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授業でいえない日本史 16話 中世 室町時代の社会経済~15世紀の仏教

2020-08-14 17:28:55 | 日本史2 中世
【社会と経済】
【二毛作】
 ではこの室町時代、経済面です。
社会が発展するためには、まず生産力が上がらないといけない。生産力を上げるためには、どうするか。米は10月に刈り取ります。冬場は空く。そこで作れるか作れないか、これがポイントなんですよ。
表作と裏作、夏場と冬場、2回つくる。これを二毛作という。これに成功していく地域が増えていく。これは鎌倉時代からぼちぼちとはあったんだけれども、これがほぼ全国化していく。ちなみに表作は米です。裏作はです。これは基本、今も地方では、崩れていないですね。こういうことが、このときから始まるんだということです。

【肥料】 そのためには、農作物はふつう肥料が要る。刈敷、草を枯らした物、今でいう堆肥です。それと草木灰。これは酸性土壌を中和させる。酸は植物の敵です。酸がいいのは体の中の胃酸だけ。あれは食ったものを溶かすから。でも土がモノを溶かしたら、植物は育たない。
もう一つ、これは前にも言ったけど、肥え、です。下肥です。私が中学まで、一軒分、いくらで売れたか。300円ぐらいだった。私はそれをもらって喜んでいた。それを、母ちゃんがオレから巻き上げるんですよ。コソッと取っておけば良かった。
汲み終わると、はーい、終わったよ、水を流して、ハイ300円ね。うちの母ちゃんが、機嫌がよかったらいいけど、あらっ汲み取ってある、汲み取り代はあんたどがんしたね、と怒られて、オレがもろうた、と言うと、出せ、と言われて、もらったお金を出していた。
そうやって、300円払ってでも、それを600円で売るんです。それを農家が買うんです。うちの実家は農家だけど、私の祖母は、汲み取り屋さんから肥だめを買うのが高いから、市内までリヤカー引っ張って、便所を汲ませてください、と言って、民家に汲みに行っていた。そっちが安くつくから。500年も前じゃない。戦前のことです。
そしてその御礼に、年末になると正月用についたお餅を持っていっていた。それは子供の仕事で、私の父は子供のころに、その餅を汲み取らせてもらった市内の民家まで届けに行っていたと話してました。


【手工業】 手工業にいきます。この手工業は、まず輸入に頼っていた当時の貴重品が何か、とこういうことから。
2種類です。日本が海外から輸入するというと、中国か朝鮮なんです。当時の貴重品として、中国からは何が欲しかったか。これが生糸です。これはなぜ輸入しなければならないか。これまだ、つくれないからです。生糸はシルクです。シルクロードといって、世界史でも出てきました。
この生糸は読んで字のごとく、糸なんですけれども、これを布にして布にするためには、縦糸、横糸を織っていく。その布は何というか。これが絹です。
この絹を日本で織るところが特産地になっていく。京都です。京都の西陣が特産地になっていく。そこでおられた絹が西陣織です。でもこれは輸入原料の生糸に頼っている。
この先をいうと、これが江戸時代になると、日本は生糸の国内生産に成功していくんです。
こういう伝統がずっと明治まで続きます。明治時代も産業革命で原料を輸入して、結局、機械工業で輸入に頼っていたものを、機械工業で国内生産できるかどうか、そこが勝負なんです。日本が近代化するときの。
それができるようになっていく。そのもとになる伝統はこの時代からすでにある。これが絹織物です。

次が綿です。綿は絹に比べると、庶民衣料になっていくんだけれども、この当時は高嶺の花なんだ、と言いました。日本でもともと生産するのは麻で、これは保温力が非常に弱い。
この綿は朝鮮から輸入している。この木綿は、原料はワタなんです。木綿です。木綿の輸入です。
これも、このワタから糸を織って、それを布にしたのが綿織物になる。原料からまず糸にする工程と、それを布にする工程がある。
綿花は室町時代末期から、国内栽培に成功していきます。そこが三河です。これは今の愛知県です。
愛知県は二つの地域からできています。愛知県の東半分は三河という。それから西半分は尾張といいます。
これは日本が、江戸時代になるときに、よく出てくる。織田信長が愛知県人とは言ったけど、どこの戦国大名として出てくるかといえば尾張です。そのとき、その隣にあった三河の戦国大名は家来になっていた。これは豊臣秀吉じゃない。豊臣秀吉は信長直属の家来です。隣の大名を家来にしている。これが松平家康ですが、のちに名前を変えて徳川家康となります。徳川家康は三河の戦国大名ということです。
徳川という名前は今はめったにないです。ただ松平さんは時々います。東京あたりには。この松平がもともとの徳川家です。これが木綿栽培の盛んな三河地方です。だから豊かなんです。
江戸幕府の成立は、そういうことと関係する。そういった木綿栽培にいち早く成功するところは、お金があって豊かです。いまは三大首都圏みたいになって、東京、大阪、次は愛知です。名古屋です。


【座】 この室町時代で発達するのは、やっぱり商売関係です。商売のグループの仲間、これをという。いま座というと、芸能のグループの一座をさすような言葉ですけれど、もともとは商業関係のグループです。これを座という。
最初は畿内周辺の先進地帯から発展して、その一部にしかなかったんだけれども、これがこの時代にあちこちにできていくようになる。全国的に座が結成されていく。
ということは、金になる地方の特産品も、この時代にあっちこっち出てきた。特産品が出てくるということは農民の生活に余裕が出てきたということで、食うや食わずだったら、特産品は出てこない。

ここで一つイメージ訂正は、江戸時代の農民は、とにかく貧しいというイメージがあるけれども、どうもそうじゃない。
貧しいように見えたと言ったら、いいかも知れない。貧しいフリをしていただけで、実はけっこう隠し財産を持っている。だから見た目ほど貧しくはなかった。
そういう座が、京都や奈良だけではなくて、地方の農村にも成立してくる。
それは一面では、余ったもので、余ったものを買うからです。そのためにはお金が便利になる。この時代から、ぼちぼちお金が農村にも流通し出した。お金は人間の発明ですよね。社会的発明です。自然にあるものではない。
このお金について、鎌倉時代も言ったように、日本はこのお金を国内で鋳造してるかというと、してないです。これは輸入に頼っている。中国からです。中国のお金を輸入しています。
そういうふうに生産が増えて、社会が豊かになってくると、次に余ったものができて、それを交換することによって生業を立てるようになる。これが商業です。


【六斎市】 鎌倉時代には、月に3回、市がたった。だから三斎市といった。この回数が増えていく。室町時代には月6回になる。だから六斎市という。月3回だったら、店を建てられないけれども、月6回だったら、ここに小屋でも建てて、寝泊まりしようとなる。そうやって、商人たちがだんだん住みつくようになる。その家を見世棚という。そういう人たちが増えていくと、町になっていく。
定期市から常設的な見世棚のある町に変わっていく。この時代になると、そういう町がちょっとした地方都市にでもでき始める。

ここで鎌倉時代との比較をすると、鎌倉時代はこういう見世棚があっても、限られた地域であった。鎌倉時代の3大都市、江戸ではない、大阪ではない、と言いました。なんで江戸ではないか。大坂ではないか。まだ町がないんですよ、江戸はないです。徳川家康が作る城下町だから。大坂もないです。大坂はこのあと豊臣秀吉がつくる都市だから。鎌倉時代の三大都市はどこだったですか。京都、次が奈良、次が鎌倉です。京都、奈良、鎌倉、これが今までの三大都市であった。まだこの時代もそうですけどね。ただこれ以外にも見世棚の並ぶ町が発生しだした。


【明銭】 ではさっき言ったお金です。お金は中国からです。中国の明という国から輸入していた。だから明銭といいます。輸入銭であるということです。幕府が鋳造していたんではないです。

鎌倉との比較をすると、鎌倉時代も輸入銭だった。これは宋銭だった。中国の王朝が変わっているからです。
こうやって実質上、幕府が貨幣発行権を握っています。これは幕府が輸入しているんですね。足利義満を中心として。
そうすると、オレもこのくらいつくれるといって、銅を鋳つぶして、銅を溶かして鋳型に入れて、勝手にお金を作り出す人々が出てきた。こういうお金を、私鋳銭といいます。今でいうとニセ金になるけれども、ニセ金とまでは言わない。これはこれで良かったんです。この当時は、銅には銅としての価値があるから。ただ素材が悪いから、みんな輸入銭と比べて材質が悪いから、おなじ一文銭でも受け取りたくないなといって嫌うんですね。こういうのをビタ銭という。
ことわざで、ビタ一文払うか、とか、ビタ一文もない、という言葉を聞いたことないですか。オレはビタ一文持たない、のビタとは何か。この粗悪銭のことです。10円玉どころか1円の粗悪銭さえ持たない。文無しだ、ということを、ビタ一文持たないとかいう。このビタなんです。それで、ビタ銭はイヤだなぁと、あめ玉を買おうとしても、10円を出して、店のおばちゃんが、こんなビタ銭じゃ売らん、という。そういう行為を撰銭(えりぜに)という。

こういうのが流行りだすんですよ。しかしこうなると、自分がもってる10円玉に信用があるかどうか分からなくなる。我々は子供の時のお小遣いは10円だったけれども、君たちにはとっては100円かな。この100円玉でほんとにあめ玉一個、買えるかどうか分からない。それじゃ安心してあめ玉を買いに行けない。つまり商行為が成り立たたない。
それでもう撰銭をするなよ、と幕府がお触れを出すわけです。撰銭令というのは幕府が、撰銭をするな、いいじゃないか、粗悪銭でもビタ銭でも、100円なら100円で売れよ、というお触れまで出さないといけなくなったということです。商業が発達する中で、ビタ銭が流通し、商業が阻害されていったということです。

しかしお金の世界というのは、他の社会とちょっと違って、いったん悪いお金を認めると、「悪貨が良貨を駆逐する」んです。だから、世の中が粗悪銭だらけになってしまう。我々は、悪は滅びる、と信じたいところですけど、お金の世界はそうはならないのです。
ということは、誰かが一手に通貨発行権を握って、統一通貨を発行しなければならないことになります。それを誰が握るかは、とても大事なことです。意外と見過ごすところですが。


【為替】 日本でも商工業が発達すると、一方ではもっと便利さを求めて、為替が発達する。博多から京都まで100万円を送りたいというときに、100万円の大判小判をザクザク積んで、両手で持って東京まで運んでいたら、山に行けば山賊がいて、船に乗っていっていたら海賊が出てて、危なくてしようがない。だから現金は動かさないまま、手形だけを持って、あとで払いますからという証書を送る。こういうのを為替という。現金を動かさないで送金ができるようになる。
この前提になるのは、博多の商人と京都の商人、この時代、新幹線もなにもないから、面識がない人間同士が信用し合ってないとダメなんです。
面識はないけど、噂で聞いたことある、京都の何とか株式会社の社長は信用できるとか、博多の何とかさんは信用できるとか。そういう情報をもとに商売が成り立つ。信用が社会の中心を占めていくようになります。その輸送する手形を、割符(さいふ)と言います。


【年貢の銭納】 年貢も、それまで米で納めていたものを、お金で払うようになります。年貢が米俵1俵だとすると、この米一俵が5000円だとすれば、5000円のお金で払うようになる。これは貨幣経済から見ると社会の進歩なんです。これを貫高という。年貢の銭納です。貫高の貫とは何かというと、当時のお金の単位です。1貫目、2貫目で表す。紙幣はまだありません。

お金を持ち運ぶときの運び方ですけど、財布に入れて運ぶとか、そんなことはしないです。お金の運び方、どういうふうに運ぶと思うか。袖に一文銭を入れて、ジャリジャリいわせて運ぶなんてことはありません。
ヒモを通すんです。その名残が五円玉です。真ん中に穴があいているのは、ヒモを通して肩に担いでいくその名残です。お金は重たくて、かさばるから、ヒモを通して束にして、何重にもして肩に担いで、ロープを担ぐようにして運んでいく。
それは面倒だから手形で決済すると、京都との決済は簡単に済む。


【金融業】 そういうお金を扱うことも商売になって、金融業が発生していく。銀行とか言わない、土倉という。これはもともと倉を持っている家は、金持ちなんです。そこにお金をいっぱい貯めている。そこで、あんたはお金もっているから10万円貸してよ、いいよ、となる。
それからもう一つ金持ちの代名詞が酒屋です。酒屋がなぜお金と関係があるかというと、お金持ちだからです。酒を作るような醸造元というのは、地域のお金もちなんです。資金がある。そして余ったお金を貸し出す。
ただし利息は取る。金貸しというのは、これがバカにならないくらい儲かるんです。
貸しただけで儲かる。今のように金利が年1%もない、0.1%もない、そんな時代は異常なんです。だいたいこの当時は、年10%、20%とか、今の高利貸し金融ぐらいの金利があるのが普通です。年20%で100万円貸したら、1年間で120万円になる。これはぼろい儲けです。これはバカにならない商売です。
逆の立場で考えて、だから高金利ローンに手を出したらいけないよ。逆に年利10%とか、20%とかの高金利でローンを借りたら、利子がバカにならない。思ってる以上に。
年10%とか言うと、高いと分かるから、日歩で言ったりする。1日たった3円よとか。1日3円というのは、100円借りて1日で3円というのはぼろい儲けです。年利で300%ぐらいになる。それを複利でやるから実質500%ぐらいになる。


【運送業】 運送業です。人は陸を行くんです。物は海を行くんです。大八車で引っ張って山越え谷越え、京都まで持って行くのは大変だから、物は船で運ぶ。そういう水上交通の運送業から始まって、問屋に発展する。いまもある問屋というのは、これです。もともと海上運送をやる鎌倉時代の問丸から発展し、その問丸が問屋に変わっていく。船を持ってる。
この船をもってる人は、もともとは頼まれて、運んでくれと言われたら、仕方なく受けていた。しかし定期的にあの人は、10日に1度ぐらい、オレに頼みに来る。そしたら、ついでに、10日と20日と30日は、大坂まで船を出すと決めて、そこにオレも、オレも乗せてという人間がいっぱい来るかもしれない。そしたらもっと儲かる。これが船の定期便です。これを廻船という。これが遠距離輸送です。モノの遠距離輸送です。
それと違って近距離輸送は、陸上を馬で運ぶ。これは馬借(ばしゃく)という。馬の背に乗せていく。



【15世紀の仏教】
では次、室町時代の宗教です。もう15世紀後半です。応仁の乱が発生したあとです。
応仁の乱は戦場はどこだったか。地方じゃなかった。日本の首都京都です。そこに住んでるのは、もともと伝統的な都だから、お公家さん、貴族なんですよ。彼らが家を荒らされて、ますます没落していく。
彼らが信じていた宗教は、実は平安時代の宗教なんです。だから平安時代の宗教は公家の没落にともなって没落していく。これが旧仏教です。奈良仏教とか平安仏教ですね。

それに代わって、新しく発生した仏教が逆に勢力を拡大する。これが鎌倉仏教です。
鎌倉時代には、いっぱい宗派がでできた。この宗派の支持層は貴族じゃなかった。もっと貧しい農民や、貴族の下の武士、こういった層に受け入れられていたのが鎌倉仏教です。彼らが力を持っていく。
宗教というのは、これは良い悪いは別にして、信じた人たちは、お寺さんに寄付をしなければならない。または進んで寄付をしていく。この寄付によって、鎌倉新仏教のお寺が各地にどんどん建てられていく。

私もこの歳になると、死んだ親父のお墓のこととかで、お寺さんの御世話になる。お寺さんもやっぱり生活もしていかないといけないし、お寺の本堂とかも100年ももたない。そうすると、50~60年ぐらい前の本堂の瓦がずれたりして、建て替えないといけない。立て替えの費用は、誰が払うのか。平安仏教だったら、大金持ちの貴族がパトロンになって、何億円も寄付してくれるからそれで良かったんでしょうけど、鎌倉仏教は庶民仏教だからそんな大金持ちのパトロンはいないわけです。では誰が払うか。檀家の我々が払うんです。お墓がお寺にあるというのはそういうことです。もともとお寺さんというのは、そうやって信者の寄付とか御布施によって成り立っています。


【法華宗】 そのなかで京都に広まったのが、日蓮宗です。鎌倉時代に日蓮宗が登場した。これがなぜか、時代によって名前が変わっていくんです。法華宗という。根本経典が法華経だからです。日蓮宗が、一番正しいことが書かれているとしたお経は法華経だった。だから日蓮宗は、南無阿弥陀仏じゃない、南無妙法蓮華経です。妙法蓮華経を縮めて法華経です。だから法華宗という。

ここに有名なお坊さんが出た。日親という。この法華経、つまり日蓮宗で、日親の教えがどこに広まるかというと、京都に広まる。京都の貴族ではなく、町人たちに。この京都の裕福な町人たちを町衆といいます。彼らは商売人で、けっこうお金を持ってる人たちです。
彼らが、応仁の乱でめちゃめちゃになった京都を復興していきます。オレたちの街じゃないかと、自分たちで金を出して、道割りを元に戻して、家を建て直していく。こういうことをやったのは貴族ではなく、行政でもなく、町衆と呼ばれた彼らです。応仁の乱後の町づくりやっていくのも彼らです。法華宗は、そういう人たちに広まっていく。

彼らも一人一人が別々の動きをするんじゃなくて、今でいう商工会議所のような、みんなでこれをやろう、そうだそうだ、という結束した団体を作る。これを法華一揆といいます。彼らが、廃墟となった京都の町の復興を行なう立役者になっていく。これが京都の動きです。
ただこういうふうにお金持ちが団体つくると、政治団体になっていく面もあります。今でも商工会議所とか、日本経済団体連合会とか、略して日本経団連とか、そういった経済団体が、政治力を持って行くようになる。


【一向宗】 では田舎の方では、これは前回も一揆のことで触れました。
一向宗が広まったのは、北陸地方です。北陸地方というのは、京都から見ると山の向こうなんです。京都から北に山を越えたら北陸地方です。一向宗は今では浄土真宗といいます。
ここに出た有名なお坊さんは、蓮如というお坊さんでした。この人は、自分の教えを言葉でも言うけれども、手紙で書いたら保存されるから効果があるぞと言って、ずっと平易な教えの文章を何枚も書いて、それを地方の村々に配っていく。
私のウチの近くのお寺さんは、浄土真宗でやっぱりこれですね、配りはされないけれども、お寺の前に掲示板を置いて、そこに週に一回ぐらいペタッと貼る。いい言葉をサッサッと筆で書いて、ペタッと貼る。時々見ながら、ああ今週は当たってるなぁとか、今週はちょっとはずれてるなぁとか、思いながら。これはいいですよ。道行く人に、一行ですぐ読めるような言葉を書いて掲示する。
そういう布教方法で広まったところが北陸地方であり、もう一つは織田信長に敵対する東海地方でした。その手紙のことを御文というんです。この御文によったその信者団体のことを、という。浄土真宗の場合には。これが地方の村々に入り込んで、村々同士が団結していくような政治力をもつと、その裏には宗教があるから、こういう団結した村々のことを一向一揆というんです。

これが政治力になっていく。政治力を高めて、その総本山というのが、もともとは福井県越前の吉崎というところにあった吉崎道場です。これが道場といってますけど、お寺です。それがもっと中央の大坂に引っ越して、石山本願寺になった。
織田信長と徹底的に戦った時期もある。織田信長の家来の豊臣秀吉はついに、これを立ち退かせて、大坂城を建てた。
ここでの大坂の坂は、この坂を書くんですけれども、歴史的には間違いじゃないです。明治になって、この坂は、商売人の町で坂を転げ落ちるというのは縁起が悪いということで、いまの阪に変えた。大坂の字は間違いじゃないです。


【禅宗】 それから武士が好きなのはちょっと厳しい禅宗です。ずっと座る修業をする。この禅宗のなかにも、はぐれ禅宗がある。オレは権力は嫌いだ。主流派は権力と結びつく。反主流派は、オレは権力とは縁を切るという禅宗がある。この一派を林下といいます。
エリートじゃないけど、有名な坊さんがこの反主流派から出てくる。これが、とんち坊さんで有名な、一休さんです。ただ一休さんでは正解にはならない。一休宗純です。
この一休宗純が何を教えて、それを聞いた人が何をつくったか。日本が不思議なのは、飲食の作法が芸術になる。ただ茶を飲むことが芸術となるんです。茶道といって。これに影響を与える。
この茶道を作った人物は、一休さんの弟子なんです。村田珠光という。この弟子の弟子が、茶道を大成した千利休です。今は表千家と裏千家、二つに分裂していますけど、その茶道の家元の千家です。この佗茶が芸術になれたのはこの禅宗、一休さんの禅宗、があったからです。
これで終わります。
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