創世記24章16節である。「際立て美しく、男を知らない処女であった。彼女が泉に下りて行き、水がめに水を満たして上がって来ると、」とある。前節で、「リベカが~やってきた」とあったが、そのとき、僕本人はその美しい娘の名前「リベカ」
の名を知っているはずがない。編集段階での挿入であった。僕自身は旅の人の一人としての素知らぬ顔をして、水汲みの前後心の変化を考えながら丹念に観察していたのであった。
「際立て美しく」とある。彼は気心の美しさを求めていた。従って「際立て美しく」のその美しさにかえって警戒心を寄せていたのかもしれない。その意味で「水を満たして上がって来ると、」どうなのか。その苦しみによる美しさの変化が参考に
なりそうである。
17節である。「僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた。『水がめの水を少し飲ませてください。』」という。いよいよそのときが来た。待ちに待ったそのときである。「僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた」と。相手にびっくりさ
せないように、優しく話しかけたのであろうか。その口から出てきた言葉はなんども心の中で反芻していた言葉のようである。いかにも咽が渇いて旅人のようにであろう。
彼女が泉に来るときから水がめを肩に載せてやって来た(15節)のであるから、水がめに水を満たして上がって来るときは、重いのを肩に担いで上がって来たのであろう。それを飲ませてほしいと頼むのであるから、頼む方としては、よほど
丁重な頼み方でないとその要求を叶えられなかったかもしれない。霊的な意味で一つの戦いの瞬間である。いま、神のときの一瞬である。言葉以上のことに心を向けられたい。