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あいづわくわく学園 中野竹子の碑・キリシタン塚・若松栄町教会・妙国寺 会津若松市内【8-2】

2013年09月02日 | 郷土史・史跡・施設
あいづわくわく学園
中野竹子の碑・キリシタン塚・若松栄町教会・妙国寺 会津若松市内【8-2】


25年度、地域の歴史・史跡などの現地学習第8回の2は1に続いて会津若松市内の史跡探訪・・・
写真は少ないですが説明が長くなったので2回に分けました。

画像クリックでスライドショーへ。BGMの音量にご注意ください。
中野竹子の碑
画像クリックでスライドショーへ
中野竹子奮戦の地ー説明板より
明治戊辰(1868)の役で、西軍を迎え撃ったところ・・・
8月25日には、婦人の従軍が許されたので、黒髪を切り、薙刀をかかえ、
衝鋒隊に加わり、長州・大垣藩の兵士とここで遭遇し、敵の銃撃にあい・・・
壮烈な戦死をとげた。時に22歳・・・

出陣する際薙刀に巻き付けていたという辞世の句
「武士(もののふ)の猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも」・・・


キリシタン塚

会津若松は、キリシタン大名・蒲生氏郷が領主になっていたこともあり、
キリスト教が少しずつ根付いた地域でした。しかし、江戸藩政時代になると、
幕府の反キリスト教政策にともないキリスト教徒の弾圧が頻繁に行われるようになっていきました。

1653年(寛永12年)、幕府のキリスト教の厳禁令が強化され、
これにしたがい会津では加藤明成が藩主の時に、
キリスト教徒の長の横沢丹波(よこざわたんば)とその一族、
横沢邸に潜んでいた外国人教徒等、約60余名が捕らえられ、
この薬師川原の刑場で処刑されたと伝えられてきました。

後年この地から犠牲者の埋骨と思われる人骨が見つかったため、
昭和37年にそれらを供養するため、殉教して以来300年以上を経て
敬虔なミサが捧げられてキリシタン塚が建てられました。


若松栄町教会

1894年 北小路 ( 現日新町 ) で創立、
当時、会陽医院で薬局生として勉強していた野口清作 ( のちに英世と改名 ) は、
藤生金六牧師夫妻の英語塾に通い、恋の悩みや人生相談をしながら聖書に触れ洗礼に至ったと・・・
「明治28年(1896)野口清作、藤生金六牧師から受洗」と記録された信徒人名簿のレプリカを拝見

その後、明治44年(1911)、会津若松市の中心部に礼拝堂が建設された。新築か修復かで大議論の末
2001年秋、修復工事が完成し、文化庁登録有形文化財、会津若松市歴史的景観指定建造物に指定・・・


宝光山妙国寺

宝光山妙国寺は、
顕本法華宗開祖の日什上人(1314年~1392年)が誕生・入滅した霊場です。
応永元年(1394年) - 日什の誕生地であり墓所である当地に弟子の日仁が開創・・・
什門の名刹として、戦前に至るまで顕本法華宗本山であった。現住職は54世伊藤日耀貫首。

会津戊辰戦争では、飯盛山で自刃した白虎隊士の一部の遺体が仮埋葬されました。
当時、白虎隊士の遺体は、他の東軍のものと同じく、
誰も手をふれることができず、野ざらしの状態でした。

こうした状況を地元牛ケ墓の吉田伊惣治は余りにも可哀想に思い、
夜な夜な遺体を菩提寺の墓地に運び埋葬したそうです。
後日、飯盛山にお墓が建てられました。             

また、この寺は、明治元年9月22日会津若松城の開城の翌日から28日間、
藩主松平容保・義徳父子が謹慎した場所でもあります。

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