特別企画みたいな感じです。↑バトル勃発か!
その他にも↓いろいろ特別企画がありまっせ!
え~、みなさん、こんにちは~。今日のタイトルは・・・・・難しそうですね。
先日、よくコメントを下さってるフルナさんから不殺生戒ちゅうのが何か~って教えてもらいました(「お礼とか 今思っていることなんかを」のコメントを参照してね。nanaちゃんが暴れてるけど)
不殺生戒って言うのは簡単に言うと・・・・・殺生したらアカンちゅうことです。
(簡単に言いすぎ)
で、不殺生戒についての考え方はよくわかったんやけど、無宗教でヒネクレものの私はこんなことウダウダ考えたんです。
不殺生戒を実践する人にとって(フルナさんとか)生命の定義とは何か?
微生物とか細菌とかウィルスとか植物とかも不殺生戒の対象となるんかな~?って。
すんまへん、くだらんこと考えまして。
私が小さい時、親とか身近な大人の人達に教えてもらい、自分で納得して理解してるんは、「むやみやたらに生き物を殺したらアカン、命というのは大切なもんやねんで~」って事です。それが私の生命に対する考え、道徳観です。
(まぁ、不殺生戒ちゅうのも言ってる事は同じやと思うんやけど)
命の中には植物も含まれてると思います。植物も生物には違いないんやから、意味もなく草木を踏み荒らしたりするのは、良くないことやし自然を大切にしなアカンとも思ってます。野に咲く花を見つけては、それを足で踏み潰して歩くような行為は、私の道徳に反します。もし子供がそんなことしたら注意するでしょう。
ほんじゃあ、庭に覆い茂った雑草は?
平気で刈ります。その行為に罪悪感を感じることはありませんし、無用な殺生をしてしまったなんて思わないと思うんです。少なくとも私はそうです。
ほんじゃあ、ウィルスとか細菌は?
ウィルスや細菌に感染して病気になった場合は治療するでしょうから、ウィルスや細菌を殺す事だってありますよね。不殺生戒守ってる人にとってはこれも殺生なんやろか?
私はお肉とか魚も好んで食べるし、不殺生戒なんて守ってへん。植物も生命と考えたら、仏教者は不殺生戒なんて守ってへんことになるな~。
不殺生戒ちゅうのは、自分から殺さへんことが大事なんや~って言う意見もあるようやけど、牛君とか豚君とか玉ねぎ君とかニンジン君にしてみたら、「お前らが食べへんかったら、俺らはもっと長生き出来たのに勝手なこと抜かすな!ゴラァ~~」って、言うかもしれんな。
ほんなら、動物も植物も食べへんかったら不殺生戒を守れるかって考えると・・・・・死んでしまうがな!!自分に対する不殺生やな。
話しチョイと外れるけど・・・・・
輸血したらアカン宗教ってエホバやったかな?
我見やけど、宗教って人が幸せになる為やったり、私なんかが及ばないほどの崇高な道徳やと思ってるんやけど、なんや宗教を突き詰めていくと、よけい人が不幸になったり一般人の道徳観とかけ離れていったりするような気がするな。
宗教の教義のええとこだけとっといたらええのに、極端になると目の前で我が子の失血死を見る羽目になってしまうんやな。幸せのための宗教が不幸になってしまう。悲しいことやで。
なんかゴチャゴチャ細かいこと考えると、不殺生戒ちゅうのにも矛盾があるような気がしてきました。
フルナさんがこんなこと書いてはった。
>ひとつ言えることは、人類の多くが不殺生戒を守ったなら、この地球上から戦争がなくなるのです。
「命というのは大切なもんやねんで~」っていう考えには同意しまっせ。でも断言してることにはなんとなく反発を感じる。なんとなくやけど。それにオウムの信者もゴキブリ這いずり回ってる部屋で同じようなこと言ってたけど、サリンばら撒いたしな。
そやけどなんで私は、反発を感じるんやろ?チョッと考えてみたら、結論はこんな感じ。↓
なんや宗教団体の偉い人が全てをわかったように、平和とか生命とかのことをウダウダ偉そうに言うのを聞くと、宗教嫌いの私は
「お前らゴチャゴチャ人に説教する前に、宗教に迷惑したり苦しんでる人たくさんいるんやから、それを先になんとかせえよ!」
って、思うからやね。
アッ!誤解しんといて欲しいんやけど、↑はフルナさん個人へのメッセージやなくて、宗教界全体に向けたメッセージやで。
妻が創価学会員で嫌な思いをしている宗教嫌いの戯言でした。
おまけ
私見ですが「宗教、思想、政治は個人の自由」という信条をもっています。その他にも言論や表現の自由も大切なもんやと考えています。例え迷惑だらけで世間から奇異に思える宗教団体でもその宗教思想や教義を法律で制限したり、弾圧することには否定的です。
(批判と弾圧はちゃいますよ。宗教者は批判されると直ぐに宗教弾圧や!って言うのも困ったもんやけど)
出来ることなら内部改革を望んでいますが、狂信的な宗教団体は無理でしょうし、外部批判を真摯に受け止め自ら改革するとも思えません。もし、あなたが所属している宗教団体を支えていることに苦痛を感じたり、組織に対して疑問を持っているなら、一度活動を停止し、組織を離れて考えてみては如何でしょうか?
