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授業でいえない日本史 12話 中世 鎌倉仏教~鎌倉幕府の滅亡

2020-08-07 06:00:00 | 日本史2 中世
【鎌倉仏教】
今、鎌倉時代です。幕府のことを言って、次に社会経済のことを言って、今度は、仏教、宗教、文化です。


仏教はもともと日本の宗教じゃない。外来の宗教です。でも中国の宗教ではない。お釈迦様は何人ですか。インド人ですね。それが日本に伝わってきたときは、ハイカラ宗教で、特権階級の宗教だった。それがいつ、我々のような庶民の宗教になっていったか。じわじわ上から下に降りてきてはいたんだけれども、この時代までは日本人はほとんど仏教徒じゃないんです。貴族しか仏教を知らない。それが広まるのは、この鎌倉時代です。
なぜ広まっていくか。平安時代の末から末法思想というのが出てきた。これは近代の進歩の思想の逆です。世の中だんだん良くなるというのは進歩の思想ですが、その逆、世の中はだんだん悪くなるという考え方です。歴史上では、近代思想のように、世の中が単純に良くなると考えることのほうが、むしろ珍しいですね。今年よりも十年後のほうがもっと進んでいるという信仰を抱いているほうが少ないです。
この末法思想が流行っていた。それは貴族の世が崩壊して、荒々しい武士の時代になっていく社会変化も手伝って、社会不安が増大していくわけです。
世の中で不安が大きくなると宗教が流行るというのは、これは古今東西、どの国にも見られることです。そういう国のなかに、人々を救っていこうという有能な宗教家が出てくることがあります。日本にも出てくるんです。


【開祖】 この鎌倉時代の百数十年、決して江戸時代に比べれば長くない時代に、そういう宗教の開祖が6人も出てくる。前期、中期、後期でそれぞれ2人ずつ。
前期はちょうど戦争があっている最中です。源平合戦です。まず法然です。次が栄西です。
また何十年かたって中期になると、次の不安のピークが出て来る。これが天皇と将軍が戦ったという承久の乱のころです。そのころ出て来るのが、親鸞です。有名な人ですね。この人だけ、ちょっと言っとこう。仏教にはいろんな宗派がある。檀家数が一番多いのは何宗ですか。浄土真宗です。その浄土真宗を開いた人、これが親鸞です。もう一人が道元です。
それから後期になると、これは元寇の頃です。モンゴルが攻めてくる。このころ現れるのが日蓮です。それと一遍です。
こういう6人がもともと若い頃、学んでいた宗派は何かというと、これは奇妙に一致する。京都の裏山である比叡山、その山の上に本山を構えた宗派、天台宗です。


【易行】 ここで彼らの疑問は何であったか。救われるためには、毎年毎年100万、200万をお寺に寄付しなければならない。または、自分でお寺を建てなければならない。でも、それができるのは金持ちだけです。普通の人間は、100万も200万もお金をもたない。庶民にはそういうことできない。では救われなくていいのか。貴族だけ救われて、庶民はのたれ死にしていいのか。それはおかしいんじゃないか、と。
彼らが疑問を持ったのは、共通して庶民の救済のことです。町人、百姓の救済です。貴族ではない人々の救済です。
それまでは仏教で、仏に救われるためには、仏の教えを何百冊も読まないといけなかった。お経を呼んで、教えを理解して、頭で考えてなければならない。でも、そんなこと要らない、もっと簡単にできる、と彼らは考えた。これが易行(いぎょう)ですね。易しい行いのことです。誰にでも実行できるようなものです。この結論を言います。人は何で救われるか。一言唱えるだけでよい。これが、南無阿弥陀仏です。これだけで救われる。これが念仏です。こういうことを、まず法然がいう。次の親鸞になると、言わなくてすらいい。心で唱えるだけでいい。そこまで徹底してくる。
それからもう一つは、選択(せんちゃく)という。現代では選択(せんたく)と読むけど、仏教用語では選択(せんちゃく)です。意味は選択と同じです。国語も、社会も、数学も、みんなしないと救われないのが、今までの仏教だったんです。でも選択授業があると、日本史だけ選択しておけば救われる。一教科でいいわけです。
この二つ、易行と選択です。簡単に、南無阿弥陀仏だけでいい。それから一冊でいい。1番流布しているのは般若心経ですね。仏教のお経が、何万冊もあるなかで。
そこらへんが、平安時代の造寺造仏といって、お寺をつくって仏を奉納しないと救われない、とは違うし、兼学といって、何でも国語、社会、数学、ぜんぶしないと救われない、これでもない。
それぞれ何という宗派を開いたか。これは現在の宗派として続いています。


