませた古い人間にとって、この問題は決して無関心ではいられないのです。今となってはロマン的な要素などなくなり、最近はあまり訪れたいとも思わなくなったチベットだが、非暴力を説くダライラマ14世の理想を指示し、中国は人権の尊重や国際協調を基本にし、全世界の声に耳を貸す政府で有って欲しいと願う者です。

※チベット問題の基礎を知りたい方はこのサイトへどうぞ。

http://www.melma.com/backnumber_45206_1459007/

 

 

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「ヒマラヤ アルパインスタイル」 山と渓谷社

2007年12月07日 | ヒマラヤ

ここに知人からしばらく借りっ放しになっているヒマラヤの本が一冊ある。「ヒマラヤ アルパインスタイル」 山と渓谷社刊 ¥4800の本だが、エヴェレスト、K2といった高峰から7000m峰~ クワンデ、シブリン、チャンガバンのような6000m峰まで39座から選りすぐった40ルートを詳細に解説したものだ。なぜか出版年月日は無いが、おそらく15~20年くらい前の本だろう。

自分では山の本など最近買ったことは無く、しかも¥4800もする本などまったく食指が動かないが、読んでみると思わず引き込まれる様な思いで一気に読んだ。アルパインクライミングが最盛期を迎えるこの頃、ヒマラヤでは目覚しい記録が次々に打ち立てられ、高難度の壁やリッジなどが陥落していった。著者はイギリス人のアンディ・アンショウという29歳の先鋭クライマーで、山岳ライターとしても活躍していたがスコットランドで登攀中に死亡した。死後やはりクライマーのスティーブン・ヴェナブルズに引き継がれ本は出版された。

この本の素晴らしい所はアルパインスタイルで、あるいは最小限の固定ロープしか使わない少人数によって登られたものばかりで、挑戦する意欲を賞揚ししてその可能性を探る所に有る。納められた写真はクライマーでしか撮れない素晴らしい画像で、8000m峰でもあまり公開されていない写真も多い。日本側で編集したのか、以前に初登頂した日本隊の記録も網羅しているところも嬉しい。古典的な極地法とはいえ日本隊の活躍あってこそ、今のアルパインクスタイルが有るとも言える。

 自分にとって今ではヒマラヤなど無縁だし、未登峰あるいは未登のルートを追う要素も無くなり、かつての様な魅力もあまり感じない。フィックスが頂上直下までベタ張りのルートなどは、嫌でも幸運とお金に左右されると言うのもいま一つ・・・。しかし読み物としての楽しみだけは取っておきたいものです。
暫くは返し忘れた事にしておきます。

  

  右はブロードピーク中央峰から見るK2のアブルッツイ稜とルート図

 

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冬季ローツェ南壁の完登

2006年12月28日 | ヒマラヤ
 
        ローツェ南壁 「もっと、遥かな山旅を」さんサイトより

ヒマラヤに関心ある人にとっては大変嬉しいニュースが届きました。
ネパールヒマラヤのローツェ南壁に3回目の挑戦を挑んでいた、日本山岳会東海支部隊の第2次アタックが12月27日15:35に成功し、冬季の南壁を攻略して頂上稜線に到達した。

この世界第4位の高峰ローツェ(8516m)の南壁は、ヒマラヤでも有数の困難な岩壁で、標高差3300mで鋭く切れ落ちている。過去20回の試みで成功したのは1990年のとも・チェセンの単独登頂と旧ソ連隊のみであったが、この過酷な冬季に完登したパーティーは他にない。ただトモ・チェセンの登頂は成功を裏付ける証拠は無く、疑惑の初登攀とも言われている。

この成功を勝ち取ったメンバーには、1993年のエベレスト南壁冬季初登攀に成功した群馬岳連のメンバーが参加し、世界的にも実力者揃いの日本最強のメンバーだった。おそらく難易度ではエベレスト南壁を凌駕する危険極まりない困難なルートだったと思われます。

現在のヒマラヤの状況と言えば、殆どの困難なバリエーションルートが登りつくされ、極限的な冬季または単独登攀へ向かう一方、登頂第一主義の商業的ガイド登山が主流を占める時代となっている。ただ前者の登山隊は今や最近極めて少数派で、日本ではヒマラヤンクライマーのレレベルダウンが噂されていた。この成功はこれを打ち消す、日本隊のレベルの高さを世界に知らしめた快挙と言えます。

