摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

筑前國一之宮 住吉神社(福岡市博多区)- 最初の住吉神社と、住吉三神が生まれた”筑紫日向”の謎 -

2020年01月11日 | 九州

JR博多駅からおよそ20分程歩くとたどり着く、主要都市のど真

ん中に堂々たる敷地を確保する、真に由緒ある神社です。”住吉”

といえば、大阪人にとっては”すみよっさん”として親しまれる住

吉大社が真っ先に思い浮かびますが、ご祭神の底筒男神、中筒男

神、表筒男神の住吉三神は、元々は北九州の神様で、この地域に

は多くの歴史ある住吉神社が鎮座しているのです。そして神社は、

この博多の住吉神社が「住吉本社」とか「日本第一住吉宮」など

と古書に記され、最初の住吉神社だと主張しています。

 

・神門前

 

しかし、それも明確な証拠があるわけでなく、記紀でも下関市の

住吉神社や大阪の住吉大社には触れているのに、この博多の住吉

神社は出てこないのです。わずかに、大阪の住吉社所蔵の「住吉

大社神代記」に”熊襲二国と新羅を撃ちたまひし時の社なり”と記

されている程度です。神社としての文献上の初見は「続日本紀」

天平九(737)年の”幣を捧げ新羅無礼の状を告げる”ですので、

奈良時代には存在したことは確かです。

 

・神門

 

「神功皇后の謎を解く」で河村哲夫氏は、新羅遠征の前に仲哀天

皇が崩御された後、神功皇后が斎宮に籠り、天皇を死に至らしめ

た神を知るべく祭祀を行った地が、この博多の住吉神社であり、

その後に重要な各住吉神社が、以下の順序で創建されていったと

考えられています。

1、福岡市博多区(当社、遠征前)

2、唐津市神集島(遠征前)

3、壱岐市芦辺町(遠征後)

4、対馬市美津島町(遠征後)

5、下関市一宮住吉(遠征後)

6、大阪市住吉区(遠征後)

 

・拝殿

 

ここで悩ましいのが、宮崎県の日向に有る住吉神社です。そも

そも住吉三神は、伊邪那岐命が”筑紫の日向の橘の小戸”で禊を

行った際に生まれた神なのだから、”日向”が元祖では、とも考

えられます。しかし、その禊での誕生は、綿津見三神とセット

で生まれている事を見逃してはならず、その綿津見三神が博多

湾の志賀海神社を祀る阿曇一族の祖先神である事は明白です。

つまり筒男三神と綿津見三神は元来一つだった事が考えられる

のです。

 

・境内

 

河村氏は結論として、元々筑紫の博多湾岸で生まれた奴国の住

吉三神が、”邪馬台国”から日向への南遷に従い、日向国へ遷座

させられたが、神武天皇の東征の後に一時見捨てられたままと

なっていた。それを神功皇后が呼び戻し、あらためて筑紫に鎮

座せしめたのだと説明されています。この邪馬台国が南遷した

という考え方はポイントですね。

 

・本殿(後ろから)。右に見えるのが御神木 一夜松

 

 

住吉三神のお名前にある”筒”男のツツについては、1、星の意味

で、星を見て航海する事に由来する。万葉集でも”有星之(ゆふつ

つの)”や”憂星乃(ゆふつつの)”とツツと読んでいる、2、航海

の際に持衰(倭人が魏に朝貢に行く際の船に乗っていく特殊な役

目をする人)の身をツツシムに由来、3、船の帆柱をたてるとこ

ろを筒と呼び、その下に船霊を封じ込めた事に由来、4、阿曇一

族の内、対馬の豆酘(つつ)を支配していた一族が分かれ奉斎し

た神である、など諸説有りますが、海、航海に関わる事は確かな

ようです。博多住吉社では、三神の他に天照大神と神功皇后が相

殿に祀られ、五柱で住吉五所大神といわれています。

 

・古代力士像。博多人形師の中村信喬・弘峰親子の合作

 

この鎮座地一帯は弥生中期から後期にかけての遺物包含地で、弥

生時代にも海に面した先端地であったと推定されており、社殿裏

からは銅矛、銅戈も出土し、考古学的にも古くから海人たちの聖

地であったことが伺えます。本殿は、大阪の住吉大社と同様の住

吉造。屋根は45°の傾斜で直線的であり、仏教渡来前の古代建築

様式を今に伝えています。神社で行われる数々の祭祀のうち、10

月13日の相撲会祭は、神功皇后が兵士に力比べをさせたことに由

来する特殊神事で、境内にはそれにちなむ力強い古代力士像が供

えられています。

(参考文献:河村哲夫氏「神功皇后の謎を解く」、谷川健一編

「日本の神々」)

 

・三日恵比須神像。触れる部位毎にご利益があります

 

 

天孫降臨の地の”筑紫の日向”という神話めいた表現は、東出雲伝承

によれば、蓬莱島を目指した方士が上陸した筑紫平野と、その子

孫のイニエ王が南進して都を造った日向を、仕方なくひとまとめ

に表現した結果だといいます。それは記紀の製作途中で政府内の

権力体制が変化した事に配慮し、藤原不比等が製作方針を急遽変

更した為の苦肉の策だったのだとか。とても人間臭い、ありがち

な話と思いました。その一方で、伊邪那岐命の禊の神話は、イニ

エ王の御子がモデルになっており、生まれた時に日向の大淀川で

産湯につかった話が元になってるそうです。(「古事記の編集室」)

 


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