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大善人へ身魂磨き

土佐国造 波多国と都佐国

古代祭祀に関係する氏族で、あらたえを織る忌部氏について書きました。忌部氏は阿波国の御方。四国は故郷ですから、次は土佐、高知県について書いてみたいと思います。


『国造本紀』によると、土佐国は初め、

波多国(高知県西部)と都佐国(現高知市あたり)の2国に分かれており、

波多国は第10代崇神天皇の世(異論あり)に、神のお告げによって、天韓襲命「あまのからそのみこと)が国造に任命されたようです。


一方、都佐国は第13代成務天皇の世(131~191)に、長阿比古の同祖で、三島溝杭命9世の孫の小立足尼を国造に定めたと、これまた『国造本紀』に記されているみたいです。小立足尼は、鴨族や一説では、長髄彦や、トミヤ姫(長髄彦の妹)と血縁がある天八現津彦命(あめのやあきつひこのみこと)、別名、観松比古命と記されているみたいです。松を観る男!







高知市 桂浜と松。この景色観たのかな?



幡多国の方が都佐国より国造りでは先だったようですね。


さて、その幡多国ですが、大和朝廷につながりをもった天韓襲命という人が、神のお告げによって選任されたとありました。お名前や地名から、ハタと関係がありそうです。秦氏 が渡来人であったように、天韓襲命も帰化人ともいわれています。


幡多地方は、今でも不思議と土佐弁ではなく、京言葉を喋りますから、すぐ幡多出身ね、、と高知県内でも解ります。


平家落人の方たちかなぁと思っていましたが、起源はもっと昔のようです。


一応、古代末期に波多郡を与えられた平重盛が、家人平田俊遠を平田に置いたといわれているようですから、京に縁がある方が住んでいたようです。


その、平田の名前を地名にもつ高知県西部の宿毛市平田町の高知坐(たかちにいます)神社。


御祭神は、都味歯八重事代主命です。


「土佐式社考」に


「都味歯八重事代主神は大和国高市郡高市社の祭神であるから、高知坐神は事代神主命であろう。

高知・高市は相通ずる。……

国造本紀には事代主命の9世の孫である小立足尼が都佐の国造となっているので、神名帳にある大和国高市郡波多神社もこれと同じであろう」

とあります。


奈良の高市郡に波多郷があることから、土佐の高知坐神社も波多という国号も、ともに大和(奈良あたり)の名を移したものであるとされています。


この大和の高市については、興味深い話しが役小角の本に出てきます。


それは、簡単に言うと

壬申の乱(672年)の時に、大海人皇子軍を援護する神がでてきて、

当時高市の社の、高市の名の神官に神がかり的なことが起き、大海人を戦勝に導いた話しです。


大海人とは、後の天武天皇です。

役小角や仲間たちは天智天皇や斉明天皇の恐怖政治を止めるために、陰でずっと政権打倒を我慢強く応援していました。


「日本書紀」に記されている神がかり的なことが起きたとされる「社」は、奈良県にあります3社です。


「身狭(むさ)の社」(橿原市見瀬町)

「村屋の社」(磯城郡田原本町)

高市の社」


村屋の社の村屋とは、諏訪大社や、古神道にも関係があるモリヤからだとか。


「高市の社」は、名前が変わりましたが、奈良県橿原市雲梯(うなて)ある「河俣神社」のようです。


神懸かりした神官を通して、


神は、

「吾は、高市の社に居る、名はコトシロヌシ神。

また「身狭(むさ)の社」に居る、名はイクタマ神である」といったようです。


「われは皇御孫命(大海人=後の天武天皇)の前後に立って、、、、護っている。」

と言いおわって、神官は、(神がかりから)さめたとか。


また「村屋」の神は、神官に神懸かり、


「今にわが社のある中の道から、軍勢がやってくる。だから、社の中の道をふさげ」


といったとも記されています。




つづく


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