ひょうきちの疑問

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信用創造という欺瞞

2013-11-20 00:18:40 | お金とは何だ

通貨量は簡単に言えば、現金と預金の合計である。
ここに1人のAという人がいるとする。このAという人は100万円の現金を持っていたとする。
この時の通貨量は100万円である。
しかしこのAという人がその100万円をBという銀行に預けたとする。
そしてそのBという銀行が、Cという人に100万円を貸し出したとする。
そうするとCという人は100万円の現金を持つ。
するとこの時の通貨量はAという人の預金高100万円と、Cという人が手に持つ100万円の現金を合わせた合計200万円が通貨量だということになる。
いつの間に100万円が200万円に増えたのだろうか。
これが銀行の信用創造というものである。
この間一体何が起こったのだろうか。
なぜ100万円の通貨量が200万円になるのか。謎である。
しかしこの信用創造は当たり前のことのように高校の教科書に載っている。

信用と言えば聞こえはよいが、つまるところ借金である。
Cという人がB銀行から借金することによって、いつの間にか通貨量が倍に増えたのである。

円を発行するのは通常中央銀行である日本銀行だけだと思われているが、実際には銀行とさえ名が付けばすべての銀行で信用創造によって通貨が発行されている。人に借金をさせることによって。地銀もメガバンクもこの基本構造は変わらない。


私が学生時代、自分が取ったノートを人に貸したところ、その友人が私のノートを他人に又貸しし、クラス中に私のノートが書き写されて広まったことがあった。
私はひどく憤った。
私は困っている特定の友人にノートを貸したのであり、その友人が私のノートを他人に又貸しすることを想定していなかったのだ。私にはそれは背信行為に思えた。
しかし銀行がやっていることはそういうことである。

他人から集めたお金をまたそのほかの他人に貸す。そうやって世の中の通貨量はどんどん膨らんでいく。
私の書いたノートの情報量がクラス中に広まったように、1人の人間の持つ100万円の価値が、際限なく人に貸し出される。この繰り返しによって世の中の通貨量は際限なく膨張していく。
他人から預かったものをまた別の他人に又貸ししていいものなのかどうか。
それは法律的にはよくても、倫理的にはよくないことではないのか。

実際のイギリスではそのことの是非について数百年来おびただしい数の訴訟が起こされている。
そしてその訴訟の最終判決(1848年)は銀行の又貸し行為を正当化するものであった。
その代償として預金者に利息というものが支払われるようになったが、
イギリスはその間、資金調達が容易になり世界中のあちこちで戦争を起こし、その戦いに勝利することによって帝国への道を歩んでいくことになる。
こうなると大学ノート一冊の貸し借りの問題ではない。
銀行が行った又貸し行為の世界史的影響力は計り知れない。
世界の近代史を動かす原点になったものである。

信用創造とはかくも恐ろしいものである。
人に借金をさせることを信用という言葉によって表現することが、そもそもの間違いの始まりである。
繰り返すが『信用』とは金融界において『借金』を意味する。
この借金によって世界経済が動くのである。
この借金とは今流にいえばレバレッジのことである。
このレバレッジによって、世界中の金融経済がとめどもなく膨張し、いつ破裂するかわからない状態になっている。

近代社会の原点に欺瞞的な『信用創造』なるものの発生があることを忘れてはならない。


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