きっと、組織内に留まっていた時と違う世界が見えるかもしれませんし、爽やかで清々しい風が吹いているかもしれませんよ。戻りたくなればいつでも戻れるんですから。
おまけのおまけ
実は、この記事を書いた後で、創価瓦解さんがフルナさん宛へのコメントで
*****一部抜粋、引用*****
超然とした態度で抽象論を書くフルナさんの文章のほうがよほど不愉快です。
nanaさんと批判者はフルナさんの掌の上にいるんでしょうかねえ?
*****ここまで、以下省略*****
って書いてはりました。キャー(^_-)-☆、創価瓦解さんスキヨ~~(わめさん風)
この後、フルナさんと創価瓦解さんのやりとりがチョイあって話は収束したんやけど、私も感じてた事をズバリ書いてはったんで便秘みたいな気分がスカッとしました。
(終わった話を蒸し返してすんまへん。この記事をUPする前に言われてしもた~って感じやね)
学会員さんだけやなく宗教色が強い人に対しても感じてる事なんやけど、個人の価値観であるはずの宗教観を平然と断言してしまうことに対して私は不快感を感じるんやね。なんや上からもの言われてるみたいで。
某ブログで「すべては必然。この世に偶然なんてありませんよ。偶然と思うのは、自然の法則を無視する人間の傲慢さです。好むと好まざるとに関らず、この世の一切は、因果の理法に基いています。」ってコメントに書いてた人がいたんやけど、このコメントなんてその典型やね。
豪華絢爛コメンテーターから一斉に反論されてはりました。
「10進数で1+1=2です」って断言するのんとは違うんやから、「私はこういう風に思いますよ」とか「仏教ではこんな考え方ですよ」って言えばええのに。
な~んて・・・思ったり。
全ての生物に感謝し、自分の血肉として生き続けてもらうべく「食べる」。
けっして快楽の為に、殺傷はしない。
この程度の考えなんですけど、私のこどもには、「命を喰らい皆生きている」との認識は持つ様、話しています。
両親もこどもの「糧」なんだよ、と・・・。
不殺生戒のことは、nanaさんに対し書きました。同じ仏教徒として、ぼくはこうだけど、あなたはどうなの?という意味で。
それに対して、あきあこさんから説明を求められたので、自分なりの説明をしました。ぼくは、これまで一度たりとも他人に不殺生を奨めたことはありません。すべて、自分の心を清らかにするためにしていることです。
それから、ここはあきあこさんのブログです。ぼくの書き込みが超然としていてお気に召さないのであれば、もっと早く言ってほしかったです。それを承知でコメントを続けるほど、ぼくは厚顔無恥ではありません。
無宗教で
無神論者で
仏教徒
だと自認しております。
仏教をやってる人達とか、心の修行をしている人達は、何で殺したらいかんのかを自分の心の中で探っていかねばいけませんが。
瞑想修行者にとっては、生き物を殺すときの殺意の感情を嫌うのですよ。
この感情を抱いたまま瞑想しても、あまり瞑想がうまくいかないので、瞑想修行者は何とか殺生をさけようとしますね。
この意見は、あくまでも僕の体感からきた意見なので、他の仏教徒の方に聞いたらまた違う意見が聞けるのではないでしょうか。
後、ウイルスとか植物は殺生になるの?てことですが、僕は殺生になると思います。
>「お前らゴチャゴチャ人に説教する前に、宗教に迷惑したり苦しんでる人たくさんいるんやから、それを先になんとかせえよ!」
あきあこさんの心の叫びが痛いですね。
宗教って心とか生命とかを何らかで定義付け、人々はその何らかが必ずしも高くないとし、より高みに上るようにとの教えのように思います。
”必ずしも高くないとし→より高みに上るようにとの教え”である以上、それを信じる人や周囲の人の中には、どうしても宗教に迷惑したり苦しんだりする人が生じるのは必然だと思います。
「心とか生命とかを何らかで定義付け」・「人々はその何らかが必ずしも高くない」・「より高みに上るようにとの教え」・「それを信じる」等々それぞれの固定観念がまずいのじゃないかと思ったりします。
多くの宗教は、その固定観念を説くものですから、それ自体が原因であり、張本人じゃないかと思います。
えっと、わめの掲示板でわめが、
『人間の不幸は智慧が足りないことよりも、この人の持つ固定観念こそがその根源ではないかと・・・』と書いたのですが、それに対しLeoさんが大変よいと思うお返事をしてくださいましたので、最後に引用させていただきます。
Leoさん
『【固定観念】
「心の中にこり固まっていて、他人の意見や周りの状況によって変化せず、行動を規定するような観念。固着観念。」
