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細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

学生による論文(46)「偉人と凡人、本質と表面」 菊地 志野 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-10 10:01:13 | 教育のこと

「偉人と凡人、本質と表面」 菊地 志野

「目先の利益にこだわるな」と口で言うのは簡単だ。しかし、私を含め多くの人々はそれを知っていたとしても手の届く得にひきつけられてしまう。

 目先のものを本質的でない表面的なものであるとする。人は様々な欲求を抱えて生きているが、今回は承認欲求について語りたい。承認欲求とは一般に、他人から認められたいという欲求や自分が周囲から一目置かれるような存在でありたいという願望の総称である。正木大貴氏の「承認欲求についての心理学的考察 ─現代の若者とSNSとの関連から─」の冒頭では10代の中高生の会話でも承認欲求という言葉が使われるようになったことは「承認」が現代的なある種のブームになっていることを示していると述べられている。SNSを通じながら日々評価を求める多くの若者が、承認欲求が満たされていないと感じるのは普段受ける承認が表面的であり、自分の本質がどうも評価されていないからではないだろうか。あるいは、常にそれを越える承認を欲しがり続けるのは、表面的な承認に自分の求めるものが存在していないという本質に気づいていないのではないかなどと考えたりする。しかし、求め続ける欲求の強い人々こそ目先の評価に縋りたがる。当たり前かもしれないが。

 なぜ多くの人々が満たされないのか。それは社会構造に問題があるのだろう。メディアで見るいわゆる大人たちは表面的なことばかりを喋る。個性を育めと言いながら同じ行動を求められる。道徳の授業できれいな言葉を聞かされる。攻略法ばかりがはびこる。自らの思考なく表面的な正解を教え込まれる機会が多すぎてその場にいるだけでは一向に認められている気がしない。(全く関係ないが、道徳の授業で「あなたが考えたこと」を正直に綴ったら×が付いた中学生時代と、きれいごとを並べて私が書いたクラスメイトの作文が高評価で正直に思いを綴った私の作文が低評価だった小学生時代の担任は今でも好きになれない。高校時代は素敵な作文だったけど学年だよりには載せられないねと笑顔で言われたが、何となく心地が良かった。確信をもって過激なことを書くとこうなる。)日々の生活の中で確実に、あるいは何となくであっても満たされている人というのは、そのためだけに労力を割いて手に入れようとはしない。表面的でない、本質に近いかたちで行動し、多くの場合それが薄っぺらではない状態で評価を受ける。社会全体はもっと不正解も認めてほしいものだ。「人は見た目より中身」といったりもするが、私は容姿と性格の比較ではなく表面と本質の比較であると解釈をしている。

 本当に認められたい他者というのは尊敬する相手であると思う。ただ、その尊敬のベクトルが各々異なるから様々なカリスマが存在するのだろう。有象無象がひしめく中で偉人と呼ばれる人々は、表面に負けず物事の本質を理解し自己のみで消化することがなかったうえで、他者からの評価を求めなかったのではないだろうか。いま、日本に必要なのは欲求に負けることなく本質を貫き通す力である。

 


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