ここで登場する群馬岳連と日本山岳会東海支部は日本はもちろん、ヒマラヤで世界のトップレベルを行くエキスパート集団という点が素晴らしい。20年位前までは世界をリードし続けた日本隊だったが、旧ソ連隊、ユーゴスラビア隊、ポーランド隊、韓国隊などの新興勢力が台頭し、アルパインクライマーが減少傾向の中で次第に力を失っていった。そういう意味で今回頂上は逃したものの、日本隊の健在振りを証明した点で価値あるものと思います。

なお、同時期に同じルートを目指した韓国隊と競合したようですが、今回完登した第2次隊のメンバーは田辺、山口、ペンバ・ チョルテの3名事です。残念ながら山頂までは41mを残し時間切れで断念した様です。

以下は8/26 asahi. com 群馬版からの引用です

国内での最終トレ-ニングを重ねる名塚秀二さん
前橋市元総社町の登山家、名塚秀二さん(46)=前橋山岳会=が9月、ヒマラヤ最難壁の一つ、ローツェ(8516メートル)南壁での冬季の初登はんに向けて出発する。ローツェ南壁の前に登るダウラギリ1峰(8167メートル)も成功すれば、世界に1座ある8千メートル峰のうち10座(11回)の登頂となり、沼田市出身の故山田昇さん(9座12回、89年死去)を抜き、日本人の最多を記録する。

登山隊を派遣するのは名古屋市の日本山岳会東海支部。名塚さんは93年にサガルマタ英名エベレスト)南西壁の冬季初登はんを成功させた。日本人では数少ない冬季の8千メートル峰登頂の経験者で、同支部から要請を受けて参加する。

9月中旬にネパール入りし、ベースキャンプを設置。12月初旬から登はんを開し、同月下旬の登頂を目指す。同支部の偵察では、最終キャンプ(8100メートル)から頂上までに、50メートル以上の困難な岩壁があることが分かっている。

8千メートルでの酸素は、平地の約3分の1。名塚さんはサガルマタの8500メートル付近で、数メートルの壁の登はんを終えた後、3~4分間、動けなくなった経験がある「乾期の冬は岩に雪がついていない分、難しさが増す。今回はサガルマタの壁の数倍の高さがあり、厳しさは上ではないか」という。

名塚さんは高度への順応を兼ね、10月に群馬ミヤマ山岳会とともにダウラギリ1峰(8167メートル)の登頂にも参加する。名塚さん自身、同峰は未踏。ローツェとともに成功すれば、日本人初の10座目の8千メートル峰登頂者となる。「漠然としていた14座登頂が見えてきた。最難関の南壁を越えることで、さらに先につなげたい」と名塚さん。

ローツェ南壁は、14座すべてを最初に登頂したラインホルト・メスナー(イタリア)が89年春に挑戦したが失敗。「21世紀の課題」と評されるなど、ヒマラヤ屈指の壁とされている。これまでにスロベニアのトモ・チェセンが90年5月に無酸素、単独で、同年秋には旧ソ連隊の17人が別ルートで登頂している。冬季は2度試みられたが、だれもルート核心部に達していない。

壁の標高差は3300メートル。風速100メートルのジェット気流が吹き荒れる冬には、体感気温がマイナス100度になることもあるといい、落石、落氷を避けながらの最悪の環境での登はんになる。予定しているルートはチェセンとほぼ同じ。単独で登ったチェセンの初登はんは、真偽をめぐって10年以上も論争が続いている。残したハーケンなどが見つかれば、論争に結論が出せると期待されている。

日本山岳会東海支部のWebサイト

http://www.jac-tokai.jp/page104.html


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チベット難民の悲劇

2006年11月07日 | ヒマラヤ

もう1ヶ月ほど前のニュースなので一般的には注目されなかったが、中国とネパールの国境付近で起きた忌まわしい事件に触れておきたい。

9月30日、チョオユー(8201m)のBC付近のランパパスを越え、チベットからの難民43人が国境を越えてネパール側へ逃れようとした。その際に中国の国境警備隊に追尾され、尼僧を含む2名のチベット難民が銃撃されて死亡した。しかも現場はチョウユー登山隊のBC付近で、登山中の各国の登山隊の隊員60名に目撃されている。無抵抗な尼僧が無残にも背後から銃殺されたが、多くの外国人の目の前でこの様な行為に及ぶことが異常である。さらにこの事件が初めてではなく、表に出ないだけで過去に何度か起きている様だ。