(『大辞林 第二版』)
固定観念はこり固まって変化しないこと。それに対して世の中は変化している。
変化しない自分と変化する世の中のギャップが不幸のもとでしょうか。
そもそも人類の進化はまわりの変化に対応した結果ですから変化を拒むのは進化や進歩をやめることです。』
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1122859737/nt42
あきあこさんの文章はユーモアがあり、読む人を惹きつける魅力があることは認めます。ただ、本日の記事を書かれた経過には納得がいきません。
少し前(↓)にも書いたように、不殺生戒のことは、nanaさんが提起した生命の話に対して自分の体験としてnanaさん宛に書いたものであり、他の方に対してそれを宣揚するものではありませんでした。それを、あきあこさんが質問してきた訳です。ぼくは、お人好しゆえ不殺生戒に対する自身の見解と長老の見解を披露しました。
それをあきあこさんはブログのネタとして利用した訳です。ネタにされただけなら問題はありません。自分の嫌いな宗教が偉そうに説教をするのがけしからん、という結論を導くためにぼくに誘導尋問をしたのです。
繰り返しますが、ぼくは不殺生戒について偉そうに説教などしていません。尋ねられたから答えはしましたが。
それから、
>アッ!誤解しんといて欲しいんやけど、↑はフルナさん個人へのメッセージやなくて、宗教界全体に向けたメッセージやで。
このように付け足してはいますが、このブログで不殺生戒のことを書いたのはぼくだけです。ということは、結局ぼくに向けたメッセージであると捉えるのが自然でしょう。
まとまりのない文章になってしまいましたが、ぼく個人と言うより、尊敬する釈尊が貶められたことが残念でなりません。したがって、今後二度と書き込みしないことをここにお誓い申し上げます。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
不殺生戒はフルナさんが作られた造語ではありません。
ですからこの記事は、フルナさんの不殺生戒の発言がキッカケであるとは思いますが、フルナさん個人に向けたメッセージと取るのは不自然なように思います。
あきあこさんの言いたいことも、記事タイは「不殺生戒について」としながらも、『宗教を突き詰めていくと、よけい人が不幸になったり一般人の道徳観とかけ離れていったりするような気がするな。』であるように思いますし。
またウ○コの話をしろというんですか、困りますねえ。
影でウ○コさんと呼ばれていた人の話・・・はやめておいて・・・まともな話をします。
生物の力関係の頂点に人間がいるからこそ不殺生戒なんてことを考える余裕があるんでしょう。
人間以外の生物にしてみりゃ、そんな考えなど及びもつかないでしょう。
だから他の方も書いておられるように、無用の殺生をしないという解釈なんじゃないかな。
なんせ宗教は解釈が命ですから、おかしな解釈して「われらこそ唯一正しい教え」ということになりもすれば、道徳的解釈で人の心に安寧をもたらすこともある。
だから「無用の殺生をしない」というのが妥当なところじゃないかなあ。
食物連鎖以外にも、人間は他の命の上に生活をしているという事実(概念でも解釈でもない)があるのだから、原理主義的に不殺生戒を捉えるとその概念自体に矛盾があることに苦しむだけでしょう・・・唯一正しいと称する教えをすっかり信じ込んで周囲に迷惑をかけてしまうのと同じように。
>私見ですが「宗教、思想、政治は個人の自由」という信条をもっています。その他にも言論や表現の自由も大切なもんやと考えています。例え迷惑だらけで世間から奇異に思える宗教団体でもその宗教思想や教義を法律で制限したり、弾圧することには否定的です。
全面的に同意します。
要するに「私はあなたの考えには100%反対だけど、あなたがそれを主張する権利は100%守る」というスタンスですよね。
おおお、と思ったのでイキオイでコメント入れてますが、只今眠気でアマタがほぼ働いてません。変なこと書いてたらごめんなさいです。すっきりしてからまた書きます。
ドラマについてもコメントしたいんだけどなぁ。いろいろあって絞りきれない。
あと、「道楽猫」サイト探してくださったようで申し訳ありません(汗)。
別にもったいつけてヒミツにするほどのサイトじゃないのでURL欄にアドレス入れておきますね。
学会関連のブログですがなかなか進みません。本サイトも放置気味だし。あきあこさんのマメさを分けてほしいです^^;;