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大善人へ身魂磨き

父の目に映った戦争の記憶

私の母は戦争を知りません。田舎でしたが不自由を感じない生活だったようです。年をとって生まれた子であり、幼少期に大病を患ったことから大切に育てられたと言います。


父は、満洲から引き上げ、敗戦の雑踏の中迷子になり、孤児になりかけた話をしてくれた事があります。戦後、食べ物が無い時代の記憶は強くあるようで、お腹一杯食べたいって小さい頃は思ったと言います。


夫の父は、私の母よりひとまわり上なので、年頃に戦争を経験し記憶も鮮明に残っているようです。以前、子供心に空を飛ぶ軍の飛行機があれは空襲する飛行機、あれは違うと見分けられたと言っていました。防空壕に隠れた話しなんかもしてくれたことがありました。


あの当時は、赤紙がきたら万歳と言って愛する家族を戦地に送らなければならなかった話しは有名な話しです。硫黄島からの手紙や、当時の映画を観るとわかります。火垂るの墓は、日本の誇るアニメ映画として多くの子供達にずっと見てほしいです。


義父は、大分県の田舎で親戚のお兄さんに赤紙が届いた時のことを話してくれました。本来なら、万歳と言わなければならないのに、重くるしい空気が流れ、お兄さんの母(義父の親戚のおばさん)は息子に駆け寄り、死ぬな。生きて帰って来るんだ。必ず生きて帰って来るんだ。と言ったようです。


当時、誰かに聞かれ通報されたら非国民です。幼い義父は、その話をただ淡々と事実だけ語ってくれました。


赤紙が来て、出兵する我が子に両手をあげて万歳しなければいけなかった時代。しかし、心から本当に喜んで戦地に愛する息子を送り出したい母がいたとは思えません。


言わなければならない言葉の裏に、皆が口に出来なかった重いを、多くの先人は持って、異国の地で愛する人、祖国を思い散っていったと思います。


義父の親戚のお兄さんは帰って来ることはありませんでした。


暑くなり、蝉の鳴き声が聞こえる8月終戦日近くあたりには、毎年この話を思い出します。


同じ事が繰り返されませんように。


平和に生きることが出来ますように。


過去の過ちに向き合い、今を生きる人が考え、自分の心にしっかりと刻むことは大切だと思います。



合掌。

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