本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

「春日局は家光の生母」の歴史捜査

2012年07月16日 | 歴史捜査レポート
 徳川三代将軍家光乳母・春日局は家光の生母だったのではないかという話は「歴史の秘話」のような、あるいは「とんでも話」のような扱いで語られています。
 状況証拠だけ見ると、春日局の家光に対する態度(生母以上に生母のような)も乳母のレベルを越えた幕府からの春日局の扱いも、生母とみた方が妥当性があるように思えます。
 でも、それは俗説にすぎないと思っていたのですが、今一度、その話の原点を確認してみました。
 
 その根拠とされる史料は江戸城に存在した紅葉山文庫の蔵書である『松のさかへ(栄え)』という本です。
 この本は『史籍雑纂』第2巻に収録されています。
 先日、国会図書館へ行ってコピーをとってきました。
 この本は、下記の目次となっています。
巻一 東照宮様御文
   本多忠勝公聞書ならびに御遺言
   黒田長政公御遺言
巻二 井伊家蔵書写し
巻三 井伊直孝公御夜話ならびに御遺訓
   など(以下省略)

 一読して、内容は徳川家の内部事情に通じた人物、特に家康にも近い人物が書いた内内の話とみられます。
 巻一の「東照宮様御文」は家康が息子・秀忠の正室・江へ子供の教育についての訓戒を述べたものになっています。信長の命によって切腹させた息子・信康への教育の失敗についても書かれており、家康でないと語れない内容だと思います。
 その文末に下記の記述があります。

 秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局
        三世将軍家光公也
 同御二男 國松君 御腹 御臺所
        駿河大納言忠長公也

 家光(竹千代)の生母(「御腹」)は春日局、弟・忠長(國松)の生母は正室・江と書いてあるのです。
 家光が三代将軍を継いだのは元和九年(1623)、家光が弟・忠長を切腹させた(この史実も生母の違いを裏付けます)のは寛永十年(1633)ですので、この文書はこの10年間のどこかで書かれたことになります。
 春日局が没したのは寛永二十年(1643)ですので、正に春日局が江戸城での絶頂期に書かれた文書ということになります。
 そのような時代に書かれて、江戸城の文庫に所蔵された史料に春日局や徳川幕府が否定したい、あるいは秘密にしたい話が書かれるでしょうか?そして明治時代まで隠されることもなく残るものでしょうか

 徳川家の将軍十五代の内、正室の子が将軍となった例は家光以外には家康と十五代慶喜しかいません。家光が正室の子であることの方が異例なのです。家光の生母が春日局であることは当時の徳川家では何ら不思議なことでも何でもなく、単に現代の私達だけが後世の歴史学者の操作によってコントロールされて、「あり得ない!」と思っているだけなのでは?信長による家康討ちのごとく! ここにも虚心坦懐に捜査し直すべき歴史がありました。
 >>>続き(生母と書いた史料がもうひとつありました)

 ★ 「信長による家康討ち」関連ページ

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 『本能寺の変 四二七年目の真実』のあらすじはこちらをご覧ください。
 また、読者の書評はこちらです
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本能寺の変 四二七年目の真実
明智 憲三郎
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5 コメント

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私の憶測で申し訳ありませんが・・・ (まっつん)
2012-07-29 22:34:00
明智様 私は以前この話を最初に聞いた時「秀頼は秀吉の実子ではない」等 父親が違うというのは大いにあり得る(真実を隠蔽出来る)が「母親が違う」というのは「あり得ない!」(隠蔽できない)だろうと思っておりました・・・ 
しかし、今まで数々の鋭い視点から歴史捜査をされ、解明された明智様が着目されたという事は、「あり得る」のでは・・・とこの記事を見て思いました。
たまたま本日 図書館で借りた井沢元彦氏の『英傑の日本史 浅井三姉妹編』で 氏は明智様と同じ見解を述べらてました・・・  