【法然】 最初、法然浄土宗を開いた。この考え方は、自分で開くぞ、といって開くのではないんすよ。この人はただ自分の考えを言っただけです。しかしそれが面白いと、テレビ番組で人気が上がって、視聴率が上がるように、みんなが、教えてください、話を聞かせてください、と来るんです。そして信者になる。そのうちに、自分は普通のことを言ってるつもりなんだけれども、聞いた人たちが、これは今までと何か違う。これは今までの教えと違う、と言って、これは別の教えだということになって、独立した宗派になる。普通はそうなんです。自分から、オレが開祖だ、というのはちょっとあぶないですね。これが浄土宗てす。京都の知恩院というというお寺が本拠地になる。


【親鸞】 その弟子が親鸞です。彼は浄土真宗を開きます。いま日本では最大の檀家数を持ちます。俗に浄土真宗は浄土をカットしてたんに真宗ということも多い。この本拠となったお寺は本願寺です。今はまたこれが2つに分裂して、京都に道をはさんで隣同士で、西本願寺と東本願寺に分かれていまが、これはのちのことです。
親鸞がここで説いた有名な教えが悪人正機説です。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉で始まるけれども、現代語訳すると、善人でさえ救われるのだから、悪人が救われないわけがないじゃないか、という意味です。
普通とは逆です。善人が救われるけれども、悪人は救われない、と考えるのが普通ですけれども、親鸞はそうじゃない。善人でさえ救われるんだから、悪人が救われないわけはない、という。仏が一番救いたいのは、オレはダメだと、うちひしがれているような人たちを真っ先に救うんだ、と言う。オレは貴族だ、絶対天国に行けるんだ、そういう人こそ救われないんだ、と親鸞はいうのです。これを悪人正機説といいます。

日本の仏教は北伝仏教または大乗仏教といって、伝わった初めからそういう教えがあります。自分の心の悟りを求めて始まった仏教ですが、自分だけ救われて何になるんだ、自分が救われるんだったら他の人も救われなければ意味がない、という教えが、インドから北に伝わって、中国、朝鮮、日本と伝来するわけです。親鸞はそのことをつきつめた人です。


【一遍】 それから次は一遍。これは時宗といって、現在では少ないですね。踊り念仏という。踊りを取り入れた宗教です。イスラーム教にも踊りはあります。スーフィズムといって。踊りながら恍惚の宗教的体験をしていく。この踊り念仏は昔の御霊信仰と合体して、盆踊りのルーツの1つになります。
盆踊りのルーツにはこういった宗教的踊りがある。現代でも宗派によって、お葬式のときに、今はもう高齢のお婆さんたちの踊りになっていますけど、5~6人ばかりで踊って葬式を弔うという風習のところもありますね。私も何回か見たことがあります。


