Scarving 1979 : Always Look on the Bright Side of Life

1979年生な視点でちょっと明るく世の中を見てみようかと思います。

2006年04月29日の服装

2006年04月29日 23時37分16秒 | 服装
毎日、基本的に意味のある服装をしておりますが、
今日は確かに意味のある、ネクタイ姿なわけです。

どんな意味かと言えば、先週に引き続き、
今日も母方祖母のお見舞いに行きました。

1週間ぶりに見た祖母の顔は、
1週間ぶりとは思えないくらい衰えていました。

生まれたての子供が1週間で活き活きと成長するのときっと同じくらい、
弱弱しく死ぬことに近づいている顔で。

母方父方の祖父ふたりは急に亡くしているので、
ゆっくり亡くなっていくことってこうなんだなー、
って逆に冷静にもなったりして。。。

人には、幼かった頃に出来なかったことを、
成人になって返そうとする性質があると言われています。

親に似た人と結婚し生活することで、
擬似的に幼い頃、親に返せなかった想いを返してみたり。

逆に幼い頃に抑圧されていたものを、
成人になってあえてやってみたり。

3~6歳くらいの育ち方が将来の自分を決めてしまう、
と言っても過言ではないくらい、その傾向は色濃く見られるらしいです。

さて3~6歳頃の私はというと、昼は母方の実家に預けられ、
いわゆる幼児教育でドリルを解きまくったり、
高級なお店を回ったり、旅に連れ回ったり、
常に大人風味の娯楽を与えられた、お坊ちゃま生活をしていました。

一方、夜は自宅でクーラーもレンジもない庶民な生活で、
少ない素材の中、知恵と工夫で娯楽を生み出していったわけで。

そこに心臓病に伴なう負けん気や演技も加わって、
多彩な環境が入り混じった生活をしていた幼年期でした。

そんな生活を過ごしていたのですから、
今の私にわかってても治せないほころびがあるのも仕方ないです。

この歳になれば、もはやそこを認めて、
どう周囲と過ごすかを考えるしかないのですが、
今日はその話ではなく。。。

そんな生活の中で私は、母方祖父に憧れを抱きました。

大きな愛を持った人で、今思うと少しのわがままもあったけれど、
そこも含めて、誰にでも愛される人でした。

今の私がセンスのない服装を嫌うのもそうですし、
アイスが大好きなのもそう。

あからさまに祖父の影響と言えます。

眼鏡は違いますが、 ジャケットと帽子、
そして必要なきネクタイは私のトレードマークではありません。

そんな祖父の姿を摸倣した私らしく、
先週に引き続き、今日もオシャレさんで祖母の病室に行きました。

先週に引き続き、今日も喜んでくれました。

というか先週は喜び過ぎて、私の全身写真を欲しがり、
翌日から今日まで枕元に置いて、毎日寝る前に見てくれていたらしい。

全ての人とは言わないものの、母親、は無意識の中で、
若かりし頃の、夫との情熱的な恋愛を思い返すかのように、
息子を擬似恋人のように想うことがあると言われています。

そんなわけで息子が家を出たときに虚無感を覚えて、
一気に離婚まで繋がってしまうケースも多々あるとかなんとか、
これもまた今回の話とは関係ないので省きますが。

もし孫にもそうした恋人理論が適用されるならば…、
とか思っての行動であったわけで。

亡くなる間際に、祖父の摸倣をした私を見せることで、
情熱的な恋愛をしていた、幸せな頃を思い出してくれればな、なんて。

相変わらず無言で周囲には気付かれないながらも、
押し付けがましい私の気遣いだったのです。

写真のお話を聞く限り、
その辺は成功だったのでしょう、たぶん。

今日も、たぶん。

母方祖母にこんなに思い入れがあるのは、
私は祖父をただ憧れてるだけでなく、
夢として祖父の跡を継いで不動産屋さんをしたい、
という想いが幼少期からあったのです。

ただ、それはあくまで祖母が健在で、
かつ私に家族が出来た後の人生設計だったので、
その夢はもう叶えられなくなってしまうわけで。。。

正直、その人生設計の中では、
庶民の購買感覚を学ぶために会社員なんてのをしていて、
今の自分に執着はあまりないわけです。

人生設計がその通りに進まないのが決定したのであれば、
一度全てを投げ出してもいいのかもしれません。

もはや頭の中が真っ白なキャンバスに置き換えられていて、
なにがなくなっても、たぶんなにもわからないと思いますし。

そもそも摸倣は摸倣でしかなく、本物にはなり得ませんからね、
私自身、本物にならなくては全てが嘘になってしまします。

ここ最近の私は、自分が成長したと勘違いしてましたが、
全く成長なんてしてなくて、なにもわからない子供のままでしたしね。

また、そ知らぬ顔で人を傷つけて。。。

本当に馬鹿で馬鹿で馬鹿で馬鹿で、
誰にでも愛される人とは、ほど遠いところにいますね。

祖母の最期には摸倣ではなく、
本物として生きた姿を見せなければならないけど、
もう時間がなさ過ぎますね。

もう1日か、1週間か、1ヶ月か、正直あと何日かわからないですけど、
摸倣を続けるのが本物の私でもあるので、
そうするしかない気がします。

きっと幸せは、ほんのわずかな愛を見逃さないこと。

そんな歌の通り、不幸せの素を探すのではなく、
幸せの素を見逃さないことこそが、なにより大事なこと。

今の祖母ならきっと、マイナスよりもプラスに目を向けて、
全てを見逃さずに受け止めてくれることでしょう。

私自身もそうでなくてはなりません。
いじいじするのは、もう少し後です。

いにしえの恋人達が抱き合った日々を、私は願います。