キミは彼らの物語に飛び入り参加している. この映画を見終わると、このセリフが「神さま. この物語だけは見ないでほしい」という宣伝文句をより心に響かせるものにしているように思えました. 予告編からコミカルな作品だろうと、個人的にはあまり注目していなかった作品だったのですが、これは原作者の伊坂幸太郎先生も褒められているように、本当に素晴らしい映画だと思います. 引越し直後、隣人から広辞苑を奪うための本屋襲撃に誘われるという前半からは全く予想もできなかった後半の切ないお話. 濱田岳さんの頼りなさがコミカルな前半は情報量も多く、また河崎が自分の名前なのに「じゃ、河童の河の字の方だな」と他人事のように話したり、また河崎も麗子も椎名に互いのことを信じるなと言ったりなど、疑問点も多いこと. しかもそこにブータン人のドルジや河崎の元彼女の琴美も回想シーンで登場したりなど、点々バラバラの情報がいくつか繋がって数本の線にはなるものの、全てが納得できるような一本の線にはならないことに、これでどんなオチにするんやろ? と不思議でした. ところがブータン人のはずだった隣人が山形出身と分かり、河崎だった男が真実を語り出すくだりから、数本の線が一本の線へと繋がっていき、また麗子の「キミは彼らの物語に飛び入り参加している」という言葉の意味も痛いほど理解できてしまう後半が切ないこと. 考えてみれば我々観客だって、この作品からすれば「彼らの物語に飛び入り参加している」存在. 河崎だった男が隣の隣の住人はブータン人だといえば、それを無条件に信じてしまいます. 学友が生まれながらの走り屋だといえば、車も免許も持っているものと信じてしまいます. でもこの作品は何一つ嘘を言っていないんですよね. 単に「彼らの物語に飛び入り参加している」椎名や我々が勝手に解釈してしまっているだけで、作品としてはそこに真実を明かす面白さを詰め込んでいる構成が実に巧いこと. どの情報を勝手に解釈していたかが分かるたびに、物語が一本の線になっていく様は本当に見事でしたよ. またこのタイトルもいいですよね~. なるほど~ドルジと琴美と河崎がアヒルと鴨で、ほなコインロッカーは? と思っていたら、飛び入り参加していたはずの椎名も彼らの物語にしっかりと参加していたことを示す、コインロッカーにボブ・ディランを閉じ込めるあのラスト. 切なさの先に少しだけ心に温かさを感じるものでしたよ. それにしてもこの映画を見て改めて思ったのが、松田龍平さんの見事な存在感. 彼が俳優デビューした頃はそんなに目立つこともなく、偉大すぎる父親の名前に潰されてしまうのではと心配していたこともありました. でも最近の彼はどの映画を見ても俳優として凄く格好いいこと. やはり味のある俳優さんが出演してくれるだけで、映画も味のあるものになるんですね~. 深夜らじお@の映画館 も牛タン弁当を食べたいです. 子供が笑顔でいる同じ時間、父親は戦地で地獄を見る. 弟が人生に立ち直りかける同じ時間、兄は戦地で世界の果てを見る. オリジナルであるデンマーク映画『ある愛の風景』は未見ですが、やはりジム・シェリダン監督が描く作品は静かに心に響いてくる秀作. 私生活でもお互いの自宅で演技練習をするほど仲のいいトビー・マグアイア、ナタリー・ポートマン、ジェイク・ギレンホールの表情がいかにもどこにでもある風景に感じる映画でしたよ. ジム・シェリダン監督を語る上で絶対に外せないキーワード、北アイルランド紛争. これまで『父の祈りを』や 『ボクサー』 のようにストレートに描いたり、『イン・アメリカ/三つの小さな願いごと』やこの作品のように間接的に描いたりしてきたこの監督ですが、そのメッセージは常に「まだ北アイルランド紛争は終わっていない」ということだと思うんですよね. とは言ってもこの映画が描いているのはアフガニスタンに出征する兵士とその家族のお話です. でもどんな戦争であれ紛争であれ、戦地に赴く兵士がいれば、そこに残される家族もいます. そして戦地に赴いた兵士が戦死すれば家族には悲しみが残り、戦地に赴いた兵士が帰還すれば家族には苦しみが残る. 無事に戻ってきたからよかったよかったでは済まないのが現実. 恐らくジム・シェリダン監督が言いたいことはこれではないかと思うんですよね. そんなメッセージをこの監督はグレースを基点に兄サムと弟トミーを鏡写しにするかのように対比させることで描き出しているのが秀逸で、特に出所したばかりのトミーが激怒したサムが出征する前夜の食卓と、サムが激怒した彼の帰還を祝う食卓を対比させたのは非常に分かりやすく、そして巧い演出. しかもそれを可愛くて人気者の妹に対してコンプレックスを持っているイザベルの涙を使って、さらに印象深く見せるのも素晴らしいこと. 恐らく北アイルランドでもサムのように優しかった父親、家族思いだった夫が戦地で地獄を見て、人間が変わったかのように無事に帰還した例はいくつもあったのでしょう. そしてそんな一人の父親、一人の夫に直面した家族がどれだけ苦しみ、紛争の爪跡を戦地に赴いたことのない人たちの心にまで残しているかを監督もたくさん見聞きしてきたことでしょう. でも現実ではそういったことは体験者以外はほとんど知らないこと. 