【栄西】 それから、栄西、この人はエリートなんです。ということは、さっき言った3人は非エリートです。もとエリートですけど大学中退組です。比叡山の延暦寺というと今の東京大学みたいなものですけれども、そこに入って勉強しているうちに、これはつまらん、こんなことを勉強するためにオレはここにきたんじゃない。オレは、山を降りて、町の中で教えを説くんだ、と言った人たちです。
しかしこの栄西はエリートです。中国に留学して新しい中国の仏教を持ち帰ってくる。これが禅宗です。この近くにも禅宗のお寺はあります。
禅宗のルーツ、これがダルマさんです。ダルマがインドから禅宗を中国に運んだ。それを栄西が日本に伝える。これを臨済宗といいます。
私はある研修会で、臨済宗の寺院に泊まったことがあるけど、これは、つべこべ言うな、黙って座れ、目を閉じろ、という感じです。理屈じゃない。ただ分かるまで座れ、という感じです。坐禅です。考案という謎かけ問答もあるけれども、有名なのはこの座禅です。
何時間も座禅していると、肩から背中にかけて、まるで針金の筋でも入ったように固くなってそのうち痛くて痛くてたまらなくなる。そこで、雲水さんという棒をもったお坊さんから、バシッと背中を叩かれたら、ものすごく気持ちいいんです。あれは気持ちいいんですよ。黙って座れ、動くなといわれるのが一番辛いんです。少しでも動かして、頭を下げるだけでも、気持ちいいんです。その上で、あの棒みたいなもので、ばしーっと叩かれると、もう恍惚の境地です。もっともっといつまでも叩いてください、という感じです。こういう倒錯と恍惚の境地に入る。だから素人が、なめてかかってこれをやると精神を病む場合もあるとか。非常に厳しいものです。これが座禅です。


【道元】 道元になると、もっと徹底して、只管打坐(しかんたざ)という座るだけ。本当はこれです。黙って、ただただ座る。そして打たれる。ただ座って、打たれて、座る。これは曹洞宗です。
確かに坐禅は厳しいものですが、貴族だけしかできない造寺造仏に比べたら、坐ることは誰でもできます。誰にでもできること、これが易行です。


【日蓮】 最後に、元寇の頃に出てきたのが、日蓮です。これをそのまま名前をとって、日蓮宗という。これも基本は、口で唱えるだけでいい。ただ唱える文言が違います。
念仏は、南無阿弥陀仏です。日蓮宗は、南無妙法蓮華経です。これは念仏ではなくて、題目といいます。
この日蓮宗がらみの政治団体が、これがいわゆる創価学会です。この創価学会を母体にしている政党が、公明党です。今の政権与党です。

南無というのは、これはインド語です。インド語を中国文字の漢字で表した。頼むとか、おすがりするとかいう意味です。その対象は、念仏は阿弥陀仏を信仰する。日蓮宗の題目は妙法蓮華経というお経を信仰する。そういう意味です。
南無阿弥陀仏は念仏、南無妙法蓮華経は題目、これが易行ですよ。誰でも易しくやれる。本気でいっぺん唱えれば、その瞬間にあなたは救われる、という教えです。

ここで共通するのは、庶民がどうすれば救われるか、です。つまりすべての人がどうすれば救われるか、そのことを考え続けたのです。そのための易行です。
日本では、自分だけが救われることに、大した意味はありません。広く社会を救ってこそ価値があるのです。
こののち300年後にキリスト教の宣教師たちが来たとき、お手上げだったのはこのことです。キリスト教では、異教徒はすべて地獄に落ちることになっています。日本人はこういったと言います。
「あなたのいうことは分かる。でも、そうなるとオレたちのご先祖様は全部地獄に落ちたことになる。ご先祖様を地獄に落として、自分だけ救われて、それが一体なんになるのか」と。
宣教師たちは何も答えられなかったといいます。
個人の救済を目的とするキリスト教と、日本人が求める救いとの溝は、思いのほか深いのです。救済とは自分を越えたところにあるのですから。それをいくら自分の中に探しても見つかりません。救いとは何かが、根っこから違うのです。

日本人にとって、祖先の御魂は生きています。今もお盆には、迎え提灯をして祖先の霊を迎え、お盆が終わると精霊流しをして送り出します。そのような日本人にとって、祖先の霊を地獄に落とすなど考えられないことなのです。
そんなことをすれば逆にどんな祟りがあるか分かりません。
鎌倉仏教が日本人に受け入れられた理由はここにあります。鎌倉仏教はこのような日本人の考え方を認めていきます。そこにはインドで発生した仏教とは大きな隔たりがあります。インドの仏教は、人が死ねば完全に無になることを目指します。しかし鎌倉仏教は霊魂がこの世に生きつづけることを良しとしました。鎌倉仏教の功績は実はここにあります。

