摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

石上神宮(天理市布留町)~古代大和政権の節目を窺わせる、布都御魂(ふつのみたま)や七支刀(ななつさやのたち)の古社

2020年07月05日 | 奈良・大和

古代ロマンに満ち、風光明媚な山の辺の道の中でも、大神神社と

並ぶ中核神社で、創建の古さでも一二を争うと考えられている石

上神宮です。”神宮”の社号からは、皇室との関りの深さを伺わせ

ます。新型コロナと梅雨の酷な大雨で大変な時期となっています

が、つかの間の晴れ間の機会に、゛起死回生゛をお祈りしたいと

参拝してきました。

 

・大鳥居

 

「延喜式」神名帳では”石上坐布都御魂神社”とあるなど、結構い

ろいろな呼び名があります。主祭神は人神でなく、まずは延喜式

当時の社名である布都御魂神(韴霊)~国譲りの際に武甕槌命が

帯び、武東征では熊野で毒気に当てられて病んでいた神武天皇

に、高倉下が献上し覚醒を促した、まさに起死回生の剣。「先

旧事本記」によると、天皇は即位後、物部氏の遠祖宇摩志麻治

その神剣を授け宮中に奉祀させました。二柱目は布留御魂神:

宇摩志麻遅命が父饒速日命から受け継いだ”十種瑞宝”を神武天皇

に献り、神盾を立てて斎き祀った神気。三柱目が、布都斯

~素戔嗚命が八岐大蛇を斬った十握剣。以上の三神です。

は、宇摩志麻遅命、五十瓊敷命、白川天皇、市川臣命、です。850

年には正一位の神階を受けています。

 

・鏡池の横の休憩所。天の岩戸開きの神話にちなんだ鶏が、御神鶏として放し飼いされています

・重要文化財の楼門は改修中でした

 

神社の起源は、崇神7年に物部連の祖、伊香色雄命が勅を奉じて

布都御魂神と布留御魂神を石上の高庭に移し祀った時です。次

いで、「日本書紀」によると、垂仁39年には五十瓊敷命が剣一

千口を造り石上神宮に納め、後には神宮の神宝の管理を任され

ます。同87年にはその五十瓊敷命も年老い、物部十千根大連が

その任を授かりました。以降、物部連(後の石上朝臣)が石上

の神宝を治めていきます。布都斯御魂神の方は、仁徳56年に市

川臣が勅を奉じて石上神宮の高庭の地に遷し、布都御魂神の左

(東)に埋斎したと、「新撰姓氏録」に記されています。

 

・国宝の拝殿

・本殿。大正二年造営。拝殿との間が、古くからの禁足地。

 

この布都斯御魂神に関して、あの本居宣長は”垂仁26年に物部十

千根に出雲の神宝を検校させ掌らせたとあるのは、崇神、垂仁

天皇の時期に、出雲神宮にあった御剣を都に召し上げて石上に

納められたのだろう”と「古事記伝」で推論していたそうです。

なるほど、という感じです。この後の時代でも、「日本書紀」

で、皇太子時代の履中天皇が、皇位を巡る争いで墨江中王に不

意打ちで攻められた時、逃げ込んだ場所として石上神宮が登場

します。なぜ石上なのかは分かってないようですが、何らかの

聖域性をもっていたと考えられているようです。

 

・拝殿は檜皮葺。入母屋造。

 

 

平安遷都に伴い、804年に神宮の器仗を山城国葛野郡に運んだと

ころ、1年で15万7千余人を要したと報告されました。凄い神宝の

量だったのですね。当時、鳴鏑の神異がしきりに起こり村の人々

が恐れおののいたので、布留宿禰高庭は神宝を遷す事を停止する

よう奉聞しましたが聞き入れられず、さらに倉が倒れたりと良く

ない事が続きます。そこで春日祭使建部千継が女巫に神託を聞か

せて奏上し、天皇の御年数に准じて宿徳僧69人に石上神宮で読経

させ、怒りを鎮めてようやく神宮の器仗を返納させました

(「日本記」)。

 

・奥に見えるのが神庫(ほくら)

 

社伝によると、1081年に白河天皇により宮中三殿の一つ、神嘉殿

の拝殿が寄進され、上皇となられた後の1092年に参詣されます。

入母屋造、檜皮葺で現存する拝殿としては全国最古、国宝に指定

されています。しかし、鎌倉時代に入ると興福寺が守護権力を行

使していく一方、当社は衰退していく事に。氏人は当社を中心に

団結し、1483年には4000人が社頭に立てこもって興福寺に反発す

る布留一揆が頻発しています。

 

・こちらも国宝の摂社 出雲建雄神社拝殿。元は内山永久寺(廃絶)の鎮守、住吉社(焼失)の拝殿だったよう

 

1559年には織田信長の応援のもと松永久秀が大和に侵入、河那辺

伊豆守率いる尾張勢が当社に乱入、多くのものが散逸しました。

さらに1562年、興福寺が春日社造用木にする為に布留山の木を求

めたのに対し、松永久秀に訴状を提出して毅然たる態度で拒みま

した。明治の時代になり、官幣大社の社格を得て皇室からの幣帛

がお供えされるようになり、明治16年には神宮号を復称する事を

許されるのです。

 

・摂末社。出雲武雄神社(左)と猿田彦神社

 

この神社は古来本殿が無く、拝殿後方の瑞垣内の禁足地が崇めら

れていましたが、明治6年、当時の大宮司菅政友が神祇官の許可

を得てその禁足地を発掘。一面瓦で覆われた下に東に鉾先を向け

た剣一振が、勾玉、管玉などと共に出現したのです。この神剣は

菅大宮司により”韴霊”と断定されます。その後も明治9年と大正2

年の本殿造営時にも刀剣、玉類が出土しており、この地は祭祀遺

跡として認識されます。

 

・東回廊。七支刀の説明展示があります。

 

この石上神宮の社宝としては七支刀も有名で、「日本書紀」では

神功皇后の摂政の時期に百済から献上されたとあります。こちら

も明治6年に菅大宮司により銘文が公表され、内容の解読につい

て議論が続いています。こうしてザっとまとめてみても、日本古

代史を語る時に避けて通れない、誠に重要な神宝や伝承を数多く

持つ重要な神社である事が理解できますね。

(参考文献:谷川健一編「日本の神々」大和)

 

・楼門。屋根は葺いてる途中でした

 

 

東出雲王国伝承によると、この地は第二次九州東征勢力を率い

が、戦いに勝利した後に拠点とし政務をとった宮だったと

説明しています。その後に続く、新たな大和王権の始まりの地

だった云うのです。また、物部十千根は、この東征軍の一派

として出雲を攻めた司令官だったという話を、神魂神社の記事

で触れました。最初、この十千根が国造に指名されましたが、

日命の子孫の宇加都久奴が大王に直談判して出雲国造に

た経緯が、「出雲と蘇我王国」に記載され興味深いです。

 

・鶏舎と巫女さん


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2 コメント

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Unknown (こまち)
2020-07-09 21:27:51
突然すみません。
古代出雲の話をいつも読ませて頂いています。
gooブログのメールメッセージ、メールモジュール設定をされていますか?
そちらでやり取りが出来たら有難いです。
コメント頂き有難うございます (akuto508)
2020-07-10 20:12:04
こまち様
有難いコメント頂き有難うございます。
お問合せのメールについては、何年か前に
gooアドレスが無くなり、また今は個人情報も
公開しておりません。まだまだ勉強中の身でし
て、申し訳ございませんが何卒ご理解お願い
致します。

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