さて、安良岡説によれば、次の第三十三段との間には十一年間の歳月が横たわっているというのだ。
『徒然草』全体の底を流れているものは、やはり「無常観」ということになるだろうか。初期の文章は、どちらかといえば情緒的にそれを受けとめ、それがゆえに一層美しい文章を創り出しているといえるのかもしれない。
しかし、兼好法師にあっても、「いきしに生死」の問題をより深く掘り下げてゆくためには、己の実人生を懸命に生き、歳の功を重ねていかなければならなかったにちがいない。十余年間の空白を破って再び筆を執ったとき、この文業に賭ける彼の決意は不動のものとなったのではなかったか。
三十三段は、趣向をガラッと変えて、内裏造営にまつわる話。清涼殿の鬼の間おと殿上の間との仕切り壁に設けられた覗き窓に切り込みの部分があって、木で縁がしてあったのをほんとうは丸いだけで縁もないはずだと改めさせたというのだ。
いわゆる「有職故実」に関わる話は、この後全編にわたって八十余り。二十一世紀に生きる私という読者からすれば、正直どうでもいいことであり、それよりなによりチンプンカンプンのことだらけ。スキップ読みしたくなるわけだが、兼好さん本人は大まじめ。どんな些細なことだろうが、良いものは良い、悪いものは悪いと鑑定を怠ることはない。細部にこだわる彼の執念には圧倒されてしまう。
ある意味では、彼は復古主義者・伝統主義者のようである。永い年月を重ねることで初めて見えてくる物事の真贋の相。今風の流行にふり回される軽薄な輩に騙されてはならない。もしかすると、当時の京の都にあって、隋一の「目利き」としてのプライドがこういう事象をねばり強く記録しつづけさせたのかもしれない。
これはたとえ難解でも手抜きして読み飛ばすわけにはいかない。
私たちの読書会にはルールらしいルールはないが、不文律のように「簡単にわかってしまってはいけない。」という戒めがある。まさにこの種の文章に対する読者の姿勢として、さまざまな疑問や謎をまだまだ追究しつづけなければならないという課題は残されていくにちがいない。
ともあれ、兼好法師の真贋を峻別せんとする「目利き」の鋭い眼光は、もちろん、「人間存在」そのものにも向けられていく。
『徒然草』全体の底を流れているものは、やはり「無常観」ということになるだろうか。初期の文章は、どちらかといえば情緒的にそれを受けとめ、それがゆえに一層美しい文章を創り出しているといえるのかもしれない。
しかし、兼好法師にあっても、「いきしに生死」の問題をより深く掘り下げてゆくためには、己の実人生を懸命に生き、歳の功を重ねていかなければならなかったにちがいない。十余年間の空白を破って再び筆を執ったとき、この文業に賭ける彼の決意は不動のものとなったのではなかったか。
三十三段は、趣向をガラッと変えて、内裏造営にまつわる話。清涼殿の鬼の間おと殿上の間との仕切り壁に設けられた覗き窓に切り込みの部分があって、木で縁がしてあったのをほんとうは丸いだけで縁もないはずだと改めさせたというのだ。
いわゆる「有職故実」に関わる話は、この後全編にわたって八十余り。二十一世紀に生きる私という読者からすれば、正直どうでもいいことであり、それよりなによりチンプンカンプンのことだらけ。スキップ読みしたくなるわけだが、兼好さん本人は大まじめ。どんな些細なことだろうが、良いものは良い、悪いものは悪いと鑑定を怠ることはない。細部にこだわる彼の執念には圧倒されてしまう。
ある意味では、彼は復古主義者・伝統主義者のようである。永い年月を重ねることで初めて見えてくる物事の真贋の相。今風の流行にふり回される軽薄な輩に騙されてはならない。もしかすると、当時の京の都にあって、隋一の「目利き」としてのプライドがこういう事象をねばり強く記録しつづけさせたのかもしれない。
これはたとえ難解でも手抜きして読み飛ばすわけにはいかない。
私たちの読書会にはルールらしいルールはないが、不文律のように「簡単にわかってしまってはいけない。」という戒めがある。まさにこの種の文章に対する読者の姿勢として、さまざまな疑問や謎をまだまだ追究しつづけなければならないという課題は残されていくにちがいない。
ともあれ、兼好法師の真贋を峻別せんとする「目利き」の鋭い眼光は、もちろん、「人間存在」そのものにも向けられていく。