家康は 自分の命の恩人である光秀や斎藤利三の恩に報いる為、是非とも秀忠以降の将軍に斎藤利三の血筋を受け継ぐものを望み、そして名も家『光』とした・・・と思えます。
また 土岐明智家の信憑性のある系図も ロクに把握していない私の勝手な憶測で申し訳ないのですが、家光以降の将軍の名 家『綱』 家『宜』 家『継』(綱吉は嫡男でないので違いますが・・・)も何処となく光秀以前の土岐明智家の名を暗示している気がするのは考えすぎでしょうか・・・? しかしながら、周知の通り、その血脈は7代将軍 家継で途絶えてしまい・・・ その血脈とは関係のない紀伊から来た8代将軍 吉宗が 以上の事項を意図的に改竄し一掃したのでは・・・と想像したりしてます・・・

慎重に考えたいですが・・ (明智憲三郎)
2012-07-30 18:38:24
 系図は慎重に取り扱いが必要なので、私も現時点では深堀を行っていません。いずれやりたいとは思いますが、泥沼にはまるかもしれません。
 光秀の父祖として光綱、光継の名を書いているのは『明智軍記』ですので、基本的に信憑性がないとみています。何か他に証拠が見つかれば別ですので、その捜査を少し行っているところです。
 逆に、『明智軍記』が家綱、家継の名前から光綱、光継と書いた可能性はどうでしょうか。『明智軍記』の成立時期が元禄とみられているので、家綱はすでに実在していました。『明智軍記』は明らかに「光秀謀反擁護」のために書かれた(信長にあれだけいじめられたのだから謀反もいたしかたないという)ものですので、何か意図的な創作が行われているかもしれません。
 ところで、家光の側室となって綱吉を産んだ京都の八百屋(?)のお玉さん(「玉の輿」の語源となった)が明智一族だった可能性を調べてみたいと思います。春日局が見つけてきたといわれていることと、玉という名前からの思い付きです。明智一族にとって代表的な女性は細川ガラシャ、すなわち玉ですので。
 
捜査し甲斐がありますね (まっつん)
2012-08-05 22:00:11
なるほど 逆に光綱・光継の名は時の将軍から『明智軍記』が創作した・・・ まさに逆転の発想でね。綱吉の母については全く知りませんでした。徳川将軍家と土岐明智家の関わりは捜査し甲斐がありますね。 わたしがこのような歴史上の血縁関係の謎として他に気になっているのは、「お市は信長の実の妹ではなく、従兄妹(いとこ)では?」はたまた「淀(茶々)は浅井長政とお市の子ではない(ひょっとして信長とお市の子?)」というものです お時間があるときに歴史捜査の一つに加えていただければ・・・と思います。
難しいテーマですが (明智憲三郎)
2012-08-07 22:05:29
 斉藤道三の嫡男・義龍は道三の実子ではなく土岐頼芸の実子だったのか?細川藤孝は将軍・足利義晴の実子だったのか?豊臣秀頼は大野治長の実子だったのか?
 親子関係についてはいろいろ疑問がありますね。
 でも、現代でも証拠が残ることが稀な男女関係のことですので、当時の男女関係を捜査するのは、とても難しいテーマです。
 それでも、興味の尽きないテーマでしょうから、信憑性のある史料が残っているか探してみましょう。ただし、四百年前の男女の身辺捜査ですので、成果は期待しないでください。(多分、秀頼の話が最も確度が高いと思います)
やはり興味深いテーマです (まっつん)
2012-08-08 22:00:44
ありがとうございます!
私が お市が 「信長の妹ではなく従兄妹」説に賛同するのは
① 信長は妹や娘などの近しい女性は殆ど家臣や勢力下に嫁がせており お市だけ浅井という他大名に嫁がせているのは不自然である事
② 単純な直感ですが もう一人の妹「お犬の方」の肖像画は 信長の肖像画とやはり顔だちが似ていますが、お市の方の肖像画はあまり似ていない事

はたまた 淀(茶々)は「浅井長政とお市の子ではない」というのは
①『浅井三代記』に茶々の出生の記述がないとされている
② 二番目の子 の名前が『初』というのは・・・?
③ お市が浅井長政に嫁いだ年齢が晩過ぎると言われているし、信長とお市が実の兄妹でないのなら 2人の子というのもありえる・・・ 

という単純な根拠からです・・・

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