Scarving 1979 : Always Look on the Bright Side of Life

1979年生な視点でちょっと明るく世の中を見てみようかと思います。

憲法14条1項 法の下の平等 を履き違えるな

2004年08月12日 23時59分59秒 | 1分間スピーチ
今日は、憲法14条1項 法の下の平等 を履き違えるなでした。

本題に入る前に、
日本国憲法には以下のような条文があります。

---
日本国憲法第14条1項
すべて国民は、法の下に平等であって、
人種、信条、性別、社会的身分又は門地により
政治的、経済的又は社会的関係において差別されない。
---

さて写真は、私が生まれ育った、
千葉県八街市にある八街駅です。

今年か去年か、ともかくわりと最近に、
こんな有様になってしまいました。

それまで八街駅は、明治の鉄道開通時代からの名残ある、
綺麗ではなく狭いものの、どこか味のある木造建築でした。

しかし今や、どこにでもありそうな橋上駅。

一体なにが楽しいんでしょ、
こんなことして。

その後、家までのんびり徒歩で帰宅したのですが、
その途中も、少しずつ私の知ってる街並みではなくなっていました。

自転車時は立ち乗り、徒歩時は石を蹴り合ったりした、
市役所横の小道が、砂利の道から、すっかり舗装されていたり、
昼休みに行列の出来た長い滑り台のある山を崩してつくった、
仮説なはずのプレハブ校舎がなくなるどころか増えていたり、
小道にある野いちごの採れる木がなくなっていたり。

どうにも千葉県八街市さんが、
私の心が遊べる場所ではなくなってきています。

千葉県八街市さんは、私が生まれた頃からかもう少し後か、
東京近辺就業者のいわゆるベッドタウンさんとして、
都内で一戸建てを買えない人達が、大いに流入して来ました。

きっと人口も、そんな流入者によって、
私が生まれた頃から倍くらいになってるんではないでしょうか。

私が中学生になるまでは八街町でしたしね。

そんな流入者にとって暮らしやすい街というのは、
古ぼけた木造建築の駅がある街ではなく、
きっと都内在住時にも見たことがあるような、
綺麗な顔した橋上駅のある街なのでしょう。

そしてまた、古くから八街に住むインテリぶった田舎者が憧れるのも、
きっと都内に行ったときに見たことがあるような、
綺麗な顔した橋上駅のある街なのでしょう。

こうした影響は、橋上駅だけでなく、
大きな駐車場を備えたスーパーやホームセンターや、
ファミリーレストランの乱立にまで至っています。

関東圏をドライブして、チョット田舎を走っていると、
意図不明に、瞬間的に大規模な店舗が密集している、
そんな街並みに、そこらかしこで出会うことがあるかと思います。

千葉県八街市は、
まさしくそうなろうとしています。

どこかで見たことのある街並みにすることで、
流入者は流入前までの街並みと同じという安心を覚え、
田舎者は都会にある街並みと同じという発展を感じる。

まるで周囲と同じになることが、
全て正しいことかのような。。。

私はとても嫌です。

そもそも、こういった全国を同じに的な思想が、
どうかと思います。

ひとつひとつの街がしっかりと顔を持たなくては、
なんの面白味がありません。

便利かそうでないかも重要ですが、
それ以上に必要なのが、面白味です。

便利なだけなら、
もっといい街があるんですからね。

私は、少なくとも今の八街市ならば、
将来的に住みたいと思えません。

いざ振り返って特徴のない田舎街が出来上がって、
それが本当に楽しいですか?

田舎を出た若者が帰省したとき、
生まれた街に顔がなかったら、
どんなに淋しいと思います?

その他の田舎町も、
こうして同じように成長していくつもりならば、
そんな面白味のないことは止めてほしいと思います。

それにはまず、便利であればそれでいい、
そう思っている多くの人達を、なんらかのカタチで、
大事なことは別にある、という方向に扇動する必要があります。

25歳になった私ならば、
声を大きく発言できる気がします。

きっと私は、この想いを遂げるために、
なにかしなくてはなりません。

平等であるということと、
みんなが同じであるということは、
イコールではない。

幸せの尺度を一元化してはいけない。
それをどう伝えるべきか。

ともかく、顔のない田舎を、
これ以上増やさないで欲しいと切に願う。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