チベットは日本からは実に遠い存在で、日本人には無知、無関心で今何が起きているかについてはあまり知られていない。一般的にチベットは中国の一部と認識されているようだが、民族、言語、文化、習慣とも中国(漢民族国家)とは異なり、7世紀頃から殆ど独立を保ってきた敬虔なチベット仏教徒の独立国であった。

1950年、共産主義国家となった中国は「チベット開放」を名の下に大軍で進撃しし、当時侵略を恐れて鎖国政策を取っていた東チベットに進行した。4万人の中国兵は物理的に抵抗する能力を持たないチベット軍を圧倒し、1951年、中央チベットを制圧して全土を中国の支配下に置いた。その後2万人の人民解放軍がラサに駐屯し、これは当時ラサ人口の半分にも達した。その後は600万人だったチベットの人口は今や750万人の中国人が流入し、やがて45万人の難民がヒマラヤを越えてインド、ネパールなどへと亡命した。ある意味では民族浄化と共に、人口爆発のはけ口としてチベットを利用しているようにも思える。

この様な明らかな侵略に対し、インド、アメリカを初めとする国際社会は中国を非難したが、西洋諸国は当時朝鮮半島情勢に気を取られていた為、悲惨な状況にあるチベットを見捨てた。現在、日本政府も中国と国交を回復したことも有り、あまり利害関係のないチベットには見向きもせず、中国とのトラブルを避ける為に頬被りをした状態が続いている。

その後はまったく交渉なしで1951年、屈辱的な「17条協定」を強引に受諾させ、しかも一方的で条約を守らず、厳しい圧政と徹底した弾圧で中国化を図って既成事実を積み重ねていった。「宗教は麻薬に等しい」という毛沢東主導の無宗教国家の中国は、チベット仏教を否定し、貴重な金属で出来た仏像などは持ち帰り、全土の6000ヶ所に及ぶ寺院や僧院を徹底的に破壊し尽した。日本だったら名だたる国宝級の神社仏閣が略奪、破壊され、自分育った故郷の寺や神社も抹殺されると同じで、国家が滅亡すると同時に民族の誇りと伝統、そして信仰が奪い取られたに等しい。

この圧政下の1959年3月10日、中国の駐屯部隊は、兵舎内でも上演される演劇にダライ・ラマを招待した。しかし、中国側が護衛を付けずに来るように要請した為、ラサの人々の中国に対する不信感が広まり、大規模なデモが発生した。ダライ・ラマは事態の沈静化を図ったが、市街戦が始まった為側近と共に冬のヒマラヤを越えてインドの逃れた。その後ラサは戦火に見舞われ、戦車を投入した為戦闘は一方的なものとなり、多くのチベット人が犠牲になったり捕虜になった。

その後「開放」の美名の下に犠牲者をなる人は後を絶たず、文化大革命はチベット全土に及び、何年にも渡って密告、拷問、処刑、が繰り返され、反乱が発生した時には血の粛清が加えられた。インドのダラムサラにあるチベット亡命政府は、1950年から1984年までの間に犠牲になったチベット人は120万人と発表している。

中国はその後チベットを中国の領土と見なして、言語や宗教教育を含む地域文化を抑圧した。その結果、毎年平均2,500人以上のチベット人が、危険を起こしながらヒマラヤ山脈の国境を越えてネパールに入りし、亡命したダライ・ラマが率いるチベット政府のあるインドのダラムサラへ向かおうとしている。

その後のチベットの行方は益々悪化の道を辿り、現在50万人とも言われる人民解放軍兵士が駐屯し、中国本土からやって来た漢民族の商人、運転手、建設・道路・鉄道に関わる労働者などが溢れているという。中国政府は人口統計上の同化政策を推し進めており、あからさまな民族浄化政策とも取れる統治を続けている。中国語の出来ないチベット人は教育の機会も奪われ、社会的、経済的な地位は弱まってきている。抵抗できない民衆の中には酒やギャンブルに走る者もおり、市内にはアジアで人口比率の最も多い娼婦の街とも言われている。中国の勧める改革・開放政策にのっとり、多くの森林が伐採されて大都市部に運ばれ、無人地帯には核廃棄物が持ち込まれたとも言われている。

犠牲になった人は次の通り。

・戦いや蜂起によるもの           43万人
・餓死                     34万人   
・獄死・強制労働収容所での死      17万人
・処刑                     16万人
・拷問による死                 9万人
・自殺                       9000人

