酒と畑に戯れるオヤジな私

酒を飲み、土を耕し、人と語り、日々に感動しながら楽しく生きるブログ

意外! 大谷吉継

2010年04月01日 | コミュニケーション
戦国時代の武将で レキジョたちにも人気の高い大谷吉継です

越前敦賀五万石の大名として 石田三成に請われて関ケ原に出陣 戦場で戦死した唯一の武将です


先日 愛知県の友人Kさんから手紙をいただきました

近況のお知らせとともに「資料」が入っていました   冊子「歴史研究」のコピーでした

機関紙への寄稿者は 全国歴史研究会本部会員の大谷幹伸氏です


”大谷刑部吉隆と その孫刑部吉刻の石碑が 埼玉県東松山の無量寺にあります

しかし それは忘れさられています”

これは驚きでした  大谷吉継が関東 それも埼玉県と所縁があったとは!

それも畑の近くです!  早速行ってきましたよ


寄稿文の内容の概略です

大谷吉隆(吉継)は 天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原の北条氏攻略の一環として 武州松山城攻めをしたとき「無量寺」に程近い「八幡神社」に布陣したとされています



大谷吉継が 松山城攻略時に布陣した「八幡神社」です



420年前 この神社で 吉継はなにを思っていたのでしょうか

10年後の関ケ原合戦 自分の運命を想像していたでしょうか


そして こちらは神社に近い「無量寺」です



南無阿弥陀仏・・・大きな石碑が建っていますね



石碑の裏面を近くで見ると・・・



”大谷吉隆(吉継)の姓は平で 従五位下に叙せられ形部少輔と称し 大谷平次郎盛冶の子である”

これで 秘かに抱いていた夢 「吉継は秀吉の隠し子 ご落胤」の夢が消えました


”豊(秀吉)太閤に仕え 越前州敦賀城主となり五奉行に列せられた

 慶長五年九月十五日に美濃州関ケ原で戦死”


その吉継の石碑がなぜ現在の東松山に・・・?

これも 石碑に記されていました

”吉継の孫 吉刻が武蔵州比企郡野本(埼玉県東松山市上野本)に来て没した

 文政三年(1821) 祖先を祝うために碑を建立した”


関ケ原から221年経過したとはいえ 世は徳川幕府の時代です

徳川の敵 西軍の武将の石碑です 幕府はよくぞ建立を許可したものです

敵の武将とはいえ 吉継の律儀さ 男気が当時から評価されていたのでしょうか


ともあれ 吉継の石碑が意外なところにありました

これも 年に一度お会いしている愛知県のKさんとの交流のおかげです

歴史には まだまだ意外な事実が隠されているんでしょうね~


そして 突然ですが・・・



八幡神社・無量寺を掘ったわけではありません

見学のあと 畑でナス用の畝を掘り始めました  例の「塹壕」です

この日は 朝六時に出発しました

大谷吉継の石碑を堪能し 畑仕事は九時には開始!  気分よく畝作りに励みました

Kさんに感謝!