福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

クルレンツィス 狂熱の「レニングラード」@エルプフィルハーモニー

2019-06-21 23:20:01 | コンサート


二夜つづけてのエルプフィルハーモニー詣でとなった。



今宵の演目は、ショスタコーヴィチ: 交響曲第7番「レニングラード」。テオドール・クルレンツィス指揮南西ドイツ放送交響楽団による来演である。しかし、これがはじめてのエルプフィルハーモニー公演ではなく、少なくとも昨年12月にも公演はあった。なぜそれを知っているかというと、誤って昨年12月のチケットを予約してしまって、お金も切符もふいにしてしまったという苦い記憶があるからだ。



今宵の座席は、15階のKというブロックの前から二列目。もちろん、ホールそのものが15階席まであるわけではない。昨夜聴いた平戸間が12階、つまり、このビルそのものの階が客席にも採用されている、ということに今日気付いた次第。

実質4階席で聴くこのホールの音響は、やはり素晴らしいものがあった。バランスだけをとれば、平戸間前方を凌駕していたと言ってよいだろう。



上から見下ろしながら感じたことは、このホールはまるでベーゼンドルファーだなぁ、ということ。つまり、エルプフィルハーモニーのステージ床と壁が、あたかも、ベーゼンドルファーの共鳴板と木枠のような役割を果たし、ステージ上の演奏を深く、そして暖かく包んでいたのである。オーケストラがどんなに大音量になっても飽和せず、混濁もしない懐の深さはこのホールの大きな魅力と言えるだろう。



クルレンツィスは、紛うことなき天才である。今年のはじめ、ムジカエテルナを率いての来日公演では賛否が分かれたものだが、今宵の演奏はもっと好みを超えた普遍性のあるものだと思う。

ひとつには、オーケストラが南西ドイツ放送交響楽団であること。ムジカエテルナのサークル的、同人的な在り方に較べ、南西ドイツ放響は、オーケストラとしてのポテンシャルが比較にならないくらい高いところにある。

ドイツのオーケストラらしい重厚な響きと揺るぎないアンサンブルの上で、クルレンツィスの狂気が展開されるのであるから、それはそれは凄まじい世界が現れるのだ。

第1楽章、スネアドラムに始まる展開部冒頭の究極の弱音は、ムジカエテルナとのチャイコフスキーを思い出させたが、緊張の持続、精神の高揚、そしてあらゆる抑圧から解放されんとしたとき、それまで座して演奏していた全プレイヤーが立奏に移って聴衆の度胆を抜いた(もちろん、チェロ、テューバなどは除く)。その只ならぬ高揚は祭における群衆の、例えば火を囲んで何かに憑かれたように踊り狂う人々の熱狂すら思い出させた。
その後も音楽に応じ、木管だけが立つ場面、金管だけが立つ場面、あるソロ楽器のみが立つ場合、そして全員が立つ場面が様々に組み合わされてゆくのだが、これが視覚的にも、音楽的にも抜群の効果を上げる。

即ち、立奏するプレイヤー全員がコンチェルトのソリストのように大きな身体の動きや表現の幅を見せるばかりでなく、音の発する位置が高くなるので、明らかにその楽器やセクションの音色が変わるのである。まるで、オルガンのストップを替えるような効果は目眩くばかり。かといって、表現に溺れた造型の崩れなどは一昨年なく、実に堂々としたショスタコーヴィチであった。決して、際物と呼ぶべきものではない。



終演後の聴衆の熱狂も桁外れ。録画して皆さんにお見せしたかったくらい。

わたし自身は、ショスタコーヴィチの15の交響曲を眼前に積み上げられてもなお、ブルックナーの0番を選ぶブルックナー人間ゆえ、感動の大きさは昨夜のエッシェンバッハにあったが、クルレンツィスが本物であることを確認することができたことは喜びたい。



ただ、クルレンツィスのような狂熱の演奏こそ、直接音やプレイヤーの息遣いの聴こえる平戸間で聴き、その直中に1人の当事者として身を置くべきだったかも知れない。チケットを取れただけでも御の字、座席を選ぶ余裕などまるでなかったから、仕方のないことなのだけれど。
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ハンブルクで出逢ったレコード Vol.1 ドイツ・グラモフォン編

2019-06-21 16:53:44 | レコード、オーディオ


バルトーク 管弦楽のための協奏曲
カラヤン&ベルリン・フィル



チャイコフスキー「悲愴」
カラヤン&ベルリン・フィル



ベートーヴェン歌曲集「遥かな恋人役へ」「アデライーデ」
フィッシャー=ディースカウ&イェルク・デームス



ベートーヴェン 七重奏曲
ベルリン七重奏団



シューマン「ライン」、「マンフレット」序曲
クーベリック&ベルリン・フィル



メンデルスゾーン 「イタリア」「宗教改革」
マゼール&ベルリン・フィル



シューベルト 「悲劇的」「未完成」
マゼール&ベルリン・フィル



ベートーヴェン ディアベリ変奏曲
ゲザ・アンダ pf



シューマン 「ダヴィッド同盟舞曲集」「クライスレリアーナ」
ゲザ・アンダ pf



シューベルト ふたつの即興曲集
ヴィルヘルム・ケンプ pf



キーンツル 歌劇「宣教師」
ホルスト・シュタイン&バイエルン放送響、合唱団ほか







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南西ドイツ放送交響楽団御一行様

2019-06-21 16:25:02 | コーラス、オーケストラ


買い物を兼ねた散歩からホテルに戻ってツアーデスクを眺めてビックリ。

今朝、ヴェリタス・クワイヤ・ジャパンの皆さんをお見送りしたと思ったら、入れ替わりに今宵、エルプフィルハーモニーで演奏する南西ドイツ放送交響楽団のご一行がやってきました。

指揮者のクルレンツィスは、別の宿だろうか? 同じなのだろうか?