※餓死者とは、ツァンパを主食とするチベット人は大麦を栽培したが、漢民族の主食である小麦を無理やり転作させたが適地でなく失敗し、また多くのやって来た中国人に供出を強いられた為の死者と言われている。
この数値はペマ・ギャルポ著「チベット入門」によるものですが、その他のフランス人チベット研究者の数も100万人という数字であり、おおむね信頼できる数と思われます。

この様なチベットの事情をマスコミ各社が大きく取り上げても良さそうだが、じつは中国の言論統制の力に屈してしまっている。かつてダライ・ラマをY新聞が招待し来日した時、Nテレビ局がテレビに出演させた。しかしその事が後に中国の逆鱗に触れ、「特派員を北京から追放する」と脅され、その後はチベットの件に日本の大新聞は、ただ沈黙を守ったままになっている。

自分は残念ながらチベットを訪れた事は無く、たまたまヒマラヤ登山を通じて関心を持ったに過ぎない。しかしまだ中国側からのヒマラヤ登山が解禁されていなかった頃は、スゥイン・ヘディンやテイルマンの本を読みふけり、禁断のチベットに想像を掻き立てられた古いタイプの人間だ。多くの未踏の山域が広がるチベットは慕情の対象であった。しかし今や多くの観光客や登山者が押しかけ、大きな変貌を遂げたこの国だが、その姿とは相反し世界に見捨てられた国家の悲劇が存在する事に心を痛めます。思い出せばかつて登山隊のサーダーを勤めた、ペンバ・ノルブの若くて綺麗な奥さんはチベット難民だった・・・。


【カトマンズIPS=マーティ・ローガン、10月9日】
        
http://www.janjan.jp/world/0610/0610223216/1.php




 
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東海大学K2登山隊

2006年08月03日 | ヒマラヤ
                  
最近は少なくなったヒマラヤ登山隊の朗報が届いた。小松由佳隊員(23歳)、青木達哉(21歳)の隊員2名東海大学K2登山隊は、8月1日、南南東稜から見事に登頂し、K2では日本人初の女性サミッターが誕生した。世界的にも女性では8人目、急峻でさらに困難な南南東稜からの女性としては初めて。

K2(8611m)は世界第2の高峰にして最も困難な8000m峰として良く知られている。この山は急峻な独立峰で、ノーマルルートの南東稜でさえも成功率は低く、遭難者が多いことから「非情に山」とも言われている。連続する急峻な岩場と不安定な雪壁では落石、雪崩れ、滑落の恐怖と戦わなければならない。実際、過去女性登頂者7名のうち、5名は下山途中で力尽き、または滑落してBCに帰還することは出来なかった。

他もカナダ、アメリカ、ロシア、イタリア、地元パキスタン隊など、数多く登山隊が入山していたが、殆どの隊が落石、滑落などで登頂を断念した模様。唯一南南東稜から取り付いたこの隊は全てのルート工作を行い、7900mの肩でノーマルルートに合流し、超高所での急峻でで困難な雪壁を乗り越えて登頂した。

登頂したこの女性は自らトップでルートを開き、抜群の体力と高所順応力を発揮し、困難なボトルネック「瓶の首」と呼ばれる超高所の急峻な雪壁を突破して登頂した。まさに屈強な男性クライマー顔負けのアタックだったと思います。数多くの登山隊がアタックしたが、結局登頂したしたのは日本隊2名の他、イタリア隊の2名のみだった。最も危険な下山は途中8200m地点のボトルネックで無酸素ビバークとなり、困難を極める下降を冷静に行なってBCに無事生還した模様。

しかもこの方、東海大学山岳部時代は男子など10名を率いる主将を務め、常にメンバーをリードするリーダーだった様です。出身は秋田県という事で子供の頃は山暮らしだったそうで、最近は殆ど聞かれることのない「東北人の粘り」が成功へと導いたのでしょうか?しかし並々ならぬ努力以外に、何より自分の力で登頂したいという気持ちこそが、誰にも勝っていたという事でしょう。
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ヒマなときの読書

2006年07月19日 | ヒマラヤ
              アンナプルナサウス C1 1975年9月

最近の長雨の日々にはうんざりですが、山からもすっかり遠ざかりウダウダした平凡な暮らしを送っています。試しに体重計に乗ってみるとやはり1.5kgのオーバーで、中性脂肪が日に日に体にまとわり付くような気分で憂鬱です。