日本では、社会の利益を私(わたくし)することは非常に嫌われます。それは政治に関しても共通することです。
社会全体の利益を考えること、国家全体の利益を考えること、このことと古代天皇制が目指した公地公民制は、どこか似かよっています。このことを越える理念が生まれてこなかったといってもいいでしょう。天皇の血筋が近づきがたいと考えられたことも、このこととどこかで関係しているように思います。


【伊勢神道】 元寇の二度の暴風雨が神風とされ、その後、天皇家の皇祖神をまつる伊勢神宮では、度会家行が伊勢神道を始めます。反本地垂迹説を唱えて、それまで仏を本地(本物)だとしていたものが、日本の神様こそが本地だとされます。このことも天皇を中心とする国家意識を高揚させます。
天皇を中心とする公的な考え方は、庶民全体の救済意識、あるいは国家全体の救済意識と、どこかで結びつきながら、日本人の意識の底流を支えるものとして流れ続けていくように感じます。天皇の権威は、こうやって維持されたようです。

「世のため、人のため」というのは、それが回りまわって、「自分のため」にもなるという考え方です。最初から「自分を出す」ことは、流行らないのです。「いやーね、あの人」という感じです。



【鎌倉文化】
【徒然草】
 ではこの時代の文化、鎌倉末期の代表的な随筆、随筆は英語でいうとエッセイです。
吉田兼好徒然草です。いわゆる世捨て人です。何でこれで、つれづれと読むのか、これを音読みすると「とぜん」です。
九州のある地域でほんの十数年前まで高校生に通じた方言に、「とぜんなか」というのがあった。「とぜんなか」というのは、この「つれづれ」の意味なんです。手持ち無沙汰で、日曜日に何もすることがないなあ、家には誰もいなくて、自分一人で家でボケッとしているときに、「とぜんなかー」という。
「とぜんなか」ときに手のすさびに書きましたと、謙遜して言うんですね。俺の言うことを聞け、すごいことを言ってやるから、とか、そう言う人に限って大したことは言わないものです。手のすさびに、暇だったから、ちょっと書きました、と。
でも、内容は素晴らしいです。サラサラと大事なことをさも大したことではないように書いている。私のように、力を込め力んで言ったりはしない。大事なことは、サッサッサッと言って、何も気づかなかったら、それでもいいです、気にしないから、というふうな感じで、サラサラッと世の中のポイントを書いている。「つれづれ」に書いただけですよ、と。いいですね、こんな書き方。
でも底流にあるのは、感情の抑制と、自分を捨てた諦観です。


なぜか知らないけど、日本語では自分で自分を大きく見せると、途端につまらない人間になってしまうんです。一人称の「私」にはあまり良い意味はないです。へりくだった言い方です。男の一人称「僕」も家僕の僕です。今はあまり使わないけど、「小生」という言い方もあります。武士のつかう「拙者」もへりくだった言い方です。すでにそういう敬語体系が日本にはあります。すでにどころか、平安時代の源氏物語には、すでに今と同じ敬語体系が発達しています。自己主張を嫌う言い方は、非常に古くから日本に定着しています。尊敬語、謙譲語、丁寧語と昔ならった気がしますが、日本語の敬語の基本は、相手が上だということです。
このようなことも、鎌倉仏教が目指した庶民の救済と、関係しているように思います。


【金剛力士像】 美術としては、東大寺、これは奈良時代の建築物なんだけれども、平氏が焼いた。これを再建したのが源氏です。その南大門も焼けたから再建した。だから南大門は鎌倉様式なんです。この様式を大仏様という。
このために尽力したお坊さんが、重源という人です。それを支援したのが源氏将軍家です。
平氏は南都に火をかけて焼いた。南都というのは、京都から見て南にある都、つまり奈良のことです。むかしの平城京のことです。
代表的な彫刻として、仁王像二つ、これが金剛力士像です。同じ名前のものが、多くお寺にあります。力士とは、相撲取りではないです。邪気を防いでいる。お寺に変な魔物が入ってこないように。だから力を込めている。だから、こんなカッコウをしている。はいらせないぞ、と言っているのです。これをつくった彫刻家、この時代は仏師といいますが、運慶快慶です。



