モノと心の独り言

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生存空間での、主体の二重化による、刺激から意識への流れ

2007-05-10 11:42:19 | 基本的なコト
表参道駅のメディア・ジャックを、個人がああだ、こうだと云うのは、個人的な趣味の世界、マニアのナルシスティックな世界所有欲の吐露かもしれない。これは、単なる個人の精神症状の押し付けなのだろうか?
生存空間の深さ、想像界・象徴界・現実界をさ迷って 
生存空間の深さ、想像界・象徴界・現実界のトポス


その構造を示すために、『文脈病』斉藤環 著を参照して、主体の二重化による個体体験の意識化のフローをつくってみた。
主体の二重化とは、個体を精神分析的主体と器質的主体の二重化されたものと考える。
精神分析的主体とは、生存している身体およびその表象物として、ファルスの不在を通じた欲望により生と死をいきる、フロイト・ラカンの示した概念だ。
器質的主体とは、種としての人間における反射(ゼロ学習)から、反復する記憶をカテゴライズするⅠ学習、その再編を行うⅡ、Ⅲ学習というベイトソンの示した人間像だ。
ある刺激が身体という現実界に達し、なんらかの象徴としの手がかりの痕跡を走査されると、これまでのカテゴライズされたものと照合され、なんらかの修正がされて、コンテクストとして想像界へと送りかえされる。意味作用とはこのプロセスのことで、想像界で意識されることは、二重の’なんらか’という個体的な過程をへる。

一重には、家族としての人間は、その個体固有の母性との関係による象徴性=シニファンに介入された表象として器質的主体へと返されること。二重には、その刺激体験の組み合わせ・順序が、個体的であるので、反復学習される手がかりが、さらに個体化されてしまうからだ。論理も科学もその想定内、観察・検証可能な範囲での合理性なのだ。別の言い方をすれば、心理のエコノミーの中での統計的な結果なのだ。’学習'という言葉は、いかにも正解、一つの答えがあるように響くが、対象aを求める欲望は、常にその想定の確認と想定外への散策を続けている。

結果としての浮かび上がる意識は、
器質的な行動へ収束し、より完全な学習を目指すのだろうか?
いやいや、やはり、個体は一つの症状として、
原抑圧を解消を、想定外への散策で埋めようと、
無限の欲望をもって、
到達しえない対象aを、求めるのだ。

その表参道駅の同じメディア・ジャックの中を通るにしても、
二度目、三度目と意識の仕方が変わる。
この体験・症状は、だれにでもあることなのだが、
それを理解・記述しきろうとすることが、
マニアックな所有欲なのか、社会的な未知の探索なのか、
私自身には、判断しきれない。


コミュニケーション・メディアのモデル思考

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