インターネットで色々やっていると本を読む機会が減ってしまい、最近は本屋で山の本を買い求めることなどすっかり無くなった。本屋さんに寄っても「立ち読み歓迎」を良いことに、山の雑誌は立ち読みにがぎるとばかりでヒマ潰しの日々でした。もともと立ち読みには私の得意分野。ちなみにかつて東京での某スポーツ用品メーカーの営業マン時代、サボりにサボって新宿の紀伊国屋書店で、山の単行本を3度ほど立ち読みで「完読?」した実績が有ります。

最近およそ15年ぶりに買い求めた本が有る。「エベレストから百名山へ」重廣恒夫著(光文社2003年)。この重廣恒夫氏とは、ヒマラヤ登山に関心のある方であれば誰でもご存知の人で、日本山岳会を中心とした数多くのヒマラヤ登山隊を率い、多くの8000m峰のバリエーションルートの初登攀を成し遂げた方。しかも自らエベレスト、K2、カンチェンジェンガを初めとする困難なルートを完登した、世界的にもトップのクライマーでもある方。

この方はカリスマ的存在の小西政継氏とか、国民栄世賞の植村直巳氏とは異なり、華々しくマスコミに登場する事は無く一般的にはあまり知られてい無いが、日本のヒマラヤクライミングのレベルを世界トップレベルに押し上げた、日本山岳界の素晴らしい功労者として知られている。

この本の内容は登山隊の隊長としての高度かつ困難な責務と、自信がクライマーとしての死線を彷徨うような過酷なクライミング、そしてまったく意外な日本百名山へと大きく舵を切って行く過程が興味深い。特にエベレスト北壁初登攀での臨場感ある記録は素晴らしく、本人にとっても実に考え深い登山だったと思う。あまり飾り立てた文面でもなく、率直ながら困難を極める山登りの中から、山の楽しみ、山登りの醍醐味を見事に伝える本に思える。山が人生や夢と等価であった時代の面影が本書から感じられる。今まであまり伝えられる事の無い、知られざる壮絶な物語が描かれている。

この本は実に懐かしくもまた、時代の変遷を強く感じさせる現実でもある。かつての田舎山屋の私達でも、レベルとスケールの違いは途方も無い落差があったが、少なくても気持ちだけは同じで似たような目的意思を共有しながら登っていた。いわゆるヒマラヤ至上主義で、山はもちろんの事、実社会でも山を中心に全てが廻っており、仕事を取るか山を取るかという極道的な世界。仕事を取った良識のある人間は次第に戦列から離れていき、今思えば家族、会社の方には多大な迷惑をかけっ放しだった。

しかしこの方は素晴らしいサラリーマン人生を送っている方で、オニツカ(現アシックス)に勤務されながら、17隊もの数に上るヒマラヤ登山隊に参加している。しかもその個人負担金の多くをを会社からもらっているという実に羨ましい方。通常この世界では考えられない優遇で、よほど仕事が出来てで会社の評価も高く、しかも人望があってまた上司に恵まれた方なのだろう。ただそれだけではなく直接社長に直訴する位の実績と度胸があったからではないか。私もかつて一度だけは会社に目をつぶてもらった事はあったが、二度目となると即退場処分が目に見えていた。しかもこの方日本百名山を123日で完登するに当たり、会社にアウトドア事業部キャンペーンの一環として企画書を持ち込み、結局会社の全面バックアップの末達成してしまう。私から見れば理由はどうあれ、自分自信が登りたかったから登った様に見えるのだが。

こういう事ををいまさら考えてみると、山登りでも仕事でも結局最後まで諦めずやり通した人のみ栄冠が輝くという事実で、途中で弱気になったり中途半端に終わってしまう我々とは人間が違うと感じる。時間がたつと後は後悔だけが残り、内輪で呑んだくれた時には単なる昔話だけで盛り上がるという事になる。気が付いたときには自分の気力、体力が低下し、あの時登っておけば良かったと後悔する。それだったら自分の実力にあっただけの山登りでも、後で納得する結果を伴う様たまには真剣になってみる事も必要だろう。


