察度王統・英祖王統・瞬天王統・天孫王統は
琉球の正史である、歴史書に記されているが
琉球の歴史書は歴史家、研究者にとって、信頼度は低い
史書は、時の為政者の政治的背景に影響を受け
書かれたものであるから、史実として
全てを受け取ることが出来ないとしている
でも、琉球史を知るうえで第一級の資料と述べている
察度は明王朝との朝貢
日本や高麗、東南アジア諸国と貿易を行い
琉球国を交易中継地として行う事によって
経済や文化を大きく発展させた
この朝貢関係が明国の歴史書に
事細かく記録されているため
察度王は実在した人物としている
察度王は1396年死去、在位四十六年、七十五歳だった
察度王の世子である武寧が四十一歳の頃二代目に即位した
この武寧が琉球国で始めて、1402年に冊封を求めた
明王朝永楽帝は求めに応じ武寧を冊封するため使節を派遣する
琉球国の王が、即位する度に冊封が送られ継続される
琉球国最後の王第二尚氏十九代尚泰王(1866年)の冊封まで
明王朝時代には17回、清王朝時代8回460年以上に渡って
合計25回冊封使が送られた
冊封を受け名実共に中山王として即位した
武寧王は、史書によると、父の遺命に背き色欲を好み
群臣の賢か否かの見分ける事も出来ず
そのため各地域の按司たちは離反していった
その頃、尚恩紹、巴志親子が
佐敷グシクを拠点に勢力、拡大していた
尚親子が1406年に中山に攻め入り、武寧を滅ぼした
察度王統は、二代、五十五年で滅びた