【朝廷の内紛】
鎌倉時代、幕府も滅亡に近づきます。鎌倉時代には、天皇家がちゃんといる。ただその天皇家が内輪もめしだします。天皇家の荘園の財産争いが絡んで。天皇の血筋二つが対立していく。その二つの派閥の一つを大覚寺統、それからもう一つを持明院統という。天皇家同士が、次の天皇は、どっちから出すかでもめて、そのたびに喧嘩しないといけなくなる。


【文保の和談】 これを見ていたのが、天皇から見るとその家来である鎌倉将軍です。将軍は飾りですから、実権は北条氏です。北条政子の実家です。天皇さん方、親戚同士でみっともないじゃないですか。手を打ちなさいよと、斡旋する。1317年です。1300年代に入ります。年号をとって、これを文保の和談という。どういう提案かというと、次の天皇を誰にするかで、しょっちゅう揉めるんだったら、交代交代にしたらいいじゃないの、という。これを両統迭立といいます。


【後醍醐天皇】 1回交代で天皇になるということです。そうしましょう、ということにまとまって、次の年の1318年に天皇になったのが、後醍醐天皇です。この人は大覚寺統から立った天皇です。
後醍醐天皇は何をしたかというと、これまでの天皇は、政治のことは部下に任せていたけれども、オレは直接自分で政治をやるという。天皇が直接、政治の実務を執ることを、天皇親政といいます。
家来に任せず、直接自分で政務を執る。そのための事務所として、記録所を復活する。そして今までの人選のルールを破って、下級貴族でも能力があれば、上層に登用する。これが北畠親房です。

もともと昔は幕府はなかった。日本全国、関東でも、幕府の実権はなかった。日本全体をまとめていたのは天皇家だった。もう幕府を倒そうじゃないか、ということになる。それで統幕計画をたてる。そんなことしたらまた負けますよ。そういう人もいたんだけれど、彼がこういう幕府を倒そうという理論を正当化した学問が、儒学のなかでこのころ流行っていた中国の学問で、朱子学といいます。朱子学を一言でいうと、上の命令を下の人間が聞くのは正しいことだ。一番簡単にいうとこれです。では今の日本は、どうなってるか。
後醍醐天皇がどうやって天皇になったか。幕府が天皇に、争いをやめて、一回交代で天皇になったらいいじゃないかと、下が上に命令しているんです。これはおかしいじゃないか。下が上に命令しているじゃないか。これが後醍醐天皇のいい分です。

さっそく1324年に密談を凝らして、幕府倒幕の計画を練る。しかしそれが発覚する。正中の変という。これも年号です。しかし幕府もバカじゃない。こういった時のために何を置いていたか。第2の幕府ともいうべき、六波羅探題を京に置いて目を光らせていたんです。朝廷がまた変なことをしないかと。この時には、後醍醐天皇は、オレは関係ないと、言い逃れする。家来が島流しになる。
また7年後の1331年、もう一回やろうとなる。これを元弘の変という。これもやっぱり発覚する。幕府もバカじゃない。

この時代で忍者とかっていうのは、霧隠才蔵とかが霧の中に消えていったり、分身の術で1人の人間が10人に分身したり、そんなことはしない。そんなことはしないけど、忍者はいます。忍者というと分かりにくくなるけど、要はこの時代のスパイなんです。007なんです。これは多くの国家にいる。日本は忍者といって、かなり発達していた国です。手裏剣ぐらいは使うでしょう。スパイというのは、天井裏とか溝の中に隠れる。普通の侍のように長脇差しを持っていたら、狭いところは通れないから邪魔になる。だからそんなものは要らない。黒ずくめに身を包んで、身軽にしておく。手裏剣を100枚も持っていたら邪魔になる。せいぜい2~3枚です。これをピンチの時に投げたりする。そういった忍びの者たちはいる。水遁の術ぐらいは使うでしょう。堀があって、堀の向こうに石垣があっても橋がなければ、水面から突き出た細い竹がひゅうーっと動いていく。これは今のシュノーケルですよ。こうやって忍者が、水中を隠れて行っている。こういった人たちは、この時代はいっぱいいる。だから下手な動きをしていくと、忍びの者に見つかるわけです。

