赤い傘と一杯の珈琲とちょっと一息

なんとなく考えたことを書き留めていきます。

家族のカタチ

2016-01-21 | 言葉にする
生まれ育った家は、どちらかというと昔ながらの行事や家族のあり方を大事にする方だった。
それがよく分かるのが、お正月とお盆。
事前に家の中の神棚や玄関の掃除、飾り付けをし、親戚がたくさん訪ねてくるので、そのためのもてなしの料理を考える。盆と正月の帰省は、このために帰っているようなもの。今年の年末年始の帰省も、年末は大晦日の家族の晩餐の準備。年始は、年始挨拶に来る親戚のご馳走の準備。朝起きてから夜寝るまで多くの時間を、台所で過ごす。それは、今は亡き祖母も、母も、私も、家の中の女性たちの仕事となっている。男性人は、テレビを見たり出かけてきたり、町内会の付き合いやら、年賀状の印刷。
男と女との役割分担とも言えるし、一方で悪しき風習だと思うところもある。でも、家族みんなで年越しの準備をしたり先祖のことを思ったりするのは、悪いことではないとも思う。

そんな中で、私はいつまでこうやって手伝えるのだろうか、とふと思う。これからどこに就職できるのかもわからないし、仕事柄年末年始は休めるわけでもなさそうだし、結婚したら帰ってこれるのかもわからない。両親はどう思っているのかはわからないけど、母が嫁いできてしてきたことを私はできるとは限らない。でも一方で、じゃあ今までの盆や正月はどうなるのだろう、とも思う。

 「これからは結婚して帰ってきてっていう今までの当たり前が当たり前じゃなくなるからね」という叔母さんの言葉。
確かにそうだ。キャリアプランも多様化しイメージできないものになれば、家族の形も多様化し目に見えないものになる。そんな中で、ああいう大人になりたい、ああいう母になりたい、という自分の行動を評価する指標をどこに求めればいいのか。
 ある意味自由だけれど、自分の評価軸を自分で見出すのもまた大変なことだと思う。

結局は家族のカタチはいろいろあるから、自分と周囲の人との関係の中での「手探り」なのだろう。その「手探り」を楽しめるような余裕があればいいのだけれど。
コメント

2016年

2016-01-08 | 日記
 また新しい年がやってきた。新年の初めには目標を立てる人が多い。
 なぜだろうなと思いながら、このブログを遡ると、あった。1年前の自分も目標を立てていた。
「2015年は、新しい自分をつくる年にしたいです。新しい自分といっても、今の自分や古い自分が嫌いなわけではありません。でも、すこしだけ、自分を広げてみたい、そんな気持ちです。」
 2015年を振り返る。確かに、着慣れた上着を脱ぐ1年だったと思う。でも、脱ぐのは相当に大変で未だに脱ぎ着れていないのが事実。でも、そんな状態の自分を受け入れられるような気がしている。ということは、少しは自分を広げられることはできたのかもしれない。
 2016年。目標は、素直になること。
 今年もよろしくお願いいたします。
コメント