本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

『本能寺の変 431年目の真実』エピローグ

2018年09月01日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
 拙著『本能寺の変 431年目の真実』を「奇説」として葬ろうとしている方々が恐れているのは、このエピローグに書かれた認識が世の中に広まることのようです。彼らの批判がこの文章の範囲にとどまっていることから推理できます。研究者の主張に具体性がなく(たとえば何が奇説だと言っているのかすら不明)、この文章だけ読んだ研究者が「徳川家康黒幕説」だと早とちりしていることとも合致します(それにしても?とは思いますが)。
 なお、この研究者を支えているのが某団体系のネトウヨ集団であることも見えてきます。ネトウヨと理解すると、批判に具体性も論理性もなくプロパガンダのみに徹している理由もSNSで罵詈雑言を書いてネトウヨを煽って楽しんでいる理由もわかります。ベストセラーの背景には、こういうこともあったのでしょうか。

エピローグ【本能寺の変の定説を固めた国策】
 信長・秀吉の政権で起きた三つの事件、光秀謀反・利休切腹・秀次切腹は「唐入り」でつながっていたのだ。そのことを豊臣秀吉は隠したかった。自分の推進する唐入りに反対者がいて、その阻止のために謀反が企てられたことを公にしたくなかったからだ。だから、いずれも当事者の悪事に原因があると公式発表した。
 これが歴史の定説となったわけであるが、定説を固める上で重要な役割を果たしたのが明治維新以降、太平洋戦争に至るまでの我が国の国策である。明治政府の富国強兵策の行きつく先には中国大陸侵攻、つまり「唐入り」が待っていた。唐入りを進める政府は秀吉と全く同じことを考えたのだ。国家の英雄・軍神秀吉の唐入り阻止が事件の原因であっては困るのだ。自分たちの推進する唐入りに反対する非国民がいるわけがないように、秀吉の唐入りに反対した者などいるはずがないのだ。こうして定説の固定化が行なわれた。
 「光秀は、かねてから、その主のきびしい仕打を怨んでいたので、本能寺の警戒がてうすいのにつけこんで、にわかにそむいて攻めかかった」
 「信長は、さきに天皇のおおせを受けて以来、早く天下を平げて、御心をおやすめ申そうとつとめ、今ひといきでその大事業を成しとげようとしていたのに、たちまち逆臣の手にかかってたおれたのは、まことに惜しいことである」
 「この談判中、たまたま本能寺の変のしらせがあった。秀吉は、和睦の約束を結ぶと、すぐさま兵をかえし、一気におし進んで、光秀を山城(やましろ)の山崎にうち滅ぼした。本能寺の変からこの時まで、わずかに十一日である。そのすばしこいのには、ただただ驚くのほかはない」
 「秀吉は、ひくい身分から起って、すぐれた知勇をもって国内を平げ、深く皇室を尊び、人民を安んじ、その上、外征の軍を起して、国威を海外にまでかがやかした豪傑である。けれども、また一方では、きはやさしい、なさけ深い人であった」
 これらは昭和十年(一九三五)から尋常小学校で使われた『尋常小学国史』の記述である(旧かなを現代かなに書き換えた)。定説のストーリーだけでなく、それに対する国家的道徳観までをも含めて広く小学生から教育が行なわれたのである。
 歴史研究にもこの影響が及ばないわけがない。秀吉研究には聖域ができ、光秀謀反・利休切腹・秀次切腹は全く真実とはかけ離れた領域で研究が行なわれてきたのである。その結果、軍記物依存の三面記事史観を誰もおかしいと感じないまま現在にいたってしまったのだ。
 「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」とはドイツの鉄血宰相といわれたビスマルクの言葉だ。歴史に学ぶとは、自分とは異なる経験・思考・能力を有する先人の存在を認め、その人物の真実にどれだけ肉薄するかという精神活動であろう。だから新たな発見があるのだ。自分の経験に先人を当てはめて自分の器で解釈することは歴史に学ぶのではなく、自分の経験を正当化しているに過ぎない。三面記事史観は歴史を面白おかしくとらえて、自分の経験を正当化するには恰好のものだったのだ。人は易きに流れるものである。
 織田信長や豊臣秀吉の唐入りは彼らの誇大妄想ではなかった。「御恩と奉公」の時代には領地の拡大が武将にとっては必然の目的であり、天下統一した後には国外に領地を求めるしかないと考えるのも必然の論理だった。唐入りは天下統一の先にある戦国武将の論理の帰結だったのだ。
 徳川家康はその論理を断ち切ることによって二百六十年の平和国家を実現した。国外に土地を求めるのではなく、国内で土地を回す仕組みを作ったのである。それが改易、すなわち大名の取り潰しだ。失態を犯した大名を取り潰して空いた土地を手柄のあった大名に与える仕組みである。江戸時代には百六十家もの大名が改易されている。
 家康は唐入り政策を破棄し、秀吉による侵攻の傷跡を埋めるべく朝鮮との善隣外交に力を入れた。朝鮮からは二百六十年の間に十二回に及ぶ通信使、すなわち#誼#よしみ#を通じる外交・文化の大使節団が訪れ、日本各地で大歓迎され、日朝友好の蜜月を築いた。
 ところが、明治政府は家康によって破却されていた豊国神社を再興して秀吉を神として祀り、逆に徳川幕府の平和国家・善隣外交の理念と仕組みを破却した。その結果、昭和の時代に至って再び唐入り(中国大陸侵攻)へと進んでしまったことはよく知るところである。我が国は歴史に学ばなかったのである
 現代人は信長・秀吉を初めとする戦国武将がどれほど領地の拡大にこだわったかを理解できないであろう。しかし、武将を企業の社長、領地を利潤に置き換えてみれば、それは正に現代に起きていることと同じだ。企業は利潤の拡大を求め続けた。国内市場で限られたパイを取り合った後には、国外の市場を求めて海外へ進出した。その活動はグローバリズムと称して留まることを知らずに続いている。
 さて、戦国武将が子の代の生存と繁栄に責任を果たそうとした思いを現代人は共感できるであろうか。自分自身がどう生きるかに追われて、その思いは希薄な気がする。次世代のために何をなすべきか、何を残して何を残さざるべきかを考えることにもっと頭脳と時間を使わねばならないのではなかろうか
 大きな歴史の構図を見失った三面記事史観からは何も学ぶことはできない。戦国時代の本当の歴史に学ぶことによって何かが見付かるはずだ。本書がその一助となれば幸いである
 >>> 歴史学者が明智憲三郎を奇説と攻撃するわけ

 9月27日河出書房新社より発売『光秀からの遺言 436年後の発見』
 >>> 河出書房新社のページ

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

織田信長435年目の真実 (幻冬舎文庫) [ 明智憲三郎 ]価格:583円(税込、送料無料) (2018/6/18時点)


織田信長 435年目の真実 (幻冬舎文庫)
クリエーター情報なし
幻冬舎


「本能寺の変」は変だ! 435年目の再審請求
クリエーター情報なし
文芸社


「本能寺の変」は変だ! 435年目の再審請求 (文芸社文庫)
クリエーター情報なし
文芸社

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 卑弥呼は何者?総合的に説明... | トップ | 歴史研究者の矜持 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

通説・俗説・虚説を斬る!」カテゴリの最新記事