それで後醍醐天皇はついに、逃げとおすことができずに、隠岐の島に流しにされる。隠岐の島とはどこか。島根県の沖にあるから隠岐ノ島です。承久の乱で、後鳥羽上皇が流されたのもここでした。
それで天皇はもうクビになって、次の天皇は、幕府が決める。そして新しい天皇がたつ。これを光厳天皇といいます。注意しないといけないのは、後醍醐天皇は殺されてもいないし、やはりここでも天皇家が滅んだりもしていません。天皇家は存続していきます。


【護良親王の挙兵】 これに腹を立てて京都で挙兵したのが、後醍醐天皇の息子です。護良親王(もりよししんのう)という。鎌倉幕府もだいぶ落ち目で、その落ち目の幕府が天皇を島流しにした。地方武士たちは、どっちに味方するか。天皇方に着くか、幕府方につくか。そろそろ来るぞ、みんな身構えています。
みんな勝つほうにつきたい。どっちにつくかなと、にらみ合いが始まる。そういった時に護良親王方つまり天皇方に着いた土豪が楠木正成です。
昔の江戸城、今の皇居前の広場に、立派な銅像が立っているのは誰の銅像か。この楠木正成です。一貫して後醍醐天皇側に味方するから。しかしそんなにいい人物だったのか。このころ治安の悪化に伴って発生していた悪党の一味です。こういう人たちが天皇と結びついていくんです。


【全国的蜂起】 ここから全国的に反鎌倉幕府の動きが出てくる。九州では熊本勢の菊池氏、それと阿蘇氏です。これで内乱状態になっていく。
こういう内乱状態になって、全国的な反幕府の動きが起こるなかで、後醍醐天皇は1333年、こっそりと隠岐の島を脱出する。では、そうとも知らない鎌倉幕府はどうするか。


【幕府の滅亡】 鎌倉幕府の動きは、執権の北条氏は、まず誰を京都の鎮圧に向かわせたか。清和源氏の遠い親戚、これが栃木県にいるんです。
今でも足利市というのがある。そこを拠点とする御家人の足利尊氏を京都に向かわせる。京都がいま内乱状態になっている。おまえ鎮圧してこいと。ハイと言って、足利尊氏は鎌倉から京都に向かう。
そこまではいいです。京都についてどこを攻めるか。足利尊氏は、六波羅探題を攻めたんです。これは何かおかしいですよね。六波羅探題というのは幕府の役所です。幕府から反乱を鎮圧してこいといわれて京都についたら、六波羅探題を攻めたということは、幕府を裏切ったということです。六波羅探題は第二の幕府です。それを攻めたということです。足利尊氏は、幕府に背いた。寝返ったんです。この足利氏も清和源氏の流れで、血筋はいい。

それと同時に、足利の近くの新田荘(群馬県)に、同じ清和源氏の流れで新田義貞というのがいた。これも清和源氏の一族なんだけれども、彼も突然、兵をあげてどこを攻めたか。群馬県から神奈川県まで軍隊を率いて、鎌倉を総攻撃して、滅亡させた。
結局、鎌倉幕府は、仲間から謀反人が出て滅亡したのです。足利尊氏と新田義貞は、ともに鎌倉幕府の家来なんです。この家来から攻められて、1333年鎌倉幕府は滅亡します。

ここで戦ってないけれども、政権が転がり込んできたのが、島から逃げて脱出した後醍醐天皇です。そのまま次の武家政権にはなりません。京都で六波羅探題を攻めた足利尊氏もこの後醍醐天皇の配下になります。
これで終わります。
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