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大善人へ身魂磨き

純粋な人を傷つけること

人間だから、知らずに悪いことを気づかずにやってしまうことってあると思います。

しかし、やってしまった事が悪ならやはり、蒔いてしまったからには、自分で摘み取る(罪とる)ことはしないといけないのかなとも思います。


だから、生きるのは沢山の責任を伴っていると思います。悪気なくやってしまう、それでも人を傷つけたならやはりその責任はやった方が引き受けると思います。


すごい心が純粋な人が詐欺にあった話を2件も聞きました。どちらもよく知る方の親族。泣き寝入りしなければいけない現実。信じられないやり方で。


この世が終わりでないと心から信じているから、神様がいると信じるから、必ず犯した罪は犯した方にかえるよ、と怒りを心で抑えるしかない。


それでも、その騙された純粋な人がそれに相当苦しむ現実があったりします。この世の生きづらさ。


信じられぬと嘆くよりも、人を信じて傷つく方がいい。贈る言葉の歌詞のフレーズ。何だかなぁ。と思います。


私は人といると疲れる時もあるから、一人になる時間はとても大切。最近はその時間が増えつつあります。人を信じられなくなる世は悲しい。信じた人からは傷つけられたくないし、お互い様だから、信じてくれる人を傷つけることもしたくない。


さらには、出会えた人を傷つけたくない。人を傷つけることは、自分の身魂も傷つける気がします。皆んな神様の分け御魂を宿しているから。


「海ならずたたへる水の底までに清き心は月ぞてらさむ」


これは菅原道真公が詠まれた和歌です。


菅原道真公は雷神とも祟り神とも言われています。無実の罪、陰謀、嫉妬により都を追われました。


道真公は月は知っていますよね。私の心を。と言わんばかりに、暗闇に光る月を自分の心に見立て語りかけていたのかも。暗闇はまさに、都で起こった陰謀の数々。


純粋な方を暗闇に落として平気な人は、もはや、人ではないかも。純粋な方の光は海の底まで届くほど美しく消えないから、やった方は、より光のない世界、暗黒に歩いて向かっているとも思います。


菅原道真公が祟ったのでなく、自分の負い目が闇を深くして雷を落とした。負い目のあることは人にばれなくても、自分の心の眼には隠せない。自分の中には神様がいる。だから隅々まで見られている。


詐欺も、事件としてあがるものは氷山の一角。でも、神様は、隅々までみておられる。そういう人の内神様は暑い雲で隠れているとは思うけれど、やはり見てると思います。外神様も必ず見ていると思います。


遍く空氣があり、それが無ければ生きられないように。遍く神様は存在していると思います。騙されて傷ついた御方や家族の心の傷が癒やされますように。


人を騙して平気でいる、捕まらなければいい、自分の欲心のために人が何年もかかって築いたものを奪う。分離の姿。分かち合いを望む神様から遠く離れたことをして、ただで済まされる筈はないと思いました。


昼は太陽、夜は月が光り、大地に立ち、天と地の間に人は生きていられる。神様は常にいて、ずっと見ている。これを私は強く信じています。


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