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大善人へ身魂磨き

おもいやり

悪に抗うのではなく、善で克服せよ

という言葉を聞いたことがあります


生きる中で実践するのは難しいですね

そもそも悪の定義は

人によっても違います


罪を憎んで人を憎まず

というくらいですから

本来悪「人」は居無いのかもしれない


人ではなく「罪」を悪とすると


悪を善で克服する

言葉にするのは簡単ですが

聖人君主くらいかな、出来るのは

非常に難しいです


悪をやっつけ排除するのは

重い槍を在らん限りの力で持ち上げて

悪に刺して痛めつけ

行為かもしれないですね


刺す行為は善も悪も

共に深く傷けてしまう


思いやりは槍を使わずに

悪の中にもある

ハートから痛みの原因となる

矢を離して溶かして上げる行為

オモイ矢離


重い矢(槍)となって

ハートを突き刺した

批判も非難も審判も屈辱さえも

ひとつひとつ捨て取り去ろうと

もがきながらも助けようとするのが

重い(思い)矢離


善いこころを取り戻すように

罪に至る過程の思いを

深く深く探り馳せる


そして

悪の中に善のかけらをみつけたなら

悪に抗うのではなく善で悪を克服する


善を信じて

悪の胸に刺さった

痛い矢を抜いて砕いて上げる


いずれ、

自分で自分の矢を抜くことが

できるようになったら


闇は光に

悪は一目散に霧散するのかもしれません


自分がされたくないこと

言われたくないことは

人にしない

言わない

痛みの傷を癒そうと模索する


悪に抗うのではなく、善で克服せよ


この難題への答えひとつは

静かな「おもいやり」の継続

かもしれませんね







コメント一覧

あき
びこさん

こんにちは。リンクはいつでもお気軽にしていただいて大丈夫です。こちらこそ、いつもありがとうございます。

昔は、犯罪者=悪だと考えていました。なぜ、イエス様は罪を憎んで人を憎まずと言われたのかがわかりませんでした。

歳のせいでしょうか、ものは豊かでも複雑な社会の中で、生きづらい人の心や、ネットなんかの匿名陰湿イジメ、それに加え疾病などが起因して闇が形に変わったら悪や、犯罪に繋がるのではないかとも今は考えるようになりました。

皆が優しい社会の実現は、そういう悪すら減らしていくのではないかと思います。

コメントありがとうございました!
あき
鬼雷さん

変なコメントなんてとんでもないです。
有難いお話をいつも有り難う御座います。

妄念が頭の中で巨大化して正義となった時にヒトは罪(悪)を犯すのですね。妄念は怖いですね。

鬼神は、閻魔大王のように公平に正邪を見極め、情に絆されることもないのでしょうね。仮に人の姿で顕すとすると、聖人なんだろうなと思います。

鬼雷さんに鬼がついているのも納得です。雷も落ちると土壌の性質を電気分解し良く変えるのですよね。

コメント有り難うございました!
びこ
ほんとにその通りですね。どんな凶悪犯でも、その人の事情を知れば、そうならざるを得ない事情があります。そこまで知れば、悪い人は此の世にいないということにもなりますね。この記事もリンクさせていただきたいです。
鬼雷
邪悪、悪鬼の立場からすれば、我こそが正義であります。
元々天地に濁は有っても悪はありませんでした。

悪とは人が造った観念であり、相対する世界ならではの妄念でもあると考えます。

そして、人の悪意は止まる所を知りません。

悪意は人間心では対処出来ず、対立や禍根を残します。しかし、吾が内なる神はそれを汲みます。

故に、私は全ての悪意を喰らう鬼神となりたいです。変なコメントで申し訳ありません。
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