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昭和のプロレス:突然の解雇

2024-09-27 06:29:09 | 日記
鶴田の入団

 <あの当時、先輩では轡田さんと戸口さんが特に後輩に厳しかった>
(蒙古の怪人キラー・カーン自伝 より)
そんな一節を目にして思い出したのがサムソン・クツワダ。
大相撲を廃業して1967年に日プロに入門し、72年10月に全日に移籍。
73年4月からオーストラリアに遠征し注目され、帰国後は中堅選手の地位を確保。
しかし77年末に突然の解雇。
Wikipediaにはそう記されています。
 190cm121kgの大型なので日プロ時代は若手の有望格として注目されました。
その頃日プロに入門したキラー・カーンはデビュー戦で轡田と当たらなかった
ことに安堵して、冒頭の一節を記しています。

 付き人をしていた馬場の独立に伴い全日に移籍すると、貴重な日本人戦力と
して重宝されました。
 旗揚げシリーズの戦績を見てみましょう。
10月21日の前夜祭ではダッチ・サベージとシングル戦を行い11分25秒
に体固めで負け。
翌日の日大講堂での旗揚げ戦ではドン・デヌーチに15分5秒に敗退。
24日はフレッド・ブラッシー、26日はブルーノ・サンマルチノとメイン級の
レスラーと連戦しています。
 シリーズを通しての対戦は、ブラッシーと5戦、サベージとデヌーチと3戦、
サンマルチノ、テリー、ファンクSRと1戦を行い全て敗退。
11月5日には馬場と組みサンマルチノ・デヌーチ組とメインで対戦しています。
 このまま順調に行けば馬場を支えるメインイベンターに成長するのも確実と
思われました。
ところがシリーズ中に轡田の将来に大きな影響を与える事態が起きたのです。
それが10月31日の鶴田友美の入団発表でした。

独立を囁く

 元オリンピック選手の鶴田は轡田に匹敵する肉体の持ち主。
スポーツ万能で入団発表を終えるとすぐさま本場アメリカでの修行に出発し、
帰国後には馬場と組んでタッグ王座を獲得するなどエース路線をまっしぐら。
そんな鶴田に独立を囁いたことが露見して轡田は解雇されてしまったのでした。
 実は轡田と鶴田は全日入門以前に顔を合わせています。
大相撲の朝日山に入った轡田は1962年1月に初土俵を踏み67年9月に廃業。
その朝日山部屋に64年の夏、鶴田が体験入門し新弟子検査にも合格。
現役バリバリの轡田にとっては中学生だった鶴田の存在など眼中になかった
でしょう。

 しかしプロレス界では5年後輩に軽々と追い抜かれてしまいます。
轡田が最後に登場した77年の世界オープンタッグ選手権では鶴田は連日メイン
級に登場。
 一方の轡田は開幕戦から第6戦までは出番なし。
7戦目で漸く鶴田と組んで大木・ドク組と対戦するも負け役。
タッグでこちらも後輩の天龍と当たった際にも負け役。
シ リーズ中に勝利したのは若手相手のシングル3戦のみ。
 後輩の後塵を拝するのに嫌気して、現状打破を目論んだのも詮無い話に
思えてきます。


コメント
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