ちくわブログ

ちくわの夜明け

巨大な田舎と、地図にない街で

2014-06-29 22:50:40 | 映画制作
―そんな時代の風潮が、年端もいかない少年たちが農業を軽視し、「田舎」「百姓」を時代遅れの象徴として侮辱の対象とするように仕向けたと言えるかもしれない。 名古屋自体が「巨大な田舎」と言われることがあるが、こうした差別や侮辱は、父の上昇志向への反発とあいまって、「農業」や「田舎」に対する拘りを私の心の中に形成していったように思う。


革命左派(中京安保共闘)の側から連合赤軍に合流した加藤倫教さんは、自著『連合赤軍 少年A』の中で、中学の頃から芽生えた世の中への違和感を、当時の風潮や名古屋の風景とからめてこのように綴っていました。

「名古屋は巨大な田舎」
という文句は誰が考えたか。よく耳に、目にする言葉です。名古屋で生まれて名古屋で育ったわたしから見てもぴったりと来る文句だと思います。


先日、刈谷市に住む加藤倫教さんを取材するため、名古屋の実家に帰りました。
実家の最寄り駅から刈谷駅までは40分ほどで着いてしまうため、こりゃいいホテル代わりだとばかりに実家を使わせてもらいました。

刈谷市に行くのは初めてでした。
名古屋でJRに乗る機会もなかったので新鮮に感じられました。当時はどこに行くにもケッタマシィーン(自転車)か地下鉄で事足りたのです。

刈谷市は工業都市で、駅前がとくに栄えているわけでもありませんが、通勤や出張のサラリーマンで賑わっています。
整然とした景観が「栄えてはいないが、お金はある地方都市」とイメージさせてくれます。






昼過ぎから、加藤さん宅にてインタビューを撮影。
「連合赤軍」「加藤3兄弟」というキーワードで驚くべきところは、加藤家の3兄弟が全て連合赤軍事件に関わっている点です。
兄・能敬氏は山岳ベース事件の総括リンチにて亡くなり、ご本人である倫教さんと、弟の元久氏は「あさま山荘銃撃戦」に参加している。

「なぜ加藤家の息子全てが『革命左派』に入ったのか」と聞いたところ、すっぱりと「それは、うちの家族が戦後を象徴するような家庭だったからです」と。

加藤さんは常に客観している。それは恐らく、当時未成年で常に山岳ベース内で被指導側の立場だったからだと思う。
その指導側の頂点にいた一人、永田洋子さんに対して「恨んでいますか」と聞くと、迷いなく「憎いです」と言っていた。意外かもしれないが、当事者でここまでキッパリと言う人はなかなかいないように思う。

前述の『連合赤軍 少年A』を読んでいても自らを客観し、父を、世相を、生まれ育った刈谷市、進学した名古屋市を客観して、それら全てが、自らに「あの結果」をもたらしたことを導き出している。
新左翼的な難しい言語ではなく、われわれが感じる「なんで、どうして」を当事者の側から客観的に論理的に系統立てて答えてくれる。

もちろんインタビューでは「兄が殺されてしまったこと」と「山荘内で何が起きていたか」を聞いたのですが、それ以上に加藤さんの、あの独自の「当事者でありながら客観している」視点からの言葉が聞きたいと思っていました。

2時間のつもりが、やはりというかいつもの通り超過して、カメラのタイムコードは3時間40分を過ぎていました。
そろそろ、とインタビューを終え、能敬氏に線香を上げさせて頂く。



出所後、「藤前干潟を守る会」理事、「日本野鳥の会」愛知県支部副支部長を務めつつ、実家の農業を継いだ加藤さん。
その作業風景を撮らせて下さい、と言うと軽トラで近くの畑に連れていってくれました。

インタビュー中のけわしい顔とはうって変わり、朗らかで優しい表情が印象的でした。





さて。


続いて大阪へ。

釜ヶ崎に住む元赤軍派のMさんを訪ね、インタビュー撮影。

通称“釜ヶ崎”。
西成、あいりん地区といろいろ呼び名がありますが、地図で言えば新今宮駅から向こう側一帯、という感じでしょうか。

当時赤軍派は、ドヤ街に拠点を持っていました。大阪は釜ヶ崎、東京の山谷、横浜の寿町……

資料を読んでみれば、釜ヶ崎では当時頻発した暴動を扇動するのに赤軍派のメンバーや関係者がいたのが分かる。
一時的にではあれ「赤軍(厳密にはメンバーと関係者)vsヤクザ」という状態もあったよう。

ただ、これをきっかけに警察が動き、運動が潰されていく一因にもなった。

こういったことを聞くため、釜ヶ崎に現在住んでいる方を取材しました。


釜ヶ崎とわたしの付き合いは、大阪にちょくちょく来るようになった5年ほど前に遡ります。
滞在するのに毎回ビジネスホテルに泊まるのもばからしい…と感じていたので、思い切ってドヤを宿とすることに。これが、思ったより心地よかったのです。
近くに新世界があり、名画座でヤクザ映画を観て、串カツ食って、帰りは歩いてすぐのドヤに戻って寝る。





こうしたことを繰り返し、取材でも何度か釜ヶ崎に入っていきました。

しかしその一方で、内部から強烈に「撮影してはいけない」という雰囲気は感じていました。

今回撮影する、という前提で入り、Mさんが歩く風景を釜ヶ崎の内部で撮影しました。
歩きながらカメラを通して見る風景は、やはり5年前から随分と変わっていました。

とある大きな古い建物は解体され、高架下にあった数々のテントや露店は撤去されている。


風景論がそう言うように、風景は時の権力が変えていく。
釜ヶ崎について書かれた本では

都市の近代化とは、それまでにない新しい権力構造のもとで、都市空間が塗りかえられていく、ということを意味する。
                                         ―「釜ヶ崎のススメ」洛北出版―

とあります。








カメラを回しながら、胸が締め付けられるような、悲しさとも怒りともつかない何とも言えない感情が沸き起こってきました。
何故風景はこんなに簡単に変わるんだろうか。何故自分はこうした変化に全く無関係なんだろうか。
ここ数年ですっかり変わってしまった名古屋の風景を重ねながらそう思いました。


ふと、加藤倫教さんが別れ際に発した言葉を思い出しました。
「この街(刈谷市)は昔から工業都市ですから。街にお金はたくさんあるんです」

何気なく街のことを話している途中に、彼の哲学というか、生き方のような言葉でした。


「辿っていけば、物事には全て理由があります。理由がない事なんてないんです」

コメント
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