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奇跡の音響! エルプフィルハーモニー エッシェンバッハの「ロマンティック」を聴く

2019-06-21 10:56:07 | コンサート


カウフマンの歌っている最中、ひとりのご婦人が「声が全然聞こえない」と叫び、怒ってホールから退席した事件を筆頭に、なにかと噂のハンブルク・エルプフィルハーモニー。

音楽に興味のない観光客がドッと押し寄せ、演奏中も話し声やノイズが絶えないなど、良からぬ噂も耳にするなか、「何事も自分で体験せねば!」ということで、出掛けてきたのは、クリストフ・エッシェンバッハ指揮NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団による定期演奏会(2019年6月20日 20:00開演)。



演目は、ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番とブルックナー: 交響曲第4番「ロマンティック」(第2稿)
前半のチェロ独奏は、ニコラ・アルトシュテットである。



ショスタコーヴィチも渾身の名演であったが、ソロ・アンコールで弾かれたハイドンの交響曲第13番よりアダージョ・カンタービレが絶美であった。指揮者なしの弾き振り、というより弦のみ4-4-2-2-1との親密な室内楽で、その弓の上げ下げと息遣いだけで紡がれる夢のような世界!

わたしの座席は平戸間中央2列目やや左寄り、ちょうど目の前が第1ヴァイオリンの第2プルトというところ。ステージはとても低く、最前列から身体を乗り出せば奏者に触れることも出来そうなほど、身近な感じである。

わが第一印象は、「心落ち着くリスニングルームで、最上級のオーディオ・システムによって超優秀録音の音源を再生した音のようだ」
というもの。
コンサートホールの音響を形容するには不謹慎な表現と思われるかも知れないが、これは最大の讃辞である。ほぼ満点に近い、というより他のホールとは次元が異なる。

上手く調整されたオーディオ・システムでは、二本のスピーカーのド真ん中にひとりの歌手や奏者がキッチリ像を結び、あたかも、自分の目の前1メートルのところに、フィッシャー=ディースカウが立ち歌い、アンドレ・ナヴァラが弓を動かすのが見えることがある。これはオーディオならではのマジックであり、仮想の音楽空間であると、昨夜までは思っていたが、それがエルプフィルハーモニーというホールで、実際の生演奏で実現されたのである。これは驚異的と言わねばならない。



メインのブルックナーでも最上級の時間はつづいた。冒頭のブルックナー開始、弦のさざ波は、あたかも風に揺れる森の木々の囁きのようであり、また、清らかな泉の湧き出ずる音のようであり、どこまでも清廉でありながら、立体的なのだ。

我が座席の位置から、第2ヴァイオリンが少し遠いとか、管楽器が見えず、やや音がマスクされる、などの傾向があるのは、どのホールでも同じことだが、この場所でこれほど音楽を堪能できるのは驚異的。すべてを超えて現出する奇跡の音の柱には、ただただ唖然とするばかり。

その理由のひとつは、ステージの床にある。まるで、高級スピーカーのエンクロージャーのように、ステージ上のオーケストラの音にまろやかに共鳴しつつ、しかも混濁のないクリアな音を演出する。壁の素材や形状にも由来していることだろう。少なくともわたしの目の届く範囲のプレイヤー全員の息遣いや弓遣いを客席で共有できるとは、こんな至福はないのである。

まるで修道僧のようなエッシェンバッハの指揮は、ティーレマンのような煽りもなく、バレンボイムのような誇大な表現もなく、ただただブルックナーの音楽をありのままに響かせてくれた。第1楽章冒頭、金管によるブルックナー・リズム出現の直前の第1ヴァイオリンを、カラヤンの流儀で改訂版のようにオクターヴ上げさせていた場面も、全体の美から突出したものとならなかったのは流石である。



ところで、今回、気になってカウフマン事件の記事を再読してみたのだが、件の演目がマーラー「大地の歌」であった由()。なんだ! この記事が正しく、演目が「大地の歌」であったのなら、ムジークフェラインであろうと、コンセルトヘボウであろうと、サントリーホールであろうと、テノールの声が聴こえることはないではないか! 
記者は、面白おかしく書きたいのだろうが、エルプフィルハーモニーへの名誉毀損も甚だしい案件と言えそうだ(ただし、ほかの座席でどう聴こえるかは分からない)。

因みに心配された聴衆のマナーも、ここへきて落ち着いた模様。何人か退屈そうは顔も見受けられたが、静寂は保たれており、たいていの日本国内の演奏会よりよかった。なにやり鈴の音や飴の包み紙の音の心配がない(笑)。



本公演は、23日(日)に再演されるので、駆けつけたいところだが、チケットは発売と同時にソールドアウト。転売サイト経由では、ベルリン・フィル来日公演以上の高値となるため、購入を思い切れないでいる。当日、会場入り口で手に入ればラッキーというところか。



なお、今宵は同じエルプフィルハーモニーにて、クルレンツィス指揮南西ドイツ放送交響楽団によるショスタコーヴィチ「レニングラード」を聴く予定。今回は日本でいう3階席センターなので、音響の比較も含めて大いに楽しみなところである。

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