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エベレストの噂話

2006年06月15日 | ヒマラヤ
アンナプルナサウス 7219m (ネパール) 1975年

本屋でいつもの立ち読みをしてロクスノ(Rock and Snow 山と渓谷社)と言う雑誌をパラパラめくってみた。いつもの内容はフリークライミングとボルダリングばかりで、元アルパインクライマー崩れの自分には殆ど興味がない雑誌だが、最近はセロ・トーレ(南米の困難な岩峰)の記録とか、ヒマラヤの情報なども登場して思わず読み進んででしまった。

その中で今季のエベレスト登山の顛末が載っていたが、ヒマラヤ登山の大きな変遷ぶりには驚いてしまった。ヒマラヤと言うとそれ=エベレストのみと勘違いしている人(山屋さんも含めて)も以外に多いが、このエベレストが他の8000m峰と際立って特異な存在となっている。その訳は今年春の登頂者が中国側136人、ネパール側146人(トータル282人 シーズン終了時点でトータル500名を突破)にも上り、累計の登頂者数では3000人に近づいているという最近の状況だ。1953年にエドモンド・ヒラリーが登頂して以来53年、その当時誰がこのような数字を想像しただろうか。ちなみに日本人の登頂者は今年の春季は9名、累計では春季106名、秋季18名、冬季10名のトータル延べ134名(実数120名)。また、遭難死者は累計で196名、日本人6名となっており、日本人の登頂者に対する遭難死者数は5%に達している。

このエベレスト(ネパールではサガルマータ、中国ではチョモランマと呼ばれる)は東西南北に渡って10数本のルートが開かれているが、最近はバリエーションルートを目指す隊は極めて少数派で、殆どの隊ががノーマルルートのサウスコルルート(ネパール側)と、北稜(中国側)で占められている。かつて許可は1シーズン1隊のみという厳格な時代もあったが今やシーズン制は撤廃され、外貨獲得を最優先させる中国、ネパールともお客さんの争奪戦のようにして大判振るまいし、両国とも20~30隊が押し寄せるドル箱地帯となっている。

最近話題の公募隊が増加傾向に有り、お金を払えばシェルパがクライミングはもちろん、高所での荷揚げや生活全般にわたって面倒を見てくれるシステムが常識となっている。つまり人並みの体力があって天候に恵まれ、運さえ良ければフィックスロープに導かれて頂上にたどり着くことが出来る。

しかしこの様なヒマラヤ登山でもその年の天候に大きく左右され、悪天候で登頂率が20%などと言う事も有り、それに伴って多くの遭難者が出ることも有る。この点では2~30年前の頃となんら変わることは無く、雪崩れ、滑落などによる死亡率は国内山行と比べてきわめて高い。自分がかつてインドヒマラヤで活動した年、この界隈だけで100名の日本人登山者が入山し、15名が死亡したという例も有った。

しかし、エベレストで起きている遭難事故は少し趣が違うようだ。天候に恵まれた日のアタックでも行動不能になり、途中で力尽きてしまう例が多いようだ。このプレモンスーンは中国側、ネパール側で計10人(シェルパも含むと思われる)が死亡したと言われ、過去最悪の事態となっている。今シーズンは天候に恵まれ、多くの登山者が山頂を目指したが、山岳関係者は「この好天が多くの登頂成功をもたらすと同時に悲劇の原因にもなっている。天候がもっと悪ければ、登山隊は途中で引き返していただろう」と指摘している。

高所順応の失敗、渋滞による酸素ボンベの酸素切れ、サポート体制のない無理なアタック、天候判断や時間配分の誤りなど、少しのミスが致命的な結果を生んでしまう。山頂近くまでフィックスロープが張られ、技術的な難しさはあまり無いとはいえ、超高所での行動が引き起こす危険性はまったく変わっていない。

最近は特にあまり予算を掛けない登山隊に事故が多く、しっかりとした体制の登山隊が登頂を犠牲にして救助に廻るというケースも有るとか。また、頂山直下で動けなくなった登山者を誰も救助しようとせず、登頂してそのまま下山してしまうパーティーが多かったようだ。確かに超高所では自分の命を守るだけで精一杯で、他人を助ける余裕など無いのが現実だろう。場合によっては自分にも死の危険性が迫ってくる。それぞれが自己責任をまっとうすると言う意味では間違っていないかもしれない。でも、この様な極端な例はヒマラヤ広しと言えども、エベレストでしか起こり得ないのではないでしょうか。実に殺伐とした狂気の世界にも思えるのですが。

まあ、この先ヒマは出来ても資金のめども立つはずも無く、組織もコネクションも無いわが身には無縁の出来事ですが・・・・。
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