兵士が銃を置けばそこで戦争は終わるのではなく、兵士とその家族が心の安らぎを得てこそ本当の意味での戦争の終結. それをこの監督はかつての北アイルランドの人たちと同じ状況になりつつある現代のアメリカ人たちに訴えるために、この映画を撮ったのではないかと思うんですよね. キッチンはリフォームすれば新しくきれいなキッチンになる. でも人生はリフォームなんてできない. 家族の元に戻るため仲間を殺したという事実だけは白いペンキで塗り潰すこともできない. サムがトミーにグレースと寝たのか? と執拗に問いかけたのも、サムにとって妻や娘たちだけが頼りであることの裏返し. 姪たちや義姉グレースの笑顔で人生を立ち直らせた弟トミーがあの食事会に女性を誘ったのも、無意識のうちに姪たちやグレースとの距離を置き、兄サムに誰もこの家族を引き裂く者がいないことを諭すための行動だったのではないでしょうか. サッカー通販 ラストでサムがグレースに戦地での真実を話すくだりも、この家族の戦争終結への道はここから始まる. 長く険しい道かも知れないけど、ここから全てが始まる. そんな優しいメッセージを感じました. 深夜らじお@の映画館 はまたジム・シェリダンとダニエル・デイ・ルイスのタッグ作品が見てみたいです. これはパク・チャヌク監督が作り上げた全く以って新しい吸血鬼映画. そして全く以って新しい恋愛映画. それゆえに「パク・チャヌク監督」という要素に期待せずに見に行くと、全く以って理解できないかも知れない、そんな映画でした. 本当にこのパク・チャヌク監督はどこに向かっているか分からないですが、凄い監督さんだと思います. この映画で特筆すべきなのは、個人的にアジアNo.1俳優だと信じているソン・ガンホではなく、そのソン・ガンホさえ霞むほどにインパクトを残してくれるキム・オクビンという女優さん. そしてパク・チャヌク監督の恐るべき演出とカメラアングル. もうこの2つの要素に「復讐3部作」ファンとしては体が痺れそうでした. まず束ねた髪を解いた姿でさえエロさを存分に感じさせてくれるキム・オクビンの色気. 見た目がエロいとかそんなレベルではなく、いわゆる「床上手」と言われる女性が持つ妖艶さというのでしょうか. とにかく男性ならこういう女性に少しでもハマれば最後. 二度と彼女の魔の魅力からは逃れられないようなものを持っているんですよね. ですからサンヒョン神父が誤って命を奪ってしまったテジュに吸血鬼である自分の血を飲ませるくだりも妙に納得してしまうんです. そりゃ傍から見れば「そんな女とは早く別れ! 」と思うかも知れませんし、こういう性格の女性に甘い顔をすれば、後々自分に火の粉が降りかかるのも容易に読めるはず. それでも彼女を失いたくないと思わせるものは何か. それが「床上手」な女性が持つ魔の魅力ではないでしょうか. そしてそんな彼女の魅力とまるで自分の当初の目的さえも見失ったかのようなサンヒョン神父をいろんなカメラアングルと、通常の監督の神経ではできない恐ろしいセンスで見せるパク・チャヌク監督の演出が凄まじいです. 例えばカメラアングルでいえば、神父がテジュに病室で意識のない患者の血を吸いながら自分は吸血鬼だと明かしてテジュに逃げられるくだりや、テジュが神父にお姫様だっこされながらビルの屋上で空高く飛び上がるくだり. 前者では病室の中にいる神父の表情を廊下からズームアップして見せ、後者では神父から見たテジュの表情だけで見せるという手法が取られているのですが、普通は前者ならカメラは神父の真正面からアップで、後者ならちょっと退いた角度から見せるものなのに、この映画では真逆のカメラアングルになっているんですよね. また演出でいえば、壁や床を真っ白に塗り替えたあの部屋の異様さは純白や医療などをイメージさせる白を、むしろ逆のここでたくさんの命が消えていくことような心理的恐怖を暗示しているかのよう. その他にもウォーターベッドの上で愛し合うテジュとサンヒョン神父の間に湖で殺されたはずのガンウがびしょ濡れで挟まっている映像を見るだけで、まるでウォーターベッドの水が腐っているかのようで、しかもそれがどこかノイローゼで悩まされるテジュの心理状況とリンクしてくるんですよね. 本当にこの尋常でないパク・チャヌク監督のセンス. 絶対ヤクでもキメとるんちゃうか? と思えるほどでしたよ. そして日の出を迎えるまでのテジュとサンヒョンのやりとりを長々と見せてくれたあのラストは、「渇き」を満たすためにひたすら足掻くテジュと「渇き」を満たすため足掻いてきたことに疲れ果てたサンヒョンを対照的に描くことで、愛欲や性欲などの欲望に取り付かれた人間の成れの果てを描いているかのようでした. 「渇き」に置き換えられた人間の様々な欲望. その「渇き」が乱す人間の汚き心. 様々な「渇き」を満たすために欲しながら、その「渇き」を助長する太陽の光で焼け焦げるテジュとサンヒョンで映画を締めくくる皮肉さも、さすがパク・チャヌク監督. 改めて「鬼才」という評価が似合う監督だと思いました. 深夜らじお@の映画館 もあんな人妻さんと「渇き」を求めてみたいです.