田舎神職の人生-自然の中で生きる

神明社に奉仕しながら、気ままに生きる日々の暮らしを、生かされて生きることに感謝しながら綴っています。

祝詞を整理する

2014年06月29日 19時43分29秒 | 日記
 前から気になっていた祝詞を少し整理しました。
 お祓いや祈願の祝詞は、終わったらとりあえず箱に入れて保管していました。新しい祈願を依頼された時に参考にしたいと思ったからです。
 祝詞作文はどうしても自分の癖が出ます。自分の癖というか、先代からの流儀というか、言葉の使い方や言い回しが他の宮司さんとは多少違うようです。他の人の作った祝詞を渡されても何となく違和感があります。祝詞の例文集を見ても自分にぴったりと来るものと少し違うものがあります。
 そこで、自分の作った祝詞作文は大事にしていました。

 でも、だんだん箱がいっぱいになって収まりきれなくなりました。そこで、A4版に縮小してコピーしてみました。



 A4版のコピーであれば、大きさも小さく、ファイルに入れておくことで場所も取らないと思ったからです。
 さしあたり今日は、30部だけコピーして30本の祝詞を廃棄しました。生活上手はものの整理が上手といわれますが、整理は大事だと思いました。

最新の画像もっと見る

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
祝詞について (あらたま)
2014-07-11 20:12:03
しばらくでした。
わたしは社家ではないけれど祭式や祝詞を見聞きするのが昔から好きです。

七五三の時に見た神主さんの朗々とした奏上や
厳かで堂々とした所作や、あでやかな装束に
食い入るように見いっていました。(笑)

家に帰ってからも、親に根掘り葉掘り聞いて、
自分もああなりたい!というような幼児でしたよ。

最近思うのです。ああした憧れを人生でいくつか持ちました。でもいつの間にかまったく違う道に来ています。

でも、あきらめずに目刺し続けていたらと悔やんでいます。

何事かをやりとげることは並大抵ではないですが、
だからこそあきらめずになにかを続けているひとが
眩しく思えます。

最近色々な方の祝詞を見聞きします。
確かにその人の個性が出ます。

気に入った言い回しなどがあるのでしょう。

実際に読み上げてみても、やはりひとの好みですからなんだかしっくりきません。

そこで自分が読みやすく心地よい言葉に変えたりしながら自分なりの祝詞らしきものに作り替えています。

朝早く、または夕方誰もいないときに、近くの鎮守に行き、陛下の世をいつまでも護ってください。
人々が明るく健やかに仲良く、よのためひとのために尽くせますように護た幸わいお導きください。

というような内容でこころを込めて申し上げると、
なんだか心底安心して堂々としていられます。

神にお誓い申し上げたことだから、やましいことさえなければ、一日堂々とした気持ちではたらけます

ありがたいことです。これも大神さまたちの
御恩頼なのでしょうね!
返信する
ありがとうございました (栗田明廣)
2014-07-12 08:49:00
コメントありがとうございました。
社家の生れでないとのことですが、私以上に神社や祭式そして神道のことに詳しくて、自分の未熟さが恥ずかしいようです。まだまだ勉強が足りません。
大神様の御恩頼(みたまのふゆ)を肌で感じることができるようになるとは素晴らしいですね。私には、時々ハッと思う程度です。

祝詞奏上もなかなか難しく、丁寧に仕上げた祝詞を事前に何回も読んで練習して、お祭り当日ある程度流れるように奏上することができます。

御祈祷やお祓いは、基本的には『祈り』ではないでしょうか。奏上する祝詞にいかに自分の祈りを込めるか。祈りをこねられるかがポイントです。
若い頃は、まわりに雰囲気、偉い人(?)などに気を取られてしまうことばかりでした。最近ようやく少しではありますが、神様に一心に対することができるようになってきた気がします。

早朝、神社で大御代の弥栄と世の人が「安く穏いに」と祈られることも素晴らしいことです。

私は、朝拝夕拝(場合によっては夕拝は省略)の中で、大祓詞(中臣祓詞)奏上しています。暗唱するものですから、時々雑念が入って他所事を考えながら唱得てしまうことがあります。
僅か10数分ですが、大祓詞の奏上によって気持ちが改まります。

今は、ネットの様々なサイトで「大祓詞」が紹介されています。YouTubeでも神社の神職や様々な今日は神道が「大祓詞奏上」を紹介しています。

まあ、みんなその人の癖が表れていますね。
返信する
返信 (あらたま)
2014-07-12 23:08:48
栗田さま、早速のお返事楽しみにしていましたので嬉しく、また、過ぎたるお言葉に自身の拙さをただ恥ずかしく思います!

最近はネットが便利で、暇にまかせて知りたいことがその日のうちに調べられますから、自分のような無精ものでも、浅い内容ならばすぐに調べられます。(笑)

あなたより詳しいことなど、あるわけがありませんよ!

誰もいない社で、大神さまと自分だけでお誓い申しあげるのと
氏子崇敬者、名士の方々を前に、流れるように
奏上したり祭式をおこなうのは、わけがちがいます

大神さまたちへの崇敬や感謝の誠はもちろんのこと、宮司さん始め神職の方々は、儀式を進めるなかで様々なことに気を配らなければならないでしょう。

むしろ、参列の方々にとってよいお祭りができるかという点に、私どもの気づけない神職さんたちの配慮がたくさんあるかと思うのです。

先日地元の若い神職さんと話す機会がありました。

敬神生活の綱領のコピーを頂きました。
会話のなかで暗唱して見せて、わたしが感心していましたら、すぐに奥からコピーを出してきてくれました。

なかなかできそうもない、でもそうあれたら
神職としても氏子としても神に恥じることがなく
いられるであろう内容でしたが、
件の青年神職さんは日頃からその綱領を大切にしているのでしょう。

たまたまいあわせた方がむつかしい質問をしても、
彼は真摯に、時おり考えながら穏やかながら堂々と
答えていたのが印象的でした。

なかとりもちやみこともちとして、出来うることをする、そんなまっすぐな姿勢に、頭の下がる思いでした。

返信する
Unknown (栗田明廣)
2014-07-13 06:27:26
本来ならば、神職の姿はおっしゃる通りなのでしょう。
でも、とてもそんな風にはできません。
例えば、拍手一つとってもそうです。社現に響くきれいな拍手の音は参列者にも心が清まるものでしょう。私の場合は、いつもいい音を出すことはできません。その時にちょっとした心の動きでいろいろに変わってしまいます。参列者にはあまり有り難いとは思わないかもしれません。

ただ、私は演技とは思っていません。あくまでも神様に向かって誠実に祈りたいと思うだけです。敬神生活の綱領のような生き方ができれば最高ですが、現実はなかなか難しいです。

あらたまさんの身近には良い神職さんがおられるのですね。これからもまたお聞かせください。
返信する
無題 (あらたま)
2014-07-14 02:58:13
はい、千葉の海よりの町で東金というところにすんでいます。

大社はありませんが、歴史のある社が点在しています。わりと熱心な神職さんが多い気がしています。

旧市街にある古い社の禰宜さんによれば、外祭が多いから専業でなんとか食べて行けるとのこと。

見た目大社でなくても、氏子の参拝や祈祷でいつも誰か他の方と出くわします。
わりと若い方が、なれたようすで家事や仕事の合間に一人できて、手を合わせたりするのが意外でした。

神葬祭や山車が出るような大祭などもあるような神道が根付いた土地なのでしょう。

そして、よその土地からの観光客や参拝客がいなくても、地元に愛されている神社のようでした。






返